2013年11月15日金曜日

スピリチュアリティ

いま、講師のためのトレーニングを行っているのですが、真ん中に差し掛かっています。

奥深く、広がるヨーガは本当に面白く展開していき、自分たちの成長を助けてくれます。

来年に変えて、私たちはどのように成長していけるでしょうか?

ポストカード、できました。

さて、さて、

ヨーガにおいてわたしたちは二つの手段を使ってスピリチュアリティの道を進みます。

二つの手段とは①クリア(行為)②ブッディ(知性)です。

しかし、まず、そもそもこのスピリチュアリティとは何でしょうか?

スピリチュアル、というときっと3つの反応があると思います。

1つ目は、ハリーポッターのような、魔法のようなイメージです。
運命が開けて、運命の人に出会い、キラキラとした人生が始まる。
なんだか理屈はわからないけれど、すぐに効果がある呪文のようなもの。

2つ目は、あやしい科学とか、宗教のイメージです。
自分はなにかいけないものがくっついているので、
それを浄化しなくてはいけない。
自分には罪があるので、それを償わなくてはいけない。

3つ目はとにかく、こういったことは近づかない方がいい。
無視して、見ないようにしている。
でも姓名判断で、子供の名前はつける。。。。

いずれも、魔法のようなイメージですね。

ヨーガ、ヴェーダーンタではこう考えます。

スピリチュアリティとは、正しい理解、わたしとはどういう存在か、

わたしの目の前の世界、この世界の創造について、創造をしたものは何かを学び理解すること。

これがスピリチュアルということです。

科学だってスピリチュアルに入ってくるし、

さらにそれを超えたヨーガやアーユルベーダやヴェーダーンタも

やはり真実とは何かを追求している意味で、スピリチュアルです。



スピリチュアルを追求するためには、

愛、慈悲、思いやりなどの考えやこころの美しさ、健康さが必要になります。

この考えの健康さを育てるのが、ヨーガです。

本当のこと言えば、健康を育てるというより、

不健康な考え方を避ける、というのがヨーガです。


ヨーガという言葉は、Yuj=結びつける、というサンスクリット語の語源から成り立ちます。

何かを結びつけるとき、他の何かとは引き離します。

たとえば、靴のひもを結ぶときは、反対のことを引き離しています。

ん? 意味が不明?

靴のひもを結ぶときは、ひもがだらしなく垂れ下がっている状態、を引き離します。

あるいはひもがこんがらがって、隣の靴と引っかかっている状態を引き離しています。

そうではないでしょうか?

Yogaで何かと何かを結んでいく時、別の何かを引き離します。

では、考え・こころがだらしなく垂れ下がっている状態とは……

怒りや悲しみ、嫉妬、憎しみ、怨み、悲しみ、無感動…

そういった感情です。

小さいものから、大きい物まで、イライラはどこにでもあふれていて、

無関心もあふれていて、どうしたらこれらの感情から逃れられるのか、

と思うほどですが、

Yogaはどんなところにいても、どんなときでも、平安なこころを取り戻すツールになります。

ヨーガにおいてわたしたちは二つの手段を使ってスピリチュアリティの道を進みます、と

最初に書きました。

その1つ目、①クリア行為としてのツールが、

ヨーガアーサナ、クラスで行っているポーズですね。

それからプラーナーヤーマ、調気法、呼吸法なのです。

2013年10月12日土曜日

デイパックのヨーガ的持ち方

普段の姿勢が肩こりや偏頭痛、腰痛、膝痛につながります。

いまパソコンや、スマートフォンを見ている姿勢はどうなっているでしょう?

あごと肩が前にでて、背中が丸くなっていませんか?

腰が後ろに丸くなっていて、骨盤が後傾している?

肩こりがひどい人はこの姿勢になっているかもしれません。

……と、先日、そんな話をクラスでしていたのです。

そして帰り際にデイパックを背負っている人の姿勢を見ていて、

??

