2017年11月30日木曜日

壁を壊すとみえてくること


このひと月の間、壁を壊したり、壁を作ったりしていました。

あたらしい土-tsuchi-は多くの人のとの出会いから繋がってきた場所と土と家。

古民家というには新しい築40年の中古住宅を夏の終わり頃に紹介いただいて、拠点をこの地に決め、秋からDIYで工事を進めているのです。


***** 以下農地を含んだ家屋の売買について細かい話 ******
農地も含んでいたので(かなり広いです)大家さんとの契約書の作成だけでは売買は成立しません。
農地は許可なく売買はできないという法律があるというのを今回初めて知りました。その許可をするのが市町村の農業委員会だということで、地域によってはその許可をもらうのがかなり困難な場合があるそうです。
町農業委員会への農地譲渡の申請が必要で、申請には土地の写真を取ること、役場が出している農地の図面、一般の地図の図面、農地を使うにあたっての計画書などを書きました。

移住者の場合の家の購入や改修には町からの補助金が申請できるのですが、このための申請書作成もかなり複雑で、契約を取り交わす前に出す書類、契約書と領収書と住民票と申請書、農業委員会からの許可をもらってからの登記謄本の提出などなど、思い出せないぐらいの手順がありました。複雑ですので、役場にはなんども足を運ぶことが必要になります。
また、ご近所の農業委員会のメンバーの方がこの家を購入することや書類の作成などいろいろな助言をもらいました。この人がいなければ簡単には進まなかったことがたくさんあります。そんな「この人がいなければ」という方が他にもたくさんいて、いろいろな縁でここに移り住むことができています。
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40年の家は、壁は土壁、そして内装に一部石膏ボードが使われていました。

土壁は壊しやすく、そして壊しても自然に帰っていきます。

吸湿性があり、耐熱であり、蔵のように厚くすれば断熱や蓄熱にもなります。

土壁は作っていく工程が長くかかるため、また職人さんも減ってきていて、最近は作られなくなっているようです。



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この家の場合、土壁に8mmほどのモルタルが塗ってあり、その上から砂壁になっていました。

モルタルを剥がすと土があり、土は竹の編んだものを心材にして藁と一緒に練り込まれていました。

新建材だと石膏ボードなどになるでしょうけれども、すぐに土に帰る、というわけにはいかず、少し手間がかかります。

剥がすときもたくさんの釘かビスがあり、それを支える木材にも釘がたくさん使われているので、手間がかかります。

新しい壁を土壁にしたかったのですが、トイレ周りは日程の都合上、今回は合板、下地材、珪藻土の塗り壁にしています。
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家の壁もそうですが、人生にも目の前に壁が出てくるときがあります。

そんな壁を壊すことも時には必要になるかと思います。

いつもは壁を壊すなんてことは考えもつかないかもしれないけれど、

家族の構成が変わったときとか、

仕事が変わったときとか、

どうしてもこれは困ったな、というときとか、

ずっとおかしいな、と感じてきたことに気づいたときとか、

いろんなことで壁を越えないといけない。

そんなときは壁を壊すことを考えてみるのも一つの手だと思います。


思いついたはいいけれども、

本当にこの壁を壊してもいいのだろうか?

