2011年12月28日水曜日

この世界はすべてダンス

12月3日4日に行われたジェネシス オブ エンターテインメントの講演です。

日本ではここだけがプロ=職業として車いすダンスを行なっている団体です。

代表の坪田健一さんに呼んでいただいて、撮影をさせて頂きました。

アジア大会で8位というコンビもいて、もうそのダンスには圧倒。

早すぎて撮影できません(汗)

今回は前編創作ダンスということでした。

めちゃめちゃかっこよかったです。

「かっこいい」という言葉を使ったのは久しぶりかもしれません(笑)

2011年12月25日日曜日

クリスマス

12月18日にヨーガ堂・土でクリスマスパーティーを行いました。

12時から臨時クラス、そのあとヨーガ関連映画(!)をみんなで鑑賞して、

それからパーティーのはじまり。

みんなで持ち寄ってのお料理は素晴らしかったです!✨

サンドイッチがたくさん!

ミョウガって今の季節でも手に入るのかと、おどろきの酢の物

筑前煮は具が大きくて、カボチャのサラダ、シュトーレン、

野菜たっぷりの甘くないケークサレ、などなど、

もりだくさんで、みなさん食べきれないほどでした。


そして、なによりも特筆すべきは、タレントショーです!

みなさんのココロがこもった、

アイデアがたっぷりの、

ヨーガのスピリット溢れた、

笑と涙ありの芸の数々。

それぞれが一人ひとりの豊かな感性を発揮させて、これまでに見たことのないような

とっても感動的なクリスマスパーティーになりました!

みなさん、ありがとうございました。



2011年12月12日月曜日

エゴって怖い?

ブログが久しぶりになりました。

その間に、いろいろな仕事をしたり、出会いがあったりしておもしろかったです。

なにより車椅子のダンス、ジェネシス オブ エンターテイメントの撮影をさせていただいたのが、

とても感動的でした。

許可を頂いたので、今回撮影した写真を、しばらくしたらアップしますので、見てください。


さて、さて、ヴェーダーンタのお話を続けていきます。

自我の話をしてみます。



記憶が始まり、過去が生まれて、未来が誕生します。

それはつまり、時間の誕生であり、分別の誕生です。

そこから「私=自我」という考えの機能も働き出します。


自我はエゴともいいます。

エゴという言葉をよく知っている人は、もしかすると、

エゴは良くない、

というイメージがあるかもしれません。

自己中心的、ジコチューなんていう言葉は、このエゴのイメージにぴったりですね。

でも、もともとは、この自我、エゴは大事な考えの機能です。

物事を分ける力が働いて、そして自分と世界を分けて考えるようになって、

時間の誕生から、過去と現在と未来が発生し、

自分の感覚にとって、より自分を安全してくれるものを選択しようとする考えが

その考えこそ自我の誕生になります。


例えば子供の時、

「まぁ、ちゃんとご飯食べれたの。えらいねぇ。かしこいねぇ」なんていう

お母さんの一言一言が自分の喜ばせる感覚を刺激して、つもりつもって記憶となり、

自分を安心させてくれる未来を選択する考えが始まります。

「しっかりごはんを食べると、自分にとっていいことになるんだ」という選択をするようになるのです。


また、成長するに従って「私」というアイデアに変化が生まれてきます。

「あ、わたしはかわいいと言われている」とか、

「あ、ぼくは注目されていて、それが心地良い」

とか、周りの人が「私」という存在を教えてくれるので、

そこから「私」に対するアイデアがさらに細かく分類、分別されていきます。


私が母親の胎内でひとつであった時、私と区切る外界、世界が無く

何も所有せず、なにも奪われることのない私は、安全を選択することはありません。

けれども、生まれて母親から引き離された時、

失われた温もりを探すようになります。

安心したいという感覚を生みます。

「この寒さを感じる感覚を生むこのからだとこころを守りたい」

これが「自我」のはじまりです。

エゴは本来の姿は、この体と感覚を守ろうとする考えであり、とっても大事な機能です。

これがなくては、恐れ知らずとなって、

すぐにこの体と考えをむちゃくちゃに使用するかもしれません。

そうすれば、大事なこの体も心も失うことになってしまいます。



一方で、人間が獲得したこのエゴの働きは非常に強力です。

自我=「この体と感覚を守ろうとする考え」は、いつの間にか

自我=「自分とは、この体や考えだ」に変えてしまいます。

自分とはこの体であり、自分とはこの考えである、という考えからどういったことが起こるでしょう。

この体と考えの安全のためにする行動をジコチュー化してしまうのです。


エゴは、限界のあるこの体と考えを安全にするためには、

大きな世界と比べてどれだけ自分が優れているかを探すようになります。

優れていれば安全だからです。

例えば、私は他の人よりお金を持っていれば安全だという考えに飛びつこうとします。

お金を持っていれば、この体には美味しい食べ物を与えることも出来れば、

異性にもてて、すてきな人と結婚することも可能にさせます。

お金があれば自分に価値があるように感じるようになります。

あるいは、この大事な美貌や、この他の人とは比べものにならない才能、プライドが私であり、

私は誰よりも一番だという考えにとりつかれてしまいがちです。

私は他の人をコントロールすることで、自分が一番だと感じるかもしれません。

そうすれば、私を脅かすものはなくなるのです。


その反対の考えも自我の働きです。

私こそこの宇宙で一番惨めで、寂しくて、孤独で、生きている価値のない、

どうしようもない虫けらなんだ、と決めつけてしまうかもしれません。

私は世界と比べていかにちっぽけで、

なにも持っていなくて、足りない、

だから、世界は怖くて、恐怖に満ちあふれていて、

自分は孤独で、力のない存在、

これこそが「私」だと決めてしまうのです。

私=体・こころが安全でありたい、けれどもそうではない、と感じるから。


自我はこんなふうに劣等感もつくりだすのですね。


自分の考え方の根底にある問題がすこしずつ明らかになってきたでしょうか。

エゴって怖い?

というタイトルですが、実は、エゴこそ怖いという考えの始まりです。

つまり、エゴは自らの考えであるエゴさえも怖い。というのが正しいということです。

おもしろいですね。

さて、次はようやくセルフの話をしてみます。

2011年11月9日水曜日

かすかな体に耳をすませば3_考えの始まり


私とは誰か、という疑問ですが、まだまだ続いています。

「わたし」というのはいつも大問題ですから……(笑)



この体は、道具として利用しているけれど、

「私」はこの体ではないという話をしました。

この体は、もともとは、親からのDNAが受け継がれているものです。

私が創ったわけではありません。

そして、外から入ってくる空気や食べ物がこの体を作り出しています。

私がこの材料を集めているわけでもないのです。

私の臓器や器官や、細胞は自分の意志とは関係なく、毎日、毎瞬間にさまざまな働きをしてくれて、

この体を維持してくれています。

私は、少しは意思を働かせて、ガンバレこの体!と奮起したりしますが、

「私」には関係なく、この体はうまくデザインされ、驚異的な機能を、有機的につながりを持って

恒常性を持ちながら、自動的にうまく働かせてくれています。


外界と体は交流し、代謝し、巡っています。

これは、動物や植物とも同じ、自然界のシステムそのものです。

体は、ひとつの個、「私」では収まりきりません。

生命は、生態系の中に組み込まれているのです。


それはそれで不思議な話ですが、

ここでは、「私」というアイデアにこそ焦点を当てていきます。


私がこの体ではなかったら、私の「考え」こそ、「私」なのでしょうか?