と思いました。

というのも、デイパックには荷物が入っています。重さがあるので、背中に引っ張られます。

ですから、上半身は前に倒れないとバランスが取れません。

背中は丸くなってしまい、肩も、頭も前に倒してしまいます。

つまり、デイパックを背負って歩いていると、

前傾になっているので、背中側の筋肉はあまり使わない。

筋肉は使わないので、背筋を伸ばしていくための力が出ないのです。

それではいけませんよね。

で、考えました。

デイパックは前に持つのがよいのではないか。

外国では後ろからの窃盗を避けるためにも、前にカバンを持つようにします。

デイパック、あるいはそれ以上のバックでさえ前に持つようにします。

そうすると、身体は前に倒れようとするので、

それに負けないように腰から上を後ろに逸らすことになります。

その時に意識的に後ろの肩甲骨を引き寄せて、胸を開いて、

あごを後ろに引いて首の後を伸ばすようにする。

で、やってみています。

今のところ、いい感じがします。

荷物も後ろから取られる心配もなくなるし(笑)

京都だと、外国人がそうして持っていることも多いので、

変な風にはみられませんしね(笑)

……と前回のクラスで話しをした方に提案してみました。

そうしたらけっこう受けてくれたので、

「これはブログに書かせていただきます」と宣言しました。

で、今回のブログは、

ヨーガの話し、普段の姿勢の話ということでした。

あ、ただし、腰が反っている方、

普段背筋が伸びている方、妊婦の方は

腰に負担がかかりますので、ご注意ください。


2013年7月17日水曜日

目には見えない大切なこと

烏丸教室オープンしましたー

が、まだ準備中のところもあり、ばたばたしています。

もう少し、もう少し、と思いながら、進んでいってます。

皆さまからお花と鉢をいただきました。うれしかったです。ありがとうございました!
さて、さて、前回のブログは

五感をさしおいて大切なこととはなにか、でした。



大切なことは目には見えない、

は非常に逆説的だとは思いませんか?