と考えることもあります。

不安だから、止めておこうか。

壁を壊すのはその直前まで不安かもしれません。


でもやっぱり必要ではない壁もあります。

そんなときは思い切って壊してみる。


どーん。

最初の一撃が衝撃的です。

そのあとはメリメリとかバサバサとか、音もホコリもすごい。



壊し始めると、簡単なときがあり、

思ったよりも手強いときもあります。

あ、しまった、ということもおきます。

そんな時は立ち止まったりします。

でも失敗だということは何一つないのだ、と気づくことがあります。



だから、壊す勇気を持ってみること。


慌てずにいれば、頭がクリアになって、目が澄んでくる。

このクリアになった目で見定めることで、

きれいに壊すことが可能になるのだと思います。


壊すことは無心で、何も考えないようでいて、

勉強できることがたくさんできます。

壁の奥には知らなかったことが隠れていたりして、

見た目とは違って複雑な構造だとか、

作った人はこんなことを考えて作ったんだろうな、なんてことが分かる。

その壁を自分が作ったのだとしたら、自分自身がよく分かる。

壊すことで学ぶことがあり、そのことで物事や知識を得る、

そして壊してしまえば、こころが明るくなります。



壊せばそれで終わり、

ではありません。


壊した後は必ず想像があり、創造がおきます。

また新たに壁を作り始めるのです。

人生における壁とは限界や制限のことですよね。

自分で限界を作るといえばなんだかマイナスのイメージかもしれません。

まさか自分でしばりや限界、制限を作るよりも、自由でいることを求めそうなものなのですが、

この壁とは新たなルール、新しい生き方と言えばいいでしょうか。

今までとは違った自分のテーマや乗り越えようという成長のステップとなります。

新たな限界でもあり壁ですが、それがあるために成長があるのです。

いきている間には、そんな新しい壁を乗り越える時がなんどもやってくるのだと思います。

2017年3月11日土曜日

震災と10周年




2011年3月11日は東日本大震災の日です。

同じ日になるのですが、その数年前、2008年3月11日に、

ヨーガ堂・土-tsuchi-初めてのクラスを行いました。

今年は10周年になるわけです。

2011年の3月11日震災のあった時間、

ちょうどラマナ・マハリシの聖地であるアルナーチャラの丘で瞑想をしていました。

マハリシが瞑想していたという岩の祠の中で、目を閉じていると、

ぐるんぐるんと何かのエネルギーが回っているような、そんな感じがしました。

暑い日で、ノドがからからと渇いて町におりました。

山を下りて宿の下にあるネットショップで震災のことを知りました。


震災後、ガネーシャ神とシヴァ神の像に出会うために大都市チェンナイの街を歩き回りました。

ガネーシャは災厄を振り払ってくれる神様です。

その時の日本にはとても必要な神様だと思いました。

やがてようやくガネーシャ神とシヴァ神の像に出逢い、

日本に来ていただけますか?

と心の中で聞いてみました。

OKをいただいたような気がして、

そうして店のご主人と話をすると、

日本は放射能で大変だな。

広島も長崎も大変だったのに。

おまえの家は大丈夫か? と聞いてくれました。

そしてなにもこちらから言っていないのに値引きしてくれました。

そんなわけで、土のガネーシャは震災後の日本を救うためにやってきてくれています。

鳥取県智頭町にやってきて1週間。

まだガネーシャ神は開封を待ったまま、眠っておられます。

はやく家を整えてあげなければ、と思いながら、

今日は冷蔵庫を運ぶだけの一日となってしまいました。

明日は集落の人へのご挨拶。

そんなヨーガ堂・土-tsuchi-の10周年のはじまりです。


2017年1月20日金曜日

子どもとインド






今、インドに来ています。

家族が一人増え、3人になっての初めのインド。

そして、たくさんの日本人の友人たち、生徒たち、ヨーガの先生たち、と一緒に、

また、私たちをいつも正しい知識へと導いてくれる先生、Dr.スンダルとDr.ギーターさん、その子供たち、素敵なスタッフと一緒にいる、ありがたい日々です。




今回のインドでは、今までのインド旅ではなかったことがあります。

一つは子どもと一緒の時間がものすごく長いこと。

子どもとの時間は集中と忍耐が必要になります。
観察にはじまり、遊びも注意もあります。
ときには驚嘆や喜び、感謝につながる。
集中が途切れないという意味では、これは一つの瞑想です。
集中が途切れるときには
イライラや退屈、怒り、疲れになる。

子どもは自分の思い通りになる人形ではないこと。
失敗のように見える体験も、子どもにとっても親にとっても、
とても貴重な一瞬一瞬があり、
どんな風に見えようとも、大人と同じ、一つの尊重すべき人間である、ということ。
集中を続けるためには、この考えを常に心の中心に持っている必要が出てきます。


単純なようで、いつも変化し続けている子ども。
子どもは寝ているか、食べているか、遊んでいます。
その中で、好きなことができているか、できないか、
嫌いなことから逃げられるか、逃げられていないかがあり、
泣いているか、怒っているか、笑っているか、つまらないかの感情があります。

この中で、親としては子どもの基本欲求を満たすための環境を整える仕事がたくさんでてきます。

①アルタ:子どもの安全の確保。危険なものを遠ざけて、怪我のないようにすること。

最低限の食事を整えること。睡眠を妨げないように準備すること。排泄のタイミングをはずさないようにすること。

②カーマ:親や他の人と最大限のコミュニケーションの機会を作ること。

自然に触れ、遊具と遊び、楽しみと学びの機会を見つけていくこと。

③ダルマ:環境との調和、少しずつ外の世界に触れて、世界がどのようになっているかを学ぶこと。他との関係性を体験、経験し、世界の知識を自分の知識としていくこと。
ダルマは周りの世界においてのその人のやるべきこと、義務という意味もあります。子どもはこの世界における自分の位置を確かめるために、少しずつ冒険を続けて昨日よりも今日、今日よりも明日はもっと遠くへ、世界を見ていこうとしています。
そのときの好奇心を消さないよう、大人は干渉しないように見守るというダルマ:義務を持っているのです。
子どもたちのダルマ(仕事)は、環境や人々とのコミュニケーションに挑戦すること、広げていくこと。





これまでのインドと違っていること二つ目は、

ネットを介しての仕事を抱えていること。


このインド行きの直前には家の片付け、引っ越しがあったのですが、

同時に新たな仕事を頼まれて、

急いで多くのことをバタバタとこなしてきましたが、

いよいよインドに来てもその仕事を処理している状態です。

LINEを通じて即座に多くの人の考えがスマートホン越しに飛び込んできます。

まるでそれは日本にいるのと変わりがありません。

それだけどこでも仕事ができるような世の中になってきたということなのでしょうね。