考えは、「かすかな体」=スークシュマ・シャリーラとヨーガでは言います。


このかすかな体、考えの始まりを見て行きましょう。

私たちは、生まれるまではすべての世界がひとつでした。

お母さんのお腹の中では「おかあさんといっしょ」でした。

世界が一つであるという知識はありませんでしたが、

ただ一つでありました。

考えはあまりにも繊細で、はかなく、生まれては散っていきます。

記憶に残ることも少なく、潜在意識の奥底に沈んでいきます。



考えがおこるためには、そのもとがあります。

考えが起こるためには、情報をキャッチする能力が必要です。

まったくの刺激がなければ、考えも起きないのです。

光もない、音もない、温度もない、味もない、匂いもない所に一人ぼっちで取り残された時、

変化もないので、時間もなければ、空間もなくなるでしょう。

自分が目を開けているかもわからなければ、

自分の体を触っても何も感じなければ、自分はいません。考えもないのです。

インプットされる情報がないところには、思考もなく、存在もない。

私たちは今、存在しています。

存在している所に輝いているのが、この私たちの優れたセンサーである五感覚器官です。

耳で聴覚がおこります。

肌で触感がおこります。

舌で味覚がおこります。

鼻で嗅覚がおこり、

目で視覚が起こります。


その五感が働くので、手足などの運動器官も働きます。

見えている何かに向かって手を動かしてみて、触ってみて、

匂いを嗅いだりして、情報をキャッチします。


太陽の光に熱を感じ、風に香りを見つけて、

自然の恩恵を思考によって見つけることができて、微笑むのです。


お母さんのお腹の中から生まれてきた赤ちゃんは、

一つの世界から、感覚器官を使って分離をはじめます。

痛みがある、痛みがない。

心地よさを与えてくれる人がいる、。

高い声の優しい感じがお母さんとこのわたし。

低い声のどっしりしたお父さんとこのわたし。

おじいちゃんとおばあちゃん。

この部屋。隣の部屋。

私のうちと、おとなりの家。


このようにして、分別、モノゴトを分けていく力

つまり分別、物事を分けるチカラ、知識が生まれました。


赤ちゃんはその情報について、最初は何かはわかりません。

暖かさと柔らかさと、ミルクがあり、目の前で動いているものと声が、

自分を守ってくれるもので、安心を与えてくれるもの。

それがお母さんだということを五感で知ります。

五感を使って、と普通に言いますが、

そこにある質感は、目や耳や肌や鼻、

舌を顕微鏡で徹底的に分解しても見つかりません。

脳を分解しても見つかりません。

ある種の電気信号や神経伝達物質は見つけることはできますが、

そこには車が走った後のタイヤの跡が残っているだけのように、

飛行機が飛んだ後の飛行機雲が残るように、

思考の影があるだけで、実体は見つからないでしょう。


見つからない、けれどもしっかりと存在している。これがかすかな体ということです。

ヨーガでは、この五感も、考え、思考の一つとして分類されます。



さて、これらの五感があることによって、考える器官が活性化するところを見ます。


生まれたての赤ちゃんには、新鮮な感覚があります。それこそが生命感です。

赤ちゃんには深い考えはないけれど、感覚、生命に満ちあふれています。

生命は出来る限り生き抜いていこうというエネルギーです。

そこで、生命が維持できないと知ると信号が発せられます。

痛みが起こります。

そこで生命のひとつであるお母さんは、まったくの自然に赤ちゃんを救おうとするのです。

おなかがすいたと泣くと、お母さんは授乳します。

そうするとお腹が満たされて心地よい感覚になります。

うんちをしておしりが気持ちが悪いと泣くと、お母さんはオムツを変えます。

そこで、赤ちゃんには自分には心地よい感覚と、苦しみという感覚があることを知ります。


ここまでは感覚の世界です。

植物や動物にも通じる生命感です。


そして様々な感覚の出来事を通じて、様々な記憶を刻むようになります。

さらにかすかな考えの始まり。考えの元素です。

赤ちゃんはまだまだ記憶の量が少ないですよね。

記憶という考えの元素は少ないのですが、

それが一定以上増えてくると、思い出すことをはじめます。

これが心地よかった。前にもあったな、と気づきます。

これが気持ち悪かった。これも前にもあったな、と分かってきます。

そうして、ここから「過去」が始まるのです。



過去の記憶が始まると、その過去の中での結果も思い出されます。

とっても苦しいからとっても泣いていたら、

あのここち良いことを与えてくれる人=お母さんがやってきて、

この苦しみを取り除いてくれた。

という過去があれば、今お腹空いていることも、

泣くことで、この苦しみを取り除けるに違いない、という「未来」の予測もはじまります。

つまり、過去が始まれば、予測が起こり、未来も始まります。

時間の始まりです。

時間が始まって、そして「私」が始まるのでしょうか……つづきます

2011年10月31日月曜日

自然と調和するヨーギーのための食事法 WS

昨日、自然と調和するヨーギーのための食事法 WSが行われました。

午後2時~6時過ぎまでの長時間でしたが、
ヨーガの食事ってどんなことなんだろう、
という興味が高くて、
いつもよりも気持ちが熱く感じられました。

味噌は発酵しているから、だめ(=タマシック・惰性・鈍性)なんですか?
とか、
食品添加物はどうですか?
とか、熱心な質問も飛び交い、

瞑想を助けてくれるサトビック(純粋性)フードでも、食べ過ぎるとタマシックになります

という話には、
「わたし、あかんやん」(笑)

終わってからの感想で

「なんとなく、わかっていたことだったんだけれど、
見ないように
見ないように過ごしてきて、
今回WSに来て、
……やっぱり、そうだったんだ……」

という言葉に、みなさん大爆笑。

たのしいワークショップになりました。

これをきっかけに普段の生活を見直していったり、
普段の生活からヨーガを進めていくことつながればいいなと思いました。

今回は伝えたい内容が多く、
ゆっくりと話している時間がなくって申し訳なかったです。

次回、機会があれば、理論的な復習と、具体的な食材と調理についてゆっくりお話したいです。

みなさん、ありがとうございました。

2011年10月16日日曜日

かすかな体に、耳をすませば2_脳は私?