前回のブログであったように、私たちは五感に感じていることから、情報を得ています。

情報はすべて五感が土台となり、五感を元に、すべての考えが成り立ちます。

炎があれば、熱を感じ、光を感じ、煙の匂いを感じます。

次に煙を見ただけで、そこには炎があるという推測が生まれます。

また、火の気がないところからの煙であれば、雷が落ちたのか、電気がショートしたのか、

誰か火の不始末をしたのか、という推論も生まれます。

推論を重ねたもの、それらが確認されてきたものが、学問であり、

正論、正解、と言われます。

そこにも五感が土台となった考え、推理、推論があります。

どの分野の研究においても、たとえ量子力学の研究においても、

最初は研究者の五感に届く範囲のところから、考えが始まります。

1+1は目に見えて触れる範囲です。この算数から、複雑な数学もちゃんと理解されていくのです。

ですから、五感は非常に大切なのです。



にも関わらず、大切なことは目には見えない、のです。

これは、どういうことなのでしょうか。

一つの感覚はひとつの分野においての知識をもたらします。

目は光においての知識をもたらします。

逆に言えば、目は光以外の知識のおいては、知識をもたらしません。

例えば、目で匂いをかぐことはできません。

舌で光を感じることができないように。

五感は五感以外の知識をもたらすことはありません。

五感から様々な考えを生み出すことになりましたが、

それらの考えは、五感の範疇を越えていくことは非常に難しいのです。

つまり、考えやイメージは五感の範囲内に入っていて、そのイメージを超えることがあったとき、

その人は、「想像がつかない」、ということになります。

例えば、私たちは宇宙の始まりをイメージすることはできません。

その時、光もなければ、時間もなく、空間もなかったといいます。

時間や空間がなければ、音も、光も、匂いも、味も、触感もありません。

音も光も匂いも味も触感も、すべて空間と時間によって成り立っています。

ですから、空間や時間がない宇宙の始まりはイメージ出来ません。

イメージ出来ないけれど、宇宙の始まりは私たちのこの宇宙の土台となっています。

その土台があることで、この五感に届く宇宙が存在できます。


ヨーガではマントラを唱えたりします。

マントラには意味があり、音があります。

そこには祈りがあり、真実があり、効果、結果が生まれます。

どうしてそんな結果が生まれるのか、原因と結果の結びつきは目には見えません。

宇宙の始まりも目には見えないけれど、マントラの力も目には見えません。

ですが盲目的にそれを信じているわけではありません。

疑いを持つことも許されます。

けれども、過去の賢者たち、先生たちが教え継いできた伝統について、否定せず、

疑いを少し棚上げして、真似してみることはできます。

もし私が五感に届く範疇のことしか知らないのだ、

イメージを超えたことは考えることもできない、ということを知っていれば、

謙虚になって伝統を尊重することができます。



先日、とある仕事中に、

口の中でボソボソとマントラを唱えていました。

ヨーガの講師をしていたわけではなく、接客やパソコン業務などの裏方です。

誰にも聞こえるはずもない小声だったのですが、

前に座っていた中国人通訳のスタッフが、ガバっと振り返って、

「山口さん、いまお経を唱えているでしょ!」とニッコリしながら言うのです。

驚くと、ねえ、やっぱり、と答えて、

「彼女もわかってるよ」と隣の中国人通訳のスタッフを指さしたのです。

その人は霊感が強いのだそう。


よく話を聞いてみれば、二人は中国系仏教を信仰しているとのことで、

人を傷つけないこと、人のために良いことをすること、お経を唱えること、

などを実践しているのだそうです。


中国人の方と仕事をする機会が多いのですが、

たいていは、自分が傷つかないようにすること、

自分のためになることをすること、

お金のためになんでもすること、

が当たり前になっている事が多いのです。


「私の宗教が良くて、他の宗教を信じているのだめ、といって人を攻撃することはいけません」

と言うので、ますますびっくりしました。

中国はチベットをはじめとする少数民族を弾圧する政策を何十年も続けています。

彼女たちの考えと今の中国政府はまるっきり逆かもしれません。



かつて仏教が栄えた中国。

老子・荘子、道教、孔子の儒教を生んだ中国。

  老荘思想はこの宇宙・自然には目には見えない法則があるということ、

  その法則のもとに人間にも法則がある、という考えです。

  儒教はWikipediaによれば、仁、つまり心=考えを大事にしており、

  「人の財産は家柄、財産、コネよりもむしろ教育と徳性によって決められるべきだ」

  という考えだそうです。これらも目には見えない心が大切だという教えです。



今回であった中国のスタッフたち、

かつての中国はみなこのようだったのかもしれませんね。


ニュースではあまりいい話題がない最近ですが、

どの国でも目には見えないものの大切さがもっと理解されていったならば、

この地球はもっと素敵だろうな、と思うのです。

2013年7月8日月曜日

目には見えないけれど

サン=テグジュペリの『星の王子さま』は何度読んでも、不思議な魅力のある本でした。

こどものほうが素直に読めるかもしれませんが、出会ったのが大学生だったので、

なんだろう、これは、と困惑しながら読んだ気がします。

そのなかで、

大切なことは、目には見えないんだよ

Le plus important est invisible

という言葉がありました。

フランス語を直訳すれば、「最も大事なことは目に見えない」となります。

あ、直訳もほとんど変わらないですね。



そう、大事なことは目に見えるものではない、とサン=テグジュペリは作品の中で言います。

目には見えないもの、の反対は、「目に見えるもの」。ですね。

では逆に言えば、目に見えることは大事ではないのか。

そういう意味がふくまれていたのでしょうか。


ここで目に見えるものとは、目だけではありません、

触覚や味覚や聴覚や嗅覚など五感に届くもの、ということです。

私たちにとって五感に届くものは、すべての情報の基礎になります。

五感から得た情報が土台となって、そこから「考え」が始まります。


すべての「考え」は五感によって得られた情報からしか、始まりません。

たとえば、私は親に食べ物を食べさせてもらっている赤ん坊であるとします。

目の前に白い色を視覚的に知ります。

触れると弾力があり、ある程度の固形のものであることを知ります。

口に含むと味があり、食べられるものであることを知ります。

香りが、さらに体にとって必要なものであることを知らせてくれます。

弾力のある固形物で味と香りがありという情報が五感によって知られます。

そこに名前があることを知ります。「うどん」といいます。

「うどん」は「そば」や「パスタ」と同じ仲間で、食べられるものであること、を知ります。

そのうちに「うどん」という音だけで、自分の頭のなかには、ある程度の具体性を持った

考え、感情や欲望が生まれます。

五感がすべての情報を与えてくれたおかげで、考えが生まれました。

ですから、五感がなければ、考えすら生まれません。

目に見える、ということはとても大事ですよね。


ではそんな大事な五感をさしおいて、それを超える大事なことがある、

というのがサン=テグジュペリの言葉です。

それは一体どういうことなんでしょうか?


続きはまた次回に。


さて、昨日は烏丸教室のプレ・オープンクラス初日でした。

ありがたいことに初めての方がいらしてくれて、無事に第一回目のクラスをさせて頂きました。

というか、Nana先生のクラスに参加させてもらって、久しぶりにヨーガクラスを

受けることができました。

最後のリラクゼーションポーズ=シャバーサナは、くまモン畳さんのお陰で、意識がなく、

久しぶりに、いったい私は誰、ここはどこ?

Who Am I 瞑想でした(笑)

ようやく、少しずつ準備ができてきて、本当に感謝です。


シュリーと書かれている砂マンダラです
インドにて

2013年5月31日金曜日

結婚はヨーガ?

