2013年7月17日水曜日

目には見えない大切なこと

烏丸教室オープンしましたー

が、まだ準備中のところもあり、ばたばたしています。

もう少し、もう少し、と思いながら、進んでいってます。

皆さまからお花と鉢をいただきました。うれしかったです。ありがとうございました!
さて、さて、前回のブログは

五感をさしおいて大切なこととはなにか、でした。



大切なことは目には見えない、

は非常に逆説的だとは思いませんか?

前回のブログであったように、私たちは五感に感じていることから、情報を得ています。

情報はすべて五感が土台となり、五感を元に、すべての考えが成り立ちます。

炎があれば、熱を感じ、光を感じ、煙の匂いを感じます。

次に煙を見ただけで、そこには炎があるという推測が生まれます。

また、火の気がないところからの煙であれば、雷が落ちたのか、電気がショートしたのか、

誰か火の不始末をしたのか、という推論も生まれます。

推論を重ねたもの、それらが確認されてきたものが、学問であり、

正論、正解、と言われます。

そこにも五感が土台となった考え、推理、推論があります。

どの分野の研究においても、たとえ量子力学の研究においても、

最初は研究者の五感に届く範囲のところから、考えが始まります。

1+1は目に見えて触れる範囲です。この算数から、複雑な数学もちゃんと理解されていくのです。

ですから、五感は非常に大切なのです。



にも関わらず、大切なことは目には見えない、のです。

これは、どういうことなのでしょうか。

一つの感覚はひとつの分野においての知識をもたらします。

目は光においての知識をもたらします。

逆に言えば、目は光以外の知識のおいては、知識をもたらしません。

例えば、目で匂いをかぐことはできません。

舌で光を感じることができないように。

五感は五感以外の知識をもたらすことはありません。

五感から様々な考えを生み出すことになりましたが、

それらの考えは、五感の範疇を越えていくことは非常に難しいのです。

つまり、考えやイメージは五感の範囲内に入っていて、そのイメージを超えることがあったとき、

その人は、「想像がつかない」、ということになります。

例えば、私たちは宇宙の始まりをイメージすることはできません。

その時、光もなければ、時間もなく、空間もなかったといいます。

時間や空間がなければ、音も、光も、匂いも、味も、触感もありません。

音も光も匂いも味も触感も、すべて空間と時間によって成り立っています。

ですから、空間や時間がない宇宙の始まりはイメージ出来ません。

イメージ出来ないけれど、宇宙の始まりは私たちのこの宇宙の土台となっています。

その土台があることで、この五感に届く宇宙が存在できます。


ヨーガではマントラを唱えたりします。

マントラには意味があり、音があります。

そこには祈りがあり、真実があり、効果、結果が生まれます。

どうしてそんな結果が生まれるのか、原因と結果の結びつきは目には見えません。

宇宙の始まりも目には見えないけれど、マントラの力も目には見えません。

ですが盲目的にそれを信じているわけではありません。

疑いを持つことも許されます。

けれども、過去の賢者たち、先生たちが教え継いできた伝統について、否定せず、

疑いを少し棚上げして、真似してみることはできます。

もし私が五感に届く範疇のことしか知らないのだ、

イメージを超えたことは考えることもできない、ということを知っていれば、

謙虚になって伝統を尊重することができます。



先日、とある仕事中に、

口の中でボソボソとマントラを唱えていました。

ヨーガの講師をしていたわけではなく、接客やパソコン業務などの裏方です。

誰にも聞こえるはずもない小声だったのですが、

前に座っていた中国人通訳のスタッフが、ガバっと振り返って、

「山口さん、いまお経を唱えているでしょ!」とニッコリしながら言うのです。

驚くと、ねえ、やっぱり、と答えて、

「彼女もわかってるよ」と隣の中国人通訳のスタッフを指さしたのです。

その人は霊感が強いのだそう。


よく話を聞いてみれば、二人は中国系仏教を信仰しているとのことで、

人を傷つけないこと、人のために良いことをすること、お経を唱えること、

などを実践しているのだそうです。


中国人の方と仕事をする機会が多いのですが、