耳をすませば、という映画、先日はじめてみました。
ジブリの映画で近藤喜文監督の作品です。

wikipediaによると、

高畑(勲)が『火垂るの墓』、宮崎(駿)が『となりのトトロ』と、長編映画を同時に制作した時期は2人の間で近藤の争奪戦が起こった。高畑は「他は何もいらないから近ちゃんだけ欲しい」、宮崎は「近ちゃんが入ってくれないなら僕も降板する」と言ったという逸話が残っている

なんだそうです。
主人公の繊細で活き活きとした感性が細部にわたって生きていて、映画には風や匂い、寒さや、人の息まで感じられるようなステキな映画でした。
近藤監督は、残念なことに、この作品を最後に亡くなってしまいました。
もし、今でもジブリにいたら……。
でもきっと、近藤さんのチカラは今のジブリにも生きていますよね。


さてさて、
私たちは自分の中へと耳をすませてみましょう。



ヨーガの教え、ヴェーダンタの教えの中に、私たちは目に見える物理的な体以外にも、プラーナとか、雰囲気とか、元気とか、そういった目には見えない「かすかな体」というものがある、といいます。
この、かすかな体のもっとも代表的なものが、考え=思考です。

現在の科学者は「思考」は脳の機能だと考えている学者は多いようです。
脳という臓器=思考なのかどうかを見て行きましょう。


脳研究者たちは脳の中の血流の動きなどを研究していけば見つかるんじゃないか、と調べているところです。
脳の場所によっての働きの違いまでは分かるようになりました。
そのなかの部分が、体の働きや考えと連動していることがわかっています。

例えば、脳のある部分が事故か何かで損傷したら、
その場所と連動している機能は失われます。
脳の細胞は大人になってから増えることはないといわれていますので、
その脳の場所は復活することはありません。
ところが、損傷の大きさにもよりますが、
リハビリなどを通じて、他の部分が補ってくれて助けてくれて、機能は回復していくといいます。
つまり、失われた部分をカバーするという能力があるのです。

これは、全体を見通している監督がいるということです。
部分が集まってチームになるのか、というとそうではなく、全体を見渡せる視点がないと、そうできません。



野球だったら、監督がいるので、故障した選手の交代ができます。
機械はそうはいきません。
ここに「カメラくん」がいて、彼のパートナーのレンズちゃんが病気で倒れてしまったとします。
そこでカメラ君は
「あ、ぼく代わりに仕事しておくからレンズさん休んでおいていいよ」
なんて優しく声をかけることは、あったらいいのですが、
カメラ君は機械なので、ないですよね。
同じように、脳の部品を交換、あるいは、どこかでカバーするためには、脳以外のところが働く必要があります。
つまり、脳は監督ではないのでは?と思うのです。

脳は「思考」に関係してはいるけれど、
脳=思考とは考えにくいのです。

また、考えはそれが言葉などに現れているときには解りますが、
それを物理的な脳の中に探して行っても、ご主人である「考え」は見つかりません。
やはり、考えは、脳などの部品などに還元することはできないと思うのです。


では、かすかな体、考え、思考がいろいろと科学的には見つからなかったり、
たとえ見つかっていったとしても
このかすかな体、考えの中に「私」はあるのでしょうか。



2011年10月11日火曜日

大普賢岳リトリート、無事終わりました!

和佐又山での屋外ヨーガ
10月9日、10日、奈良県上北山村で大普賢岳ヨーガリトリートが行われました。

大普賢岳への稜線にある石の鼻にて
9日は和佐又山への1時間ほどの山歩きと草原でのヨーガ、そして野外でチャパティを焼いてカレーの夕食を楽しみました。
ヒュッテ泊とテント泊に分かれての宿泊で、夜中には気温5度くらいに下がりました。
10日は早朝ヨーガを行なって、大普賢岳へ出発。12時に山頂に到着し、16時に無事、下山しました。


また後日詳しくレポートしたいと思います。

2011年10月2日日曜日

かすかな体に、耳をすませば

ライフっていう映画を見てきました。
驚きと感動が満載の映画でしたが、とくにすごかったのが、
アリさんの農業。
ハキリアリというアリさんは、自分たちは食べもしない草を切ってせっせと巣に運ぶのです。
そこで行われているのが、地下での大規模キノコ農業。
葉っぱを発酵させて、キノコを育てているのです。
しかも立体構造の巣は、キノコから出る二酸化炭素を排出させる煙突まで用意していて、
だれがいったいぜんたい、彼らのライフスタイルを設計したのか……!
面白かったです!

やっとお久しぶりのヨーガの話。

本当は、「さぬきうどんヨーガ」の続きになりますが、
インターバルが長すぎて、麺が完全に伸びてしまってます(笑)




私は完全な自由(モクシャ)であるということを理解することが自分たちの最終目標である。
そんなことが、ヴェーダンタによって教えられました。

私とは一体何か。
この私の肉体を私と思っているけれども、
この肉体を設計した覚えもなければ、この肉体を維持している機能に携わることもできない、
実は私はこの体ではない、ということが前回までの結論です。

この体を使用するオーナーだけれど、
私自身は私の体ではないんですね。

例えば、車のように。
私sivaramは車を持っていません。使いたいときはレンタカーを借りています。
もし、持っていたとしても、それは私の道具です。
私は車を使ったりするけれども、そのエンジンや駆動関係やボディを設計したわけでもないです。
ガソリンと二酸化炭素、ひとつひとつ交換していく部品、それぞれを分解したところで、私はいないし、
あるいは、その全体の機能を見た時でも、この車にはこの私らしさは見つからないのです。


では物理的ではない体、なにか、もやもやしたものが私なんでしょうか。

ヨーガでは「かすかな体」というのを教えます。
目に見えない体です。


人の体にはプラーナというかすかな体、エネルギーがあるといいます。
「気」という言葉に置き換えられることもあります。
元気、雰囲気などの「気」です。
よく言われるオーラも普通の人には見えません。
私も見たことはありません。


見えないというのは、車に例えて言えば、電気系統のようなものです。
ガソリンと違って、電気は目には見えないのだけれど、確かに何かを動かすチカラを持っています。
メーターを使えばその数値は測ることは出来ますが、電気そのものを見ることは出来ません。
電気が光に変わることはありますが、それは光に変わったときに見えるのであって、
電気そのものではありません。
離れていると存在を感じることは難しいです。
しかし、ビリビリと感電した時、触感があります。
目には見えないのだけれど、たしかに存在しています。

ではこのかすかな体が自分なのでしょうか。


雰囲気は感情によって、心の動きによって変わります。
たしかに見えないけれど、人の持つ「気」は伝わってきます。
「考え」というのもかすかな体です。
考えこそ、この私にとって一番私らしい気がしてきます。
そうすると、この私の考えが私なのでしょうか……

つづきます

2011年9月21日水曜日

チェルノブイリでヨーガを

9月18日(日)~19日(月)はヨーガ堂・土初のリトリート、しかも登山をも含めたリトリートを行なう予定だったのですが、台風の接近によって、10月に延期することになり、マントラとプラーナヤーマ・ワークショップを開催しました。

二日目は、朝早くから実践編に参加してもらった生徒さんと、京都へと向かって、
鎌仲ひとみ監督作品の映画『ミツバチの羽音と地球の回転』を見に行ったのです。

この映画は、舞台は山口県祝島(いわいしま)でのドキュメンタリーで、30年以上前からの上関原子力発電所建設計画に反対してきた島の人達の姿と、いっぽう先進的なエネルギー政策を進めてきたスウェーデンにおいて、持続可能なエネルギースタイルを創りだしたオーバートーネオ村の人たちの働きや、その生活を、丁寧に取材してきた鎌仲監督の優しい眼差しがいっぱい詰まった映画です。

映画の後の鎌仲監督のトーク
普通映画は東京などの首都圏からはじめて、地方へと上映するものですが、この映画は祝島からはじめて、地方をまわり、そして都市部へと上映が進んできたという草の根的映画なのです。

鎌仲監督の映画の良さは、登場してくるどんな人物も、どんなモノも、敵とか味方とかではなく、ただただ、本当の知恵とは何か、それを知らない自分たちとはどういうものか、ということを教えてくれるところです。
たとえば、原発に反対する人がいます。
それは実際に生活に関わっていて、そのことがあることで命が危ないのです。
反対に原発を推進している人たちがいます。
それは実際に生活に関わっていて、そのことがあることで、命がつながるのです。