明日は親戚の結婚式があります。
6月ですからジューン・ブライドですね。
6月の花嫁、です。

ヨーロッパでは6月の花嫁は幸せになれるといういくつかの伝説があるそうです。
なかでも素敵な伝説では、6月Juneはローマ神話で結婚をつかさどる女神である「JUNO」に由来し、結婚や女性の権利を守護することから、6月の花嫁は幸せになれるんだそうですよ。

インドではお月様は、チャンドラという女神です。チャンドラはまた、ヴァルナともいい、月は神々のお酒の杯といわれます。
お酒、神酒ソーマも月の神様。
ソーマとはアムリタ、不死の飲み物のことを指しますね。

このソーマはお酒に似たものではなかったか、といわれますが、特定することは困難だそうです。考えられるのは、日本でも神社での神事や、天皇家の祭り事では大麻を使ったりしていますが、そのような神聖な薬草やきのこだったかもしれません。


なんにせよ、霊薬であり、神様と交流するための道具だったのでしょう。

さて、昔はこのソーマやアムルタ、アムリタのことを、一回飲んでみたいなぁ、なんて考えたりしたものでした。

不死、というところに惹かれていたのではなく、神様と交流することができるんじゃないのか?というところが興味深かったのです。


そういった薬草の話は世界中の古い文明にはたくさんあって、直接神様と交流していた人々がいて、きっと現代人には及びもつかない智慧を得ていたんだろうと想像するのです。
大阪万博記念公園には民族学博物館がありますが、たくさんの展示物を見ればその豊かな智慧が溢れかえっているのが理解出来ます。
個人的には現代美術を見ているよりも、深い智慧が感じられると思うのですが、どうでしょうか……。


さて、アムリタとはなにか……。

アムリタってどこかに生えているすっごいキノコだったり、
洞窟の奥につながっている地下都市の中の秘宝だったり、
そんなことを想像していたのですけれど、そうじゃなかったんです(笑)

ヴェーダーンタを学ぶと、明白になります。
アムリタは不死です。
死なないということは、生まれもしない、ということです。

生まれることなく、死ぬことでもない、
この自分の身体や考えからは自由なものです。それこそアムリタです。

この自分の体や考えは生まれて来ました。
成長し、一瞬たりとも止まることなく変化し続けて、やがで衰えて、
そして死んでしまいます。
生まれてきたものは、必ず死にます。
生まれてきたんだけれども、死なないもの、死ななくなったもの、
というものはあるでしょうか?

そんなものは、この宇宙を探してみてもどこにもありません。

いやいや、私の身体を構成している原子は死なないでしょう?
エネルギーは形を変えるけれど、ずっとありつつけるのでは……?

自分たちの最小単位である素粒子、これはエネルギーですが、素粒子だって宇宙の始まりに生まれてきました。
ですから、素粒子だって、この宇宙だって始まりがあります。

でも原子や素粒子にも終わりがあります。宇宙は最後は一つの収縮をむかえてなくなるか、
泡が次から次へとはじけるようになるのか、わかりませんが、
宇宙も素粒子も始まりがあり、終わりがあります。

ですから、アムリタではないのです。

であれば、アムリタはどこにもないかもしれません。
生まれず、死なないもの、そんなものない!?


ここからは科学の世界を超えてしまいます。
ヴェーダ、ヴェーダーンタの世界です。

この宇宙は何も無いところから、突然生まれたのでしょうか?
何も無いところから100万円を出してみることはできるでしょうか?
できないですよね。出してみたい気持ちはありますが(笑)
なにかがなければ、生まれることはできません。

100万円を出してみたい気持ちは「あった」りしたように、
このなにか「ある」があるので、そこから生まれることができます。

この「ある」こそアムリタです。

ある、とは存在のことです。

非存在から、存在は生まれません。

存在=ある、が無ければ、宇宙は始まりません。
そして、この「ある」は誰がそれを言うのでしょうか?
ある、というとき意識があります。
意識があるから、「ある」といいます。
意識って何?
意識って誰?
この意識こそ、「わたし」です。
わたしがわたしである、という意識がありますよね。
ないですか?
なければ、このブログを読んではいないですよね。
あるいは、読もうとしているのに、目が閉じていってしまっていたとか(笑)

意識は、考えの元にあるものです。
このわたしは身体でもなく、考えでもない、わたし=意識です。

このわたし=意識は生まれもしなければ、死ぬこともありません。

え?

わたしは死なないの?
だって生まれてきたし、わたしのおばあちゃんだって死んでいったじゃないですか?

