2011年7月1日金曜日

Sivananda Yoga WS スワミ・マハデヴァナンダ 講演

Sivananda Yoga Tokyo Center高円寺オープンを記念して
大阪WSが無事終わりました!!


世界的には大きな組織になっているシヴァナンダヨーガ。
日本ではまだまだ知られていないのですが、今回6月27日の大阪WSでは、予想をはるかに上回る参加をいただきありがとうございました。
こんなに関西にシヴァナンダヨーガをされている人達がいることに驚きました。
そしてみなさんにお会いできたことが嬉しかったです。
それからタイTTCでお世話になった紀子さん、マリオ、イシャンに再会できたこと、
今回のことで、新しくシヴァナンダの友人、ファミリーになった人たちに出会えて、幸せでした。

これを機会に……
ある友人に早く書きなさいとお尻を叩かれてやっとのこと…
ヨーガ堂・土-tsuchi-(大阪茨木市で小さなヨーガ教室をしています)
のブログを開設したいと思いました!
自分でパチパチ!
ブログ・日記が非常に苦手なのですが、トライしてみます。

ヨーガ(サンスクリット語ではヨーガと発音したほうがより近いので、ここではヨーガと書きます。ヨガでも間違いじゃないです)は、コマーシャルでも、ヨーガのイメージが使われるようになり、本当に誰にでも知られるようになってきました。
ヨーガを教えていて感じることは、多くの人が、健康とか自然な生活とか、たくさんの人の志向が自分自身へと、そして自分と環境とのかかわりへと向かうようになっていることだと思います。

そんな中、今回初めての関西でのスワミ・マハデヴァナンダの講演では「祈りの力」というテーマでお話ししていただきました。
祈りも自分自身や環境とのかかわりを感じる、とっても内面的な作業です。
実は、スワミ・マハデヴァナンダジを始め、世界中の人達は今回の震災、原発の事件に関してたくさんの祈りをしていただいていました。

それにしてもヨーガと祈り、ってなかなか難しいテーマでしたよね。
いや難しいのです。特に現代人、日本人にとっては。
祈り…って現代の日本人にとっては、もっとも遠い存在かもしれません。


Sivaram(このブログを書いている本人です)が10年前、アジアからアフリカ、中東を1年と7ヶ月旅したとき感じたことは、
「祈りは生活、人が生きることそのもの」
でした。

チベットの荒野ではなーんにもない大高原にいきなり石が積んであって、カラフルな旗がぽかんとした青空にたなびいていて、どんなところにも祈りが込められていました。
そんな荒野を何百キロも自分の体を地面に倒して進んで(五体投地で)、
聖地を目指して巡礼する人たち…。
「そーなんだよなー…これがチベットだー」としみじみ感動したものです。
インドでは毎日ガンジス川で沐浴している人がいて、
葉っぱの上に花と小さな灯火を川に流していて…。
プージャ、儀式があって。
アフリカ・エチオピアでは、古代のキリスト教が残っていて、それこそなーんにもない岩だらけの荒野に現れる岩山の上に洞穴を作って、ずっと、ずっと、お祈りをしているのです。

トルコ・カッパドキアも、お祈りの場所でした。

スーダンやエジプトの街中にはモスクの祈りの声が流れていて、

ケニアやタンザニア、ウガンダには、大地を素足で歩いている人たちの生きる姿が、
そのもの自然と融け合っていて、プリミティブな祈りがあったような気がします。

日本に帰って10年くらい経つと、世界はそうだったなぁくらいになってしまいました。

日本の生活は祈りが本当に少ないのです。
でもきっと、50年も経たない昔ならば、日本でも当たり前だったと思うです。
いまだって少しは痕跡があります。
田舎にいくと、田んぼの脇の道祖神なんかありますよね。
千と千尋の神隠しの最初のシーンにありますよね。
うちの近く、安威にはちゃんと田んぼの横にあります。