私たちの考えはさまざまありますが、それは狭い視野でしか物事を見れていないからです。
でも、真実はひとつしかありません。
しっかりと真実だけを見つめていくと、選択することは1つだけになってくるのです。
真実を知るためには、その道具=感覚器官としっかりと裏付けがとれている考えが必要です。
原子力発電に関して言えば、絶対安全というのは崩れ去っていく神話(というより、デマ)だったことが福島において証明されています。
そして、たとえ、これからその安全性を高めたところで、人間の知識や想定を超えたことが起こることが予想されるのは当然です。しかも、核のゴミ=放射性廃棄物に関しては、もはやどうすることもできないこともできないくらいに増えていて、青森の六ケ所村で再処理なんぞしてしまって高レベル廃棄物になると、100万年にも渡って管理していかなければならないのです。

さらに、電力の消費はいままで明らかになっていなかったことがありました。
これまでに原子力発電所が一基もなくても、日本の電力はまかなえていた、という事実です。
(この夏も電力足りないーなんて言ってましたが、この10年間でも4位という暑さにかかわらず大丈夫でした。稼動していない火力発電所が世界に比べても多いそうですよ)

どうしてそんなことがおきたのか、というと…
「日本では戦後一貫して10電力会社が、発電、配電、送電を独占している」から自分たちがたくさん儲かるようにいろんなあの手この手を使っているからなのです。原子力発電所を作ると国から補助金がおりたり、経費をかければかけるほど電気代に乗せることが出来たりします。

だから、電力は足りなーい、とか、
原子力発電はCO2をあまりださないクリーンなエネルギーですよーなんてことが、
東電では広報費300億円(!)のうちの、年間30億円というPR費でもって、新聞やテレビや、マスコミ関係者は札束でひっぱたかれているのです(あとの270億円の広報費というのはどこに行ってるのかな? たぶん政治家と地方です。ということは……)
電気事業連合会というのがあるのですが、そこのを足すと年間1000億円の広報費なんですって。
それを知らないわたしたちは、
そうなのかなーなんて思わされてきたというわけです。
ちなみに2008年にはすでに、「日本広告審査機構(JARO)は「原発はクリーン」との電事連広告を不適切と裁定」なんだそうです。

僕が大学生の頃でしたが、忌野清志郎が、
「電力は余ってる、いらねぇ、欲しくねえ」と原子力発電批判の詩を発表して、
それに感動して、福井県原発ツアーと称して、夜中から車で原子力発電所を見に行ったことを思い出します。

朝ヨーガの後の映画とトークで濃い一日でした!
さて、さて、大切な事はいっぱいありますが、
今回ははじめて鎌仲監督にサインをいただきました!これは大切な事です(笑)
サインを頂くなんてことは、この人生の中でも実は、2、3回目かもしれません。
(1回目は野田知佑というカヌーイストでした)
その時に、
「ヨーガを教えているのですが、今日は生徒さんと一緒に来ましたぁー」
なんて脳天気に言いましたら、
鎌仲監督は、
「たくさん連れてきていただいてありがとうございます。
チェルノブイリではね、長生きしている人はヨガをしているんですよー。
だから、これからヨガは日本でも大切になりますよー
なんて言ってくれたのです。
思わず、「そうなんですか!! うれしいです!頑張ります」と言ってしまいました。

直前の、鎌仲監督によるレクチャーでは福島の原子力発電所の爆発があって、
放射能が東日本にたくさん飛び散っていて、その量はどうしてマスコミがしっかり報道してくれないのかほんとうにわからない。海外だったら、相当危険なレベルと認定され、これはカタストロフィ、「破局」だというのです。
なぜしっかりと報道されないかという理由は、
東電を始めとする電力会社が「年間30億円というPR費」でもってマスコミを動かしていること。
それから政治家も電力会社からの献金が膨大だということ。
で、政治は混乱したままだし、
野田さんは
現状も未来への展望もしっかりと報道されていないのです。

mumokuteki cafeの野菜セイロ
そして、検査をされていない野菜などが関東圏で売れないので、関西に流れているということでした。放射性物質というのは、消化や化学変化することはありませんから、最後は下水処理場に溜まるのです。特に大阪で多いということです。

体内に取り込まれた放射性物質は、外からの被曝と比べて、その量ははるかに少なくても確実に周りの細胞のDNAを傷つけていきます。時間を経て、ガンとなって体を蝕みます。(お米は放射性物質を取り込みにくいのだそうです。なので、検査をしっかりしていくことで、汚染された地域の生産物もちゃんと流通できるはずなのです)

そんな事実の中、
鎌仲監督がおっしゃっていたこと、
チェルノブイリでもヨーガは行われていて、
そして免疫を高めて、長生きをさせてくれる、という事実は、
とっても嬉しかったです。
すごい希望ではないでしょうか。


そして、もうひとつ、
この独占されているエネルギー生産は
これから自然エネルギーを利用した小規模発電、分散型へ。また送電もスウェーデンのように独占させずに、分散させて、自然エネルギーを利用した企業から電気を買えるようにするなどの選択できるスタイルへと変えていくことが、
この日本を救う道だということが、この映画を通じてほんとうによくわかったのです。みんなの知識が無知から混乱、そして最後には正しいものに訂正されて、私たちは本当の幸せへとたどり着きます。本当のことを知るためには、少し自分自身の努力が必要になりますが、でも教えてくれる人は密かに待っていてくれています。
いつも大きな声を上げているおおきな組織に従うのはもう時代遅れだと思うのです。
これからは、しっかりと自分を見つめて、世界を見極めていく観察力と、選択力が自分たちをハッピーにしてくれるのです。そして、ちいさな声でもやさしくみんなに届くように発言してくこと。
ヨーガはそういった観察力と選択のチカラを与えてくれると思っています。

長くなりましたー
みなさんも、ぜひこの映画を見て、
鎌仲監督に会ってくださいね。元気もらえますよー

2011年9月12日月曜日

稲刈り。いのちを与えてくれる自然

ブログを結構お休みしている間に、山口県にいる母の家に稲刈りに行ってきました。

ここの場所の名前が好きなんです。

はぎし やまだ こま のとろ というのです。

漢字で書くと、萩市山田木間野戸呂。

中国から入ってきた読みは使われてなくて、

純国産の大和言葉、あるいは、アイヌ語のような縄文言葉、のような気がするのですが、

どうでしょう?