そう。
わたしのことを身体だと考えている時、
このわたしは生まれますし、死にます。

けれども、わたしが体だと考えていない時でも、このわたしはあります。
例えば、夢のなかのように。

夢のなかではわたしはこの身体から自由です。
職業からも自由です。役割からも自由です。


けれども、夢のなかでは自分の記憶から生み出した世界の中にいて、
そしてそこに自分自身を置きます。
夢の中では夢の体を持ちます。
そして、その自分自身で創りだした環境に縛られて、夢の中の役割に縛られます。

わたしは、夢のなかにいる時、自分は夢の登場人物を装っていることを忘れて、夢そのものの中に閉じ込められます。
起きている世界では会社員をしていても、
夢の中では学生だったりします。
そしてなぜか学校ではなく、会社に遅れそうになって電車に飛び乗って、走っていきます。
もうだめだー、テストもゼロ点だー
と思ったら、はっと気が付きます。
これは夢だったのだと。わたしは夢の世界、夢の体から自由であることを知ります。

それに似て、起きている時、自分は仕事、つまり役割を自分だと思い、身体を自分だと思います。

仕事のあいだであったり、学校であったり、地域の中であったり、
人と人とのつながりにおける役割は、私自身でしょうか?

いいえ。


役割も、私自身ではなく、自分が所有し、使うことができる道具です。
あるいは、一つの自分の一部であり、一つの表現です。
自分自身と役割とは別物です。
舞台で演じている役者は、役を大事に演じていますが、役そのものになりきっていますが、自分自身を忘れることはありません。
「オーロミオ、おージュリエット」
もし自分が役であることを忘れてしまったら、舞台が終わっても、「おージュリエット」
と言ってしまいます。
そうしたら、
ジュリエット役の人には、バシッとどつかれます。
そこでロミオは バタッと倒れるしかない
監督には役を下ろされるでしょう。
あまりにも役を自分だと勘違いしたら、問題なのです(笑)


結婚は大切な役割を持つことです。
男であり、女であります。
夫であり、妻です。
父であり、母です。
役割の中で大切な義務が生まれます。
この役割にはいいも悪いもありません。

いいも悪いも無いけれど、
役割には正しい行い、と正しくない行いがあります。
正しいとは、すべての関係の中で、環境の中で他を傷つけず、自分を大切にするという行いをするということです。正しくない行いとは、環境の中で他を傷つけ、自分をだめにする、卑下することです。
正しい行いをすること、正しい役割を演じていくためには、この身体も考えも、周りの人の考えも、身体も、この環境も、世界も、地球も、意識を持っている、生命であることを理解することが必要です。生命はわたし個人の小さな考えで生まれるものではありません。
無秩序に、ばらばらにあるものが、たまたまデザインされて、機能を持って生まれることはありません。その背後には作者が必ずいます。
この身体を創りだした作者がいます。

作者とはだれ?
お父さんやお母さんが作者でしょうか?
いいえ、その父や母もまた、創りだされたものです。
私たちがこの背後にある作者を理解していくこと。
生命を大切に観察していくこと。
そこには作者がいます。
その作者のことを昔の人は、たくさんの尊敬の言葉で言いました。
チャンドラ、ヴァルナ、ソーマ、お月様。
ヴァーユー、風の神様。スーリア、太陽の神様。プルティヴィ、ガイア、地球の神様……

すべての世界、すべてのこの私の身体も心も、尊敬されるべき作者の現れです。
この見え方、理解が、結婚によってよりリアルになってきます。
最終的に、自分は夢のなかに閉じ込められているのではなく、
自分は夢から自由であることを知る、
つまり、私自身は生まれもしない、死にもしない、意識、不死のアムリタである、と理解するための大切な生き方。
この生き方こそ、本当の結婚であり、ヨーガです。

結婚には、ですから、まずは相手を傷つけないこと。
自分を尊重すること。そのような正しい役を演じていくことがとても大事です。
そして、お互いが尊重、尊敬の気持ちをはぐくんでいくこと。

さらに、社会に対しても同じようにしていくこと。
環境こそ自分たちを生かしてくれていることを知ること。
木が生きているから、森があるのではなく。
森があるから、木が生きていける、という見え方を理解していくこと。
この大きな森は、さらに大きなこの大地であり、大船原であり、空であり、風であり、
太陽であり、星々であり、空間であり、それらが私たちをはぐくんでくれていることに
感謝をささげる気持ちを育てること。
仕事、役割は大きな作者、存在、生きる宇宙に対して行う、捧げものです。
結果は、その宇宙からのプレゼント、いただいた贈り物です。
どんな結果も、つらいことも。贈り物。
自分のこの小さな考えでは、狭い視野では、贈り物には見えていないかもしれないけれど。
いつかそれがプレゼントだと見えるようになりますように。
あれ?お祈りになってますね。


