ブログが久しぶりになりました。
その間に、いろいろな仕事をしたり、出会いがあったりしておもしろかったです。
なにより車椅子のダンス、
ジェネシス オブ エンターテイメントの撮影をさせていただいたのが、
とても感動的でした。
許可を頂いたので、今回撮影した写真を、しばらくしたらアップしますので、見てください。
さて、さて、ヴェーダーンタのお話を続けていきます。
自我の話をしてみます。
記憶が始まり、過去が生まれて、未来が誕生します。
それはつまり、時間の誕生であり、分別の誕生です。
そこから「私=自我」という考えの機能も働き出します。
自我はエゴともいいます。
エゴという言葉をよく知っている人は、もしかすると、
エゴは良くない、
というイメージがあるかもしれません。
自己中心的、ジコチューなんていう言葉は、このエゴのイメージにぴったりですね。
でも、もともとは、この自我、エゴは大事な考えの機能です。
物事を分ける力が働いて、そして自分と世界を分けて考えるようになって、
時間の誕生から、過去と現在と未来が発生し、
自分の感覚にとって、より自分を安全してくれるものを選択しようとする考えが
その考えこそ自我の誕生になります。
例えば子供の時、
「まぁ、ちゃんとご飯食べれたの。えらいねぇ。かしこいねぇ」なんていう
お母さんの一言一言が自分の喜ばせる感覚を刺激して、つもりつもって記憶となり、
自分を安心させてくれる未来を選択する考えが始まります。
「しっかりごはんを食べると、自分にとっていいことになるんだ」という選択をするようになるのです。
また、成長するに従って「私」というアイデアに変化が生まれてきます。
「あ、わたしはかわいいと言われている」とか、
「あ、ぼくは注目されていて、それが心地良い」
とか、周りの人が「私」という存在を教えてくれるので、
そこから「私」に対するアイデアがさらに細かく分類、分別されていきます。
私が母親の胎内でひとつであった時、私と区切る外界、世界が無く
何も所有せず、なにも奪われることのない私は、安全を選択することはありません。
けれども、生まれて母親から引き離された時、
失われた温もりを探すようになります。
安心したいという感覚を生みます。
「この寒さを感じる感覚を生むこのからだとこころを守りたい」
これが「自我」のはじまりです。
エゴは本来の姿は、この体と感覚を守ろうとする考えであり、とっても大事な機能です。
これがなくては、恐れ知らずとなって、
すぐにこの体と考えをむちゃくちゃに使用するかもしれません。
そうすれば、大事なこの体も心も失うことになってしまいます。
一方で、人間が獲得したこのエゴの働きは非常に強力です。
自我=「この体と感覚を守ろうとする考え」は、いつの間にか
自我=「自分とは、この体や考えだ」に変えてしまいます。
自分とはこの体であり、自分とはこの考えである、という考えからどういったことが起こるでしょう。
この体と考えの安全のためにする行動をジコチュー化してしまうのです。
エゴは、限界のあるこの体と考えを安全にするためには、
大きな世界と比べてどれだけ自分が優れているかを探すようになります。
優れていれば安全だからです。
例えば、私は他の人よりお金を持っていれば安全だという考えに飛びつこうとします。
お金を持っていれば、この体には美味しい食べ物を与えることも出来れば、
異性にもてて、すてきな人と結婚することも可能にさせます。
お金があれば自分に価値があるように感じるようになります。
あるいは、この大事な美貌や、この他の人とは比べものにならない才能、プライドが私であり、
私は誰よりも一番だという考えにとりつかれてしまいがちです。
私は他の人をコントロールすることで、自分が一番だと感じるかもしれません。
そうすれば、私を脅かすものはなくなるのです。
その反対の考えも自我の働きです。
私こそこの宇宙で一番惨めで、寂しくて、孤独で、生きている価値のない、
どうしようもない虫けらなんだ、と決めつけてしまうかもしれません。
私は世界と比べていかにちっぽけで、
なにも持っていなくて、足りない、
だから、世界は怖くて、恐怖に満ちあふれていて、
自分は孤独で、力のない存在、
これこそが「私」だと決めてしまうのです。
私=体・こころが安全でありたい、けれどもそうではない、と感じるから。
自我はこんなふうに劣等感もつくりだすのですね。
自分の考え方の根底にある問題がすこしずつ明らかになってきたでしょうか。
エゴって怖い?
というタイトルですが、実は、エゴこそ怖いという考えの始まりです。
つまり、エゴは自らの考えであるエゴさえも怖い。というのが正しいということです。
おもしろいですね。
さて、次はようやくセルフの話をしてみます。