のとろ、というのが、トトロみたいです。



今回の稲刈りのお手伝いは久しぶりでした。

今年は田植えのお手伝いをしたので、その稲を刈るのはうれしかったです。

ところが、今年は直前の台風で、稲が倒れちゃったんです。

そのため、コンバインをすぐには入れられずに手で起こしていったり、

一列を鎌で刈ったりしました。

中腰でザクザクやっていくんです。










写真はあまりちゃんと取れなかったのですが、

稲穂が金色に光ってすごかったんです。

ああ、自然てすごいなぁ。きれいだなぁ。

うつくしいなあ、

足が痛いけれど、腰もツライけれど、

ザクザク、ザクザク


そうすると、マントラを唱えたくなるのです。

自然に。

この大自然のスゴさに感動して、

感謝せずにはおれないから、

きっと大昔から、人びとは祈っていたんだなぁと、昔の人びとともつながってきます。

いまは、機械を使うことが多いけれど、

昔は鎌を手に、大勢の人、家族、親戚、近所の人びと一緒に、この金色の穂を刈っていったのです。

祈りを込めて。

僕が手伝えたのは3日間でしたが、

そのあとハブ、マムシ、毒蛇が出たんですって。

ヴェーダンタではヘビとロープの喩え話というのがあるのですが、

蛇は昔から神さまとして崇められた命の象徴でもあり、

その毒で命を一瞬で奪ってしまう死の象徴です。

そういえばシヴァ神の髪には蛇がいたなぁ。

今見たら、首にも巻いていらした。ぐるんぐるん、蛇マフラーです。

シヴァ神は、wikipediaによると、

ヴェーダ神話に登場する暴風雨神ルドラを前身とし、『リグ・ヴェーダ』では、「シヴァ」はルドラの別名として現われている。暴風雨は、破壊的な風水害ももたらすが、同時に土地に水をもたらして植物を育てるという二面性がある。このような災いと恩恵を共にもたらす性格は、後のシヴァにも受け継がれている。

だそうです。

自然は、

お米の収穫として、私たちの命を与えて、また、蛇のように命を奪う、神さまなのです。

やっぱりすごいです。



2011年8月29日月曜日

カオナシ。道具と自分との識別

ヨーガは、元はといえば、インドの行者さんの瞑想だと言ってもいいかもしれません。

昔の人はヨーガを通じて、自我を見つめて、自分を深めていき、自分と偉大なる自然、大いなるものとつながっていきました。お釈迦さんもヨーガをしていたといいます。ブッダは苦行を重ねて体を酷使したすえに、「苦行には意味はない」という結論を出しました。が、ヨーガの哲学、思想はしっかりと体験され、その教えの中に入っています。
人間とは何か、世界とは何かという問いかけは、そんなヨーガによって答えを得たのです。
そして、その答えは、どんな人間にも、どんな世界にも、何を信じていようと、信じていなくても、普遍的なことです。


普遍的ですから、誰にでもOKということです。
つまり、うれしいことに、どんな人にもヨーガの入り口があります。

いわゆる一般的な運動は、比較があって競争なども行われます。
だから、ある程度基準を設けなければいけません。
男のグループであるとか。
ボクシングなんかは体重別で決めたりしますね。
学生と社会人ではぜんぜん違うとか。

ヨーガは何かと比較することはない、内面の作業です。
競争ももちろん、ありません。
ヨーガの規定演技、などというのはありえないのです。
〇〇選手、自由演技で高得点のヨーガ!なんてことは、ツノの生えているウサギ、
言葉上ではありえますが、実際にはヨーガではないのです。

隣の人がたくさん、息を吸っているから、隣の人の勝ち、なんてことはありません。
わたしのほうが、体が柔らかいから、わたしの気分がいい、
という時は、ヨーガをしていないことになります。比較をしていますから。

もっと正確に見ていくと、
ヨーガにおいても、物事の比較そのものはあるかもしれません。
過去の自分と今の自分を記憶の中で比べたりすることはあるでしょう。
でも、そのことでがっかりしたり、喜んだり、
そんな感情と自分を引っ付けてしまうことをしないのです。

「自分」はもともとは、自分を持たず、何にでもなれる「カオナシ」(映画:千と千尋の神隠し/スタジオジブリに出てきた妖怪)です。

水晶にも例えられます。水晶は透明ですが、後ろ側に置いたものによって、
水晶はいろんな色を持つように見えます。
考えによって、感情が動くと、カオナシはそれを飲み込んで、自分にします。
水晶は、その感情を自分の色としてしまいます。


たとえば、あなたは道具を使用します。
その道具は車だとしましょう。
あなたは車を使用します。

あなたと車は違いますが、自分が車を運転している時、
車全体を自分だと認識するようになります。
だから、車の天井を擦っていまいそうな背の低いゲートなどを潜ろうとする時、
あなたの首をすくめます。
タイヤをどこかにぶつけると、
「アイタッ!」と叫びます。痛くはないのに、あなたは車になっているので
痛みまで感じるのです。

その車が古くてオンボロで、故障ばかりだとします。
すると自分の車は駄目だ、という気分になり、
いつの間にか、自分はダメだという気分にもなります。

あなたの車、道具は確かにダメかもしれません。
でも、だからといって、あなたはダメではないですよね。

でもわたしたちはいろんな道具と自分をくっつけてしまいます。
もっとも身近な道具、この「体」のことをわたしたちは自分だと思い込んでいます。
この体を自分だと思い込むと、何が起こるでしょう。
この自分は20歳くらいがピチピチの最高です。
力があって、肌に弾力があって、怪我をしても回復が早い。
そして、40歳くらいになると、もはやボロが出てきて、
60歳はオンボロで、80歳はどうなんでしょう。
自分はたった20歳前後だけが最高ということです。
あとは、落ちる一方です。

ヨーガはちゃんとそこのところを識別=ヴィヴェーカしなさい。と教えてくれます。
観察して、正しい答えを見つけることがヨーガです。

「この体は私のものですが、私はこの体ではない」というのが、
本当の結論です。
本当の結論が出てくれば、本当に生きているとは、どういうことなのか、
私たちの存在はどういうことなのか、という答え、ゴールまで、あと少しになってきます。

2011年8月27日土曜日

讃岐うどん3 : 私はこの肉体ではない

讃岐うどんヨーガと題して
なんだか、話がどんどんとすすみます。
饂飩ですから、話も太く伸びます。
腰もあって、うまい。はず。笑
さて、さて、


セルフって、気軽。
セルフって、自由。
セルフって、本場。


この讃岐うどんのキャッチコピーの言葉によって、遠いところまでやって来ました。

自分たちの行き方は①安全②喜び③ダルマ=宇宙の法則、他との協調性④モークシャ=完全な自由を求めていくということがわかってきました。

モークシャ:完全な自由を求めていくとき、
この時、自分という定義自体が、今までの考え方とは異なります。



いままでは、
「自分」はこの「体」でした。
そして、この自分という「気持ち」があります、気分があり、元となる気、エネルギー、つまり元気があります。
自分というエネルギーです。
そして、自分という「意識」があります。
「体」と「エネルギー」と「意識」が、
「この私こそ、私である」、と宣言していますが、
この私の定義は果たして、本当に私なのでしょうか。

まず物質的な自分を見てみましょう。

この体は私です。
そうではないでしょうか。

私の体は、私である。という定義がありますが、

このことは全くの勝手な思い込みである。

そんなことを今回は見ていきますね。




まず、肉体はどのようにして生まれてきたでしょうか。

学校では、私たちはお母さんの卵子にお父さんの精子がくっついて、受精したいことによって始まったと学びました。二人分のDNAがひとつに組み合わさったのです。
DNAレベルでは私は受精によって始まったということです。

お父さんお母さんを、私は選択できたのか……という謎があります。
私にも、たぶん、みなさんにもわからないですね。
だからこの私の体の始まりは、「私」が始めたのかどうかは謎だということが解りました。

そして、DNAの情報量は30億対塩基、75メガバイトと言われます。
頭が痛くなるような数字です。どえらい複雑さです。
1か0かのデジタルデータみたいな組み合わせて30億の数があるということです。


そこからタンパク質ができたりする情報が必要らしく、情報はもっともっと必要になるようです。
DNAだけでは、人間はできないらしいです。

これらの肉体の「私」はこの設計にたずさわりましたか?
正直言って、この私の体のDNAの設計については私は知らないです。
みなさんも、自分のDNAの設計をしてきた、という人は一人もいないと思います。
つまり、私の体の設計は、私以外のなにかが始めたということが解りました。

さらに、時間が過ぎていくと自分の起源がわかるでしょうか。

お母さんの胎盤に張り付いた受精卵。細胞はまだひとつから2つ、4つ、8つとわかれたひとつの生命の卵のようなものです。

この細胞たちは増えていきます。
そして人間の形となります。

私の始まりは、なんだかまだよくわかりません。

ところで、細胞たちが増えていくためのエネルギー、栄養などはどこから来ましたか?