もちろん、結婚していなくても、ヨーガは可能です。
 あれ?いままでの話をひっくり返しているみたいですね(笑)


2013年4月17日水曜日

輝きと喜び

リシケシにいます。

一カ月以上になりました。そして、明日の飛行機で帰る今になって、

ブログを書いてみます。パッキングしなきゃいけないのに。

まず、チェータナ先生、

スワミになられた、チェータナンダジに感謝しています。

チェータナンダジのお陰で、わたしたちがここで勉強出来ました。

そしてスワミ・ダヤナンダジに感謝しています。

何百人もの人を笑いの渦に巻き込む力と、

思いやりに溢れた優しさと

多くの人を自然=イーシュワラに戻してくれる偉大な智慧。

感謝しています。

「アスティ、バーティ、プリヤン!」

スワミジの声が響きます。プリヤンの時は1オクターブ高く(笑)

私たちは、すべての源である存在意識=アスティであり、

すべての認識を輝かせる光=バーティであり、

すべてのかぎりのない喜び=プリヤ

であることを、本当に気づかせてくれます。

いつまでも、いつまでも教えが学び継がれますように


アシュラムの天使、われらのてーちゃん

2013年2月18日月曜日

アッビヤーサ 繰り返していくこと

今月は土-tuchi-ホームページを作り直していました。

ホームページはもう5年目だったのかな?

いままで見ていただいてありがとうございました。

ヨーガ堂・土-tsuchi-も少しずつ変化しています。

ホームページもそれにともなって変化していくべきだろうと思ったのです。

音楽がついているページがありますが、押し付けがましくなってませんか?

本当は、ホームページに音楽は要らない、と思っているのです。

会社で休み時間にサイトを開いたりして、そしたら急に音楽が鳴って、

周りに聞こえたりすると迷惑ですよね。

僕も経験があります。

もしそんなことになったら、ごめんなさい。

http://yoga-do-tsuchi.com/news/

上のページをブックマークしておくと音楽なしです。


今回の音源はなんだかホッとして、

昔好きで何度も聞いていた音楽に少し似ていて、、、、


竹村延和さんの時計台の朝ですね。

いま聞いてみたら、それほど似ていないですね。あはは

ホームページの方の音楽は、試験的に当分の間つけておきます。



さて、土-tsuchi-は社会的に不器用な二人の講師によってゆるゆると進んでいます。

ヨーガの本質へ向かって行こうとしていった時に、ヴェーダーンタに出会い、

そのヴェーダーンタに出会うことで、アーユルヴェーダが深く染みてきたんではないかな、

そう僕たちは考えています。



ヴェーダーンタはすべてのモノゴトの本質の話ですが、

そこに向かうためにはどうしてもこころと向き合います。

わたしたちはモノゴトを直接には見ておらず、

間に入ってくる考えによって、モノゴトを見ています。

ですから、モノゴトを見るためには、まず考えを見なければいけないのです。



目には見えず、触ることもできず、匂いをかぐことも、味わうことも、聞くこともない、

かすかな物質、考え=こころ。(ヨーガ&ヴェーダンタではこころも物質です)

けれども、こころがあるから目が見えて、触れて、匂いを嗅いで、味わい、聞きます。

こころはこの五感を持つ肉体の背後にあって、それを支えています。

五感、は神経や脳で起きている信号のやりとりで、目に見える物質の世界の力がありますが、

さらにその背後にある見えない、かすかな物質であるこころが支えているので五感となります。

その五感=こころには、さらにその背後にある考え=記憶、感情、知識、自我があります。

考え=記憶、感情、知識、自我がどこかに行っている時、

たとえば電車の中で風景は目に飛び込んでいるのに、

何も見ていない、何も聞いていない、ということがあります。



外から飛び込んでくる情報があります。

こころがそこにあると、五感がキャッチして、

さらにそれを自分の考えのフィルターに通します。

そうするとただの光のつぶつぶだったものが、

記憶と照らしあわせて、最後に「わたし=自我」が、こう発言するのです。

「あーあれは学生時代の友人だね」(と「わたし・自我」は言う)

でもよく見てみれば、学生時代の友人はそこには存在していません。

体の中の原子は1年で95%入れ替わる、という話を聞いたことがあります。

本当かどうかは知りませんが。

すべての細胞は7年で生まれ変わる。というのも聞いたことがあります。

きっとそうなのでしょう。

ですから、学生時代が7年前だったら、肉体的にはもう同じ人ではないのです。

そういうわたしだって、もはや昔の肉体は手放してしまっています。

こころだってそうですよね。考えはつぎつぎ起こります。

(考えの量は1日に数万ある、だったかな?