たいていは、自分が傷つかないようにすること、

自分のためになることをすること、

お金のためになんでもすること、

が当たり前になっている事が多いのです。


「私の宗教が良くて、他の宗教を信じているのだめ、といって人を攻撃することはいけません」

と言うので、ますますびっくりしました。

中国はチベットをはじめとする少数民族を弾圧する政策を何十年も続けています。

彼女たちの考えと今の中国政府はまるっきり逆かもしれません。



かつて仏教が栄えた中国。

老子・荘子、道教、孔子の儒教を生んだ中国。

  老荘思想はこの宇宙・自然には目には見えない法則があるということ、

  その法則のもとに人間にも法則がある、という考えです。

  儒教はWikipediaによれば、仁、つまり心=考えを大事にしており、

  「人の財産は家柄、財産、コネよりもむしろ教育と徳性によって決められるべきだ」

  という考えだそうです。これらも目には見えない心が大切だという教えです。



今回であった中国のスタッフたち、

かつての中国はみなこのようだったのかもしれませんね。


ニュースではあまりいい話題がない最近ですが、

どの国でも目には見えないものの大切さがもっと理解されていったならば、

この地球はもっと素敵だろうな、と思うのです。

2013年7月8日月曜日

目には見えないけれど

サン=テグジュペリの『星の王子さま』は何度読んでも、不思議な魅力のある本でした。

こどものほうが素直に読めるかもしれませんが、出会ったのが大学生だったので、

なんだろう、これは、と困惑しながら読んだ気がします。

そのなかで、

大切なことは、目には見えないんだよ

Le plus important est invisible

という言葉がありました。

フランス語を直訳すれば、「最も大事なことは目に見えない」となります。

あ、直訳もほとんど変わらないですね。



そう、大事なことは目に見えるものではない、とサン=テグジュペリは作品の中で言います。

目には見えないもの、の反対は、「目に見えるもの」。ですね。

では逆に言えば、目に見えることは大事ではないのか。

そういう意味がふくまれていたのでしょうか。


ここで目に見えるものとは、目だけではありません、

触覚や味覚や聴覚や嗅覚など五感に届くもの、ということです。

私たちにとって五感に届くものは、すべての情報の基礎になります。

五感から得た情報が土台となって、そこから「考え」が始まります。


すべての「考え」は五感によって得られた情報からしか、始まりません。

たとえば、私は親に食べ物を食べさせてもらっている赤ん坊であるとします。

目の前に白い色を視覚的に知ります。

触れると弾力があり、ある程度の固形のものであることを知ります。

口に含むと味があり、食べられるものであることを知ります。

香りが、さらに体にとって必要なものであることを知らせてくれます。

弾力のある固形物で味と香りがありという情報が五感によって知られます。

そこに名前があることを知ります。「うどん」といいます。

「うどん」は「そば」や「パスタ」と同じ仲間で、食べられるものであること、を知ります。

そのうちに「うどん」という音だけで、自分の頭のなかには、ある程度の具体性を持った

考え、感情や欲望が生まれます。

五感がすべての情報を与えてくれたおかげで、考えが生まれました。

ですから、五感がなければ、考えすら生まれません。

目に見える、ということはとても大事ですよね。


ではそんな大事な五感をさしおいて、それを超える大事なことがある、

というのがサン=テグジュペリの言葉です。

それは一体どういうことなんでしょうか?


続きはまた次回に。


さて、昨日は烏丸教室のプレ・オープンクラス初日でした。

ありがたいことに初めての方がいらしてくれて、無事に第一回目のクラスをさせて頂きました。

というか、Nana先生のクラスに参加させてもらって、久しぶりにヨーガクラスを

受けることができました。

最後のリラクゼーションポーズ=シャバーサナは、くまモン畳さんのお陰で、意識がなく、

久しぶりに、いったい私は誰、ここはどこ?

Who Am I 瞑想でした(笑)

ようやく、少しずつ準備ができてきて、本当に感謝です。


シュリーと書かれている砂マンダラです
インドにて