栄養は母の胎盤から注ぎ込まれました。
へその緒を通じて、外とつながって、エネルギーが来たのです。
そのエネルギーは私でしょうか。
元は母のエネルギーです。
母のエネルギーは、その元は、食べ物でした。
その食べ物のエネルギーはどこから来たでしょうか。
大地と水と太陽から来ました。

生まれてきてからは、私たちは食べ物を通じて、エネルギーを補給して細胞分裂を繰り返して大きく成長してきました。
エネルギーをいただいて、自分は成長してきました。


最終的には外界に出てくるようになります。
おぎゃあと泣いて、どうでしょうか、「私」は始まりましたか?

生まれてきてからの、別の側面を見てみましょう。

私は食べ物を補給します。

食べ物を口に入れた途端に、その食べ物は自分になるのでしょうか。
町で昇華されて吸収して血液に流れた時でしょうか?
息を吸い入れたとき、どこから自分の酸素と言うのでしょう?
血液に入ってから? 肺に入ってから? 口に入ってから? 眼の前の植物から酸素が出てきた時から?

私にとって一番重要な栄養素である酸素がどこから自分の酸素ということになるのでしょう。



あるいは、物質が出ていくところを見てみます。

排泄した瞬間にどこからその自分は自分でなくなるのでしょうか。

口から出た二酸化炭素はもはや自分ではないですか?
あるいは自分の尿はもはや自分ではない?
自分が出した二酸化炭素はもはや自分ではない?


肉体の始まりにおいては、決して自分独自では設計もできなければ、
設計変更もないし、父でもなければ、母でもない設計者がいるようです。
自分の考えではひとつも成り立たないことがわかりました。

その設計を考えたのが私でなければ、誰が作ったのでしょうか。
わたしが作ってもいないのに、このわたしはあるのでしょうか?
不思議なことです。

映画をつくるときには監督がいます。
その映画はやっぱり、その監督の作品だといいます。

この体という作品は、
監督が自分ではないということがわかっています。
そうすると、この体は自分の作品ではありません。


肉体の成長において、酸素や水、食物などの栄養やエネルギーなどが自分の中に取り込まれていきますが、どこからが自分のエネルギーと言えるかもはっきりしていません。出ていくときも自分から自分でなくなる瞬間はわかりません。
今現在においても物質的なこの体は、どこから自分で、どこから外界となるのか、あるいは、自分の内部にある大量の菌、乳酸菌とかいろんな菌が腸内にはいます。細胞ひとつひとつの中には、ミトコンドリアという共生者がいるのですが、これらは自分なのでしょうか。あるいは、自分とは違うのでしょうか。


私は、私が作ったのでもなければ、私がコントロールできるものでもない
私という境界線すら曖昧なのです。


このことは、つまり、
自分の肉体は、自分ではない、と言えます。
仮に「自分の体」と名付けて、勝手に使っているだけだと言えます。

この肉体を自分が所有しているかもしれませんが、
自分が車を所有しているように、
自分の乗り物として、この肉体があるのです。
つまり、
私はこの肉体ではありません。
私はこの肉体の所有者ではあるけれど、私はこの肉体ではないのです。

話は続きます……

2011年8月26日金曜日

讃岐うどんヨーガ2 : モークシャについて

前々回に讃岐うどんヨーガと題して書いてみましたが。
そのうどんの中身については、なにもお伝えしてませんでした。

讃岐うどんがヨーガなわけはないでしょ!
というツッコミ。そこが大事です。

讃岐うどんやさんにあったキャッチフレーズこそ大事です。

セルフって、気軽。

セルフって、自由。

セルフって、本場。


このことについて、勝手な説をいろいろと展開してみようと思います。

さて、ヨーガとは   (アタ ヨーガ-……ヨーガスートラの始まりですね)
何だったでしょうか。

ヨーガはyuj、繋げるというのが語源でした。
何と何を繋げるのかというと、
まずは、片方に自分があります。
そして、自分は①安全であること。
自分は生き延びていきたいという存在であることは間違いありません。

そして、次の目標があります。
②喜び
私は喜びが欲しいのです。生きているだけではモノ足りません。
楽しいことが大事です。

その次に出てくるのは、③ダルマ=周りの人や環境とのつながり、関係性の中での豊かさです。
すべての環境との調和がとれた行き方、ダルマ(自然の法則、義務)の行き方です。
人を傷つけたり、環境を汚したりせず、他人を救ったり、環境の豊かさの手助けになるような生き方です。

安全や喜びを求めていく行き方は、子供でも、動物でも、ひょっとすると植物にもある生き方です。
けれども、ダルマ=調和を生きて行く選択、これは人が成長してきた先にやっとのこと出てくる生き方です。

ダルマは宇宙の法則や宇宙の義務という言葉に訳されることが多いのですが、もし最小限な言葉で言ってしまえば「慈しみ」ということかもしれません。
自分への思いやりと、他のものに対する共感性をもって自分と他とを大切にするということです。
このダルマについてどのように勉強すればいいでしょうか。

人間の脳の研究において発見されたことは、
人は、共感する能力がある、そういう機能を持つ脳の機能があるということです。

つまり、人は幸いなことにこのダルマを自然にプログラミングされて知っているということです。

誰もが、どんな悪人であろうと、どんな争いをしていても、人の痛みを自分の痛みとして感じる力があります。慈しみの心を持っているのです。だから、犯罪者であろうと、本当は知っているのです。自分が人を傷つけたこと。そしてそのことで自分が傷ついていることを。
そうでなければ、その人は病んでいるということになります。
共感性を失ってしまった病にかかってしまったということです。


さて、最後に出てくるヨーガの目標はなんだったでしょうか。

私は④完全なる自由(モークシャ)である。
これが人間の最終目標である、とヨーガの哲学で教えてくれました。

例えば、私はお金持ちになりたい、ということは、
私はお金で不自由になることから自由になりたい、と言い換えることが出来ます。

例えば、私は幸せになりたい、ということは、
私は、辛いな、苦しいなと思うようなことから自由になりたい、
ということです。
つまり、様々な限界が私たちにはあるということ。
いつまでも若々しくありたいけれども、生まれて死ぬという限界。
この空間に押し込められている自分たちの物理的限界。
たくさん勉強して、いろんなことを覚えていきたいけれど、記憶力には限界があり、
いっぱい働きたくても、体力にも限界があります。
放射能に打ち勝つ体を持ちたくても、日本人がみんな福島原発に負けない精神と体を持ちたくても、やっぱり限界はあります。