そして新しい考えは1%くらい、だったような。また調べておきます。)

体と比べて考えのほうが変わりにくいかもしれませんね。

それでも変わっていきます。

考えも体も変化し続けています。

でも、わたしは、「あーあれは学生時代の友人だね」と認識します。

この時、私の記憶を見てます。

わたしは私の考えを見ているのです。

しかも、相手もわたしを見ていません。

その人はその人にある考えを見ます。相手の中にある記憶、それを見て、

「やー久しぶり」と言います。

その相手はいまのわたしをこれっぽっちも知らないのです。



わたしは、外の世界をありのまま見ている、と思っています。

けれども、見ているのは自分の考え、こころです。



ここは大きな違いですよね。


さらに、わたしはわたし自身をよく見ている、と思っています。

けれども、見ているのはわたしと思っているわたし、

わたしの考えを見ています。わたしという観念を見ています。


ありのままのわたしを見ることをしていません。

ありのままのわたしってなに?

というのがヴェーダーンタです。


いろんな考え、観念が染み付いていますから、

この世界に対しても、観念のフィルターを通して見ています。

世界を見ているようで、自分の考えを見てしまいます。


もし、世界がつまらなく見えていたら、

それは自分の心がつまらない考えを持っているからかもしれません。

自分自身がダメに見えていたら、

自分の考えがダメな考えになっているからです。


考えは考え方の訓練が必要です。

アーサナはアーサナの訓練が必要なように。

何度も何度も繰り返していくこと。そして、間違えることも勉強ですよね。

ダメな考えもいい考えも、それもすべて考えです。

それらの考えの後ろにも、大事な考えが潜んでいます。

なんども掘り起こして、自分の考えの奥に潜んでいる、大切な記憶を見つけて、

そして世界と私にとって調和の取れる考え、客観的な考え、思いやりのある考えを

身に着けていくことは、長い間かかってもやり遂げるだけの価値のあることだと思います。


さて、来週からインドです。

また、考えの訓練してきますね。


2013年1月2日水曜日

ポジティブ…③好きと嫌いと幸せの関係



あけましておめでとうございます。

2日になってしまいましたので、間が抜けた感じしますが。

大晦日から元日にかけてはタオ療法の和田寺で、念仏に挑戦してました。

何回唱えたのでしょうか……南無阿弥陀仏を…。

108回の五体投地もあったのですが、それ以外にも唱えて続けていたので、わかりません。

夜9時から3時間の仮眠があって、昼12時までありました。

念仏だけではなく、体感するワークや踊り念仏などもあり、真面目かつおもしろく、

笑いにも満ちていました。

どこか、シヴァナンダヨガのTTCに通じるものがあります。

しかし昨年の108回の太陽礼拝(3時間だったかな)よりも、

108回の五体投地(たぶん30分くらい)のほうが、筋肉痛になりました。

たぶん、ぼくにはペースが早かったからでしょう。



さて、あみださまはサンスクリット語ではअमिताभ Amitābhaで、

サンスクリット語辞書によれば

Amitaが測れない、無限の

abhaは光や表れで、雄大, 光彩, 壮麗, 栄耀, 栄華とも訳されます

阿弥陀は、無限の光

ということです。



仏教的にはわかりませんが、

ヨーガ的にこのアミターバを解釈してみればどうなるでしょう。

無限の光とは物理的な光ではないですよね。

物理的な光は空間や時間の制約を受けています。

無限は限りがないこと、つまり、時間や空間とは関係がないことです。

そして光は自らは輝きそのものであり、他の暗闇をも照らしてはっきりさせます。

暗闇の中で、もっとも暗いものは、自分自身と世界の本当の姿について知らないこと。

つまり、無知です。

あみださまはこの無知の暗闇を照らして払ってくれるということなのでしょう。

もしこの意味で正しければ、グルという意味と一緒です。

グは暗闇、ルは振り払うことです。

元日の初日の出を拝むのも、グルであり、阿弥陀であり、無知を振り払うことです。



無知のうちの一つ、自分たちの無知の中でもこれは大きい、という無知は

(前回のブログの続きになりますが、)好きと嫌いについてになるかもしれません。

みんな好きなことで幸せになる、と考えています。

また、同じように嫌いなことを避ける事で幸せになる、と考えます。

本当にそうでしょうか?