なぜ人は祈るのでしょう。

逆に言うと、

人は、人だから祈ります。
動物は祈るでしょうか?
うちには黒猫の秋さんがいますが、見ていてもどうも祈っていないようです。
動物は、祈らないですよね。


農業をしている人は特にわかるとおもうのです。



苗を育てるところから、土と水の力を知って、温度が季節によって変わって、どのくらいの日にちだったら、作付けするのに適していて……、虫がいて、病気があって
大風や大雨や低温や日照り…
自然力を知っていてもなお、コントロール出来ないことがあります。

自然の力は自分たちの考えをはるかに超えています。

この時、人は自分を越えている大きな法則があることがわかります。
これをヨーガではダルマと言ってます。
私たちは、成長を経て、
このダルマ、自然の法則に逆らわないことを学びます。
どれだけ、豊かな人でもダルマに逆らうことは叶わないです。
たとえばアメリカの大統領だって、アップルのスティーブ・ジョブズだってダルマに逆らうことは出来ません。
政府がどれだけ政策を考えても、
ダルマ、自然の法則に勝てっこないのです。

人は必ず死ぬ、というのも大きなダルマです。大統領だって変えることは出来ません。

原発でも、部分的に人の力を使っていますが、
もともとは、自然・宇宙の本来持っている莫大なエネルギーです。

燃料がメルトダウンして、
格納器を飛び出してメルトスルーしているか、
巨大なエネルギーを出している放射線があまりにも危なっかしくて、
人間ではカメラとか装置を設置することもできなくなっていて、
少し離れた環境の変化から、きっとこうなんじゃないかなーという曖昧な推測でしか、自然のエネルギーを測ることが出来ない状態です。
誰も直接見に行くことができないのです。

こんなふうに、小さなことでも、大きなことでも、環境を、きっと人をも、
コントロールする、ということは出来ない、といこともダルマです。

だからまず、自分たちは自然の法則を謙虚に学ぶ姿勢が必要です。

そして、自分たちは思い通りに自然を、何かをコントロール出来ないことを知らなければ行けないのです。

では、いったい「祈り」とはどういうことなんでしょう。
コントロール出来ないことを祈るのは無意味じゃないでしょうか?

祈りは個人の心を使って、ダルマ、自然の法則に直接アクセスしようとする試みです。

自然の法則にアクセスすればダルマは変わるでしょうか?
きっとダルマは、祈ったところでダルマ、自然の法則のとおり働くでしょう。
(ダルマに沿った祈りは、もちろん行為=祈りに対する答え=リアクションがあります)

では祈りで変わるのは、何でしょう。

まず、個人の心が変わります。

祈りによってダルマにアクセスすると、自分の心がダルマに沿ったものへと変化します。
わたしたちは台風で風に飛ばされるかもしれない稲穂に対して祈ることによって、
自分たちの力でのみ生きていると思い込んでいることを間違いだなーと悟ります。

原発の話で言えば、私たちのからだは、強い放射能に耐えることは出来ないなーということ、
こういったアタリマエのことを祈りによって実感するはずです。

祈りによって理解されることは、
生きていることそのものが祝福なんだな、
ありがたいなぁなんて感じること。
そして他の生き物のためにも、
自然、ダルマに逆らわないでおこうよ、

という選択がわたしたちの中で生まれてきます。
そういう考え、選択が普通に、自然に生まれてきます。

祈りによっておこることは、それ以外にもまだまだあります。

でも今日はこの辺で。

ダルマの説明は難しいよねーっとシヴァナンダヨーガ東京センターのマリオに話をしたら、
(マリオはとってもピュアな眼をもったフランス系のカナダ人で、間違いなく世界でトップクラスのヨーガの修行を積んでいる素敵なヨギーです。)

みんなダルマを「法」って言うから、自由を縛り付けるモノと解釈しがちで、
これはなんだかしたいことを止められるような嫌な感じするよね。
でも、ダルマは「自然な流れのこと」だよ、
と教えてくれました。
流れに逆らうと、大変だよね。
流れに乗っていると、ほら、楽に泳げるじゃない。
と。
マリオが言うと、魔法にかかったように「そうだそうだ、うーん納得するー」と感動してしまいます。

あ、僕のリスニング能力ではそう聞こえました。まちがっていたらごめんなさい。

長い文章になりました!
息切れしないように続けていきますね。

Hari Om Tat Sat

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