これらのたくさんの限界から自分を自由にしたいということが、自分たちの目標なのです。

この完全な自由を求めているという目標は、
ダルマ、他との協調性、調和を求めて、その先にこの考え方が出てきます。
自分はたった一人の存在ではなく、多くの他との関係性を学んでいった先に出てくる結論です。

つづく

2011年8月23日火曜日

大丈夫。みんなできるんです


8月19日金曜日、アメリカ在住のパドマヴァティ雅子さんがいらっしゃいました。
そしてお昼から近所の老人介護施設の天兆園さんににおじゃまして、雅子さんの指導によるシニアヨーガを行いました。
車椅子の方も含めて、20人くらいの参加者がいらっしゃいました。


まずは自己紹介です。

一番右が雅子さんです。
目は一番血液を消費する感覚器官です。だから目を休めることは、自分の体をいたわることなのです。


呼吸とともに腕を上げ下げします。みなさん、呼吸をこんなに意識して体を動かすことがないので、けっこう体力を使います。




前回、雅子さんが来てくれたのが、昨年の12月。

それをきっかけに、3月には静岡のヨガスタジオZENTRAの「こころプロジェクト」に参加している講師manasiますみさんに来て頂いてのシニアヨーガもありました。
こころプロジェクトも雅子さんがZENTRAにいらっしゃったことから始まったことなんです。

ヨーガっていうと、若い人のダイエットのイメージとか、アクロバティックなポーズのイメージを持っていると、びっくりするかもしれませんね。

実はこんなふうに高齢者の方々も、車椅子の人も、身体障害者の人も、ヨーガができるのです。


そして、健康な人以上に、健康を目指している人こそ、ヨーガを始めて欲しいのです。


ゆっくりとした体の動きとともに、
呼吸もゆったりとしていきます。

あるいは、体を動かさずに、
呼吸をゆったり深くしていきます。

そして、身体感覚を深めていきます。
同時に心の動きを沈めていきます。

呼吸を深くしていくと自動的に心が静まってくるのです。

そしてご自身の意識を見つめます。

自分の内面の観察をしていくのです。

これが、ヨーガの道のひとつ、ラージャヨーガ(瞑想的ヨーガ)のアーサナ(坐法)の基本です。

ちなみに、現代においてヨーガとイメージされているのは、ハタ・ヨーガ(身体を動かしていくヨーガ)のポーズのことになります。このことについては、また機会があれば、説明してみたいと思います。



おじいちゃん、おばあちゃんの体は確かにたくさんは動かせなくなっていますが、
おじいちゃん、おばあちゃんの存在はしっかりと感じました。
実は、シニアヨガをすると、いつも講習しているこちらが幸せな気持ちになります。

それは、人ひとりひとりの存在を、かけがえの無いものとして感じさせてくれるからだと思います。
言葉や体の動きが不自由になっている分、意識そのものが、自由さを求めていることがとてもよくわかるのです。
高齢化社会を迎えるにあたって、本当の健康、体の健康とともに、心の安定、安心、そして、自分たちの生きている実感を得られるよう、多くの人がヨーガを進めてほしいと思っています。

参加していただいた人たち、
そして講習をしてくれた雅子さん、ボランティアに来てくれたキミコさん(写真ありがとうございました)、ニシガキさん、
いっぱいの感動をありがとうございました。

2011年8月13日土曜日

讃岐うどんヨーガ

以前、香川県に行ったときに、
ここはおいしいよ、という評判の讃岐うどん店を回ったことがあります。
有名店ばかりでしたが、どこもおいしい。
素人でも少しずつ麺とかの違いが分かったりして、おもしろかったです。

あまり知られていないようなところ、麺工場でそのままセルフサービスで出してくれるようなところとか、いろいろあるみたいなのですが、ぜひまた行ってみたいです。


ちなみに、
その時に、一番美味しいうどん!と思ったのが、
香川県ではなく、高知県で立ち寄ったお店。
黒潮町のいろりやでした。

店主さんにお話を聞いてみたら、
国産小麦を使って時間をかけた発酵をさせているとか。
ちょうど1週間低温熟成発酵の自家製パンに凝っていたので、
お話が面白かった!

麺はむっちりしていて旨みがありました。ツユもいい。
天ぷらの野菜も最高においしかったのです。

こんなことを書いていると、
本場の讃岐うどんが食べたい!ですよね。

最近は大阪にもいくつか讃岐うどん店はあります。
「はなまるうどん」はチェーンのセルフうどん店では、
今のところダントツにおいしいと思っているところです。


で、ここからいきなりヨーガの話になります。
はなまるうどんには、テーブルにパンフレットが置いてあるのですが、
このなかに衝撃的コピーがあるのを発見したのです。

うどんを食べる箸が思わず止まってしまいました。

そこにあった言葉は……

セルフって、気軽。
セルフって、自由。
セルフって、本場。


セルフというのは普通一般的はセルフサービスのことですから、
なんてことはないかもしれません。

ところが、ヨーガ、ヴェーダンタを勉強するものには、ガガガーーん、
とうなるほどのキャッチコピー!

これは、すごい。
ぜひ使わせていただきたい言葉なのです。

で、どうして?

となるのですが、スイマセン、説明不足ですが、またの機会に!
なんのことかわからないままですが、讃岐うどんはヨーガだったということで。
ごめんなさい(笑)

2011年8月4日木曜日

私という大問題



私とは誰か?

という大疑問に一生を費やした人がインドの聖者にいます。
南インドのアルナーチャラという山麓にいらした、ラマナ・マハルシ師です。

1896年、16歳だったラマナ少年は、それまで普通の男の子だったといいます。
6月17日、なんの前触れもなく突然家でバッタリ倒れて、死の恐怖に取りつかれてしまいます。
そして、次の瞬間には、自分の本質が何かを突き止めることに至りました。

普通の学校生活を送ることができなくなったラマナ少年は
とうとう家出してしまいました。
そしてシヴァの神がいらっしゃると聞いていたアルナーチャラ山に向かいます。
たった一人、神殿の奥で、誰とも会話をせず(マウナ:黙想)、
食べ物も食べず、時々心配した村人からの差し入れを無理やり口に入れてもらって、
足は虫に食われて傷だらけになりながらも、瞑想を続けたのです。

この時、ラマナ・マハルシは、
どこに行ったのでしょうか。




実は……どこにも行かなかったのです。
いままでも、いまも、これからも、
ほとんどの人が探さない場所、
自我を超えた、
本当の自分自身の本質、
いま、ここにいたのです。


少年はこのとき、自分の内側で、心の内側に平和を見ていました。
その平和があまりに素晴らしかったので、肉体や外側への興味を失ってしまったのです。
もしかすると、ここで肉体を捨てることもありえたかもしれません。
けれども、少年はこの世界に戻ってくることになりました。
多くの人が、少年におこっていることが、普通の体験ではないことに気づいて、
それを教えて欲しいと請うようになったからです。

最初、ラマナ少年にはその体験について伝える言葉はありませんでした。
言葉にならなかったのだと思います。
それは、言葉を超えた体験だったからです。
多くの信者が彼に問い掛けました。
賢者も少年に語りかけました。
その言葉が、少年の心から何かを引き出したのだと思います。
そして、彼はヴェーダンタの聖典の中に現れる言葉こそが、
自分の体験を語る道具として、ぴったりだということを発見したのです。