好きなアイスクリームの話があります。

あるスワミジが生徒に尋ねました。

一個目のアイスクリームは幸せにしてくれるのに、

どうして3個目のアイスクリームは幸せにしてくれないのか?

好きなアイスクリームが食べられたらいつでも自分は幸せになるはずです。

ところが、好きなモノは幸せにしてくれないことがあるのです。

ある生徒がそれに答えて言いました。

「それは3個目になると(冷静になって)パッケージの成分表を見て

(人工甘味料に発ガン性物質、こりゃ体に悪いなとわかって)しまうから」(笑)

これはブラックな笑い話ですけれど、

好きなモノは本当に私を幸せにするのでしょうか?

好きな事に没頭したりすることはよくあります。

もし好きな人ができたら、わたしは幸せだ!とおもいます。

けれど、次の瞬間にはこう思うかもしれません。

わたしはあの好きな人にはつりあわない。

もし嫌われたらどうなるだろう…

好きな人がいなかったときはそんな心配はなかったのに。

好きな人がこっちに振り向いたら幸せかもしれません。

けれど、その好きな人が私以外になにか好きな事を見つけたら…

好きなことが次々と心配や不安を生み出します。

好きなことがあるとき、その好きなことが近づかなかったり、

離れてようとした時、離れた時に不幸になるのです。

好きな事は不幸を創りだしてしまいます。

では、嫌いなことはもうわかるでしょう。

嫌いなことがあるときに不幸でしょうか?

嫌いなこと、たとえばゴキブリにしましょうか。

やめましょう、万人に強烈すぎます。お正月ですから(笑)

嫌いなこと、そうですね。渋滞が嫌いだとします。

渋滞があると知った時、近づいた時、いまここにあるとき、不幸です。

けれども、その嫌いな渋滞のまっただ中にいたら、必ず不幸でしょうか?

そうではない時がありましたよね。

子供の頃、渋滞でもなにか遊びを見つけては、夢中になってました。

前を走る車のナンバーでさえ遊びの道具になったりしました。



かつてこんな考えさせられたことがありました。

戦争で焼け野原になってしまったときに子どもたちは不幸だったのか……ということです。

僕が知っている何人かの戦争体験者は、戦争はもちろん良くない、のは当然なのですが、

焼け野原の状態や死体が積み重なる世界を不幸だとは表現されていませんでした。

ぼくも10年前にパレスチナに行った時、

ガザ地区で爆撃を受けた跡のマンションで遊んでいる子どもたちを見ました。

彼らのこころは傷ついているのだろうと思いました。

けれども、不思議と不幸、というものは感じられませんでした。

死がたくさんまわりにあって、兄弟も親も友人もたくさんいなくなる世界。

検問で1時間もかかって、隣の町にも自由に世界。

そんななかでも青年は夢を語っていました。明るい目をしていました。

大きな爆撃を受けていない世界、イスラエルの街に戻った時、

人々の目には暗いものがあるように見えました。



家がなく、お金がないことは嫌ですが、不幸とは関係がないのです。

好きと嫌いは、誰にでもあります。あたりまえです。

けれども好きな事を追いかけていくこと、嫌いなことを避けていくことで幸せになれる、

というのは真実ではありません。

無知ゆえにそうしているのです。


好きなことが離れていく時に受け入れること、


嫌いなことを受け入れてしまったとき、不幸はそこにはないのです。


では幸せはどこにあるのでしょう。

さきほどの、あみださまの話しに戻りますが、

「阿弥陀とは時間の空間に限定されない光である」、と訳してみました。

時間とは過去と未来です。時間とはつかむことのできない流れです。

逆に、時間と空間に限定されないものとは、いま、ここのことです。

今はとっても短い時間のことではないのです。

「今」は時間には関係がありません。

そして、いま、ここの光、とは今一番自分に近いもの、意識のことです。

ですから、本当のわたしは阿弥陀のことなのです。

実は幸せとは自分自身の中にあります。

幸せにしてくれるものがあるとき、外側にそれが見えるとき、

それは自分自身の姿を、その外側に投影しています。

本当の自分は幸せそのものです。


外側に幸せが見えるとき、それは阿弥陀仏、と見えます。

内側に幸せがあるということが本当だと理解できますように、

そして幸せから離れることがないように、

あなたというのは幸せという意味そのものである、

と、ヴェーダーンタは教えてくれています。