ヴェーダンタとは、その昔、太古の人々が神々から伝えてきた聖典です。
ブッダが現れ、その後に聖者シャンカラチャリアが解説を加えて、
確立させたインド最高の哲学です。


何年も経ってから、その体験を語るようになりました。

ラマナ・マハルシはこう言います。
「私とは誰か」
を私自身に問いかけていくことが、本当の私に到達する道のひとつですよ、と。

暗闇の海原に灯されて道を照らしてくれる灯台のように、
ラマナ・マハルシが体験したことをひとつの希望の星として、
そしてヴェーダンタの聖典に記された海図を読み解くことで、
自分たちにもこの世界の波を漕ぎ出す勇気を持てるのです。

ところで、今年2月からインドに行って、ヨーガ修行してきたのですが、
3月にこのアルナーチャラの山とラマナアシュラムに滞在してきました。
ラマナ・マハルシがいらっしゃった洞窟で瞑想をして、
夕方に宿に戻ってきたら、宿のおばさんが、
「たいへんだよ、日本がtsunamiだって!」
というから、インターネットを見たら…
そう3月11日の大地震がおきていたのです。





それでも、ぼくたちの生きているこの世界と、
そしてラマナ・マハルシが指し示した私と、
それは、本当は同じなんだよ。
ということを、ラマナ・マハルシは語っているように感じました。

はい、おじいちゃん(爺ちゃんの顔にちょっと似ている)がんばって修行します!

2011年8月1日月曜日

瞑想ワークショップ終了

昨日、瞑想ワークショップでした。
来ていただいた方、ありがとうございました。
sivanandaでの瞑想ステップと、ヴェーダンタで学んできたこと、モクシャについてなど、
内容の非常に濃い講義と、少しずつの実践に挑戦して頂きました。

3時間にも及ぶ長時間でしたが、みなさん真剣に参加していただき、とてもうれしかったです。


……3時間は長いですよね。


終わって、すこし話をしていたら、
「次はいつやりますか?」と聞かれました。

すごいです。その熱心さがすばらしい。


もっともっとわかりやすく伝えていきたいと思いました。

今回のワークショップの振り返りクラス+実践がしたいなぁと思ったのですが、
どうでしょう……?

2011年7月31日日曜日

フカヒレを食べながら、最後の私たちの願い

今日は普段行かない一流高級ホテルへ。
丸坊主姿。着ていく服がない…。
でも、ヨギーですので、気にしないで、インド製の綿シャツです。
そこで、カーマ喜びがたくさんの中華料理をいただきました。
およばれで、あれこれ自分では注文しなかったので、
鶏もあったし、フカヒレなんぞもいただいて、
普段ベジタリアンのヨギーとしては、美味しくも、胸が痛む、いやおいしい、
とろぉり、ねっとり、濃厚なスープ。そしてネギとなぜか安価なモヤシ…
ああ、こんなものを食ったら、千と千尋のお父さんになってしまう…、
えーい今日は気にするな、
ビールがおいしい!
という夕食でした。


そんなアダルマでラジャシックな私で、なんですが、前回の続きです。
(アダルマ=自然の法則に従っていない。ヨギーは動物性のものを食べることを避けているため。ラジャシック=激しい調子)

ここまでで、私たちが生きている間で望んでいることをひとつひとつ明らかにしてきました。

一つは、長生きができて(アルタ:安全)、
そして、楽しみ(カーマ)もたくさんあって、
その先に、
自然とか世界の人たちとの関係性の中で、
できるだけの自分の役割を果たして、
何かの役に立って(ダルマ:宇宙の法則を求めて)、


さて、最後の望みです。
私たち、自分の本当の望みとはなになのか……

最後の望みは、

わたしとは、いったい、誰なのか?
私はナニモノか!?

を知りたい!ということではないでしょうか。

ここは、哲学です。
この件に関しては、誰もあまり触れたがらない。
昔、お父さんに尋ねたような気がします。
自分とは何なのか。
でもね、大人はずるいので、誰も答えてくれないのです。
きっと答えがないからです。


ところが、そこのところをヨーガは教えてくれます。

生まれてきた理由は何なのか。
ここに私がいる理由は。
長生きをする私は誰なのか。
楽しんでいる私は誰なのか。
嘘をつく私は誰で、
人を騙す私は誰で、
悲しみにくれる私は誰なのか。
自然に親しむ私は誰で、
だれかのために一肌脱いでいる私は誰なのか。
そして、この死にゆく私は誰なのか。



ヨーガは人々の最後の願いは何なのかも明らかにします。

私とは、本来は、完全な自由、モークシャである。
というのが、ヨーガ、ヴェーダンタの答えです。

この時、ヴェーダンタでいう「自由」という言葉自体が、
一般の言葉からはかけ離れています。

完全な自由、ということなので、さらに難しい。

完全ということは、不完全ではない、限りがないということです。

いやいや、いやいや
限りということでは、自分たちは「限り」ばかりに日々気づいています。


朝起きるときは、もっと眠りたい、時間という限りに気づくことから始まります。
出来るだけ駅まで早く着きたい、それは距離という限りに気づいていることです。
速く走るにも肉体に限界があり、
多く仕事をこなそうとしても、頭の限界があります。
財布の中身には限界があり、
わたしの美しさにも限界があり(笑)
過去を、高学歴に変えるわけにも行かず、
バイリンガルが良かったなーといっても親を変えるわけにも行きません。
だから外国に行けば、言葉の壁があり、
職業を変えてみようかな、といってもなかなか簡単にはいかないのです。

そんな限りばかり、限界ばかりの私たち

そんな私の本質は、
本当は「完全な自由」、モークシャ
である、とヨーガは教えてくれます。

すばらしい結論!
あるいは、
ほんとなの? ぶっとんでいませんか?
なんだか甘い香りのする言葉?
そう思うのはあたりまえだと思います。

だから、だまされないようにしましょう(笑)、
自分たちが一つ一つ確かめながら、
学んでいく事がらです。

ですので、まずは、ヨーガは、健康ではなく、美容ではなく、
最後はモクシャを求めているんだなぁ
ということが、なんとなく理解できればそれでいいと思うです。

2011年7月27日水曜日

調和する生き方……ダルマで成長!

前回、ダルマの説明が中途半端でしたー。

今回は、さらに、ダルマを望むということは、成長である、というお話です


いろいろなひとが、安全や喜びを求めています。
さらに、ダルマ、自然の法則を見つけていくことに、喜びを感じ始めます。


カメラマン・写真家の例で言えば、
写真家と被写体とは関係性があることをまず知ります。
そして、写真家は被写体が自分の意図を超えたものであることであると知ります。

写真を取るときには、その場所・被写体への敬意を払って、
自分が撮らせていただくという立場を忘れずに、
その時、瞬間の贈り物を正しく受け取るようになります。
自然のメッセージをそこに見ることになるのです。
ダルマを感じた写真家は、その瞬間、人智を超えた自然の神秘、正しさ、美しさ、繊細さ、ダイナミックさを写真に込めます。正しく多くの人に伝わるように、技術を尽くして。

受け取った人たちは、自然に敬意、尊重、感動を知ることになるのです。


これが、ネイチャーカメラマンのダルマと言えます。


ダルマ=自然や宇宙の法則を見つけて
自然の法則、宇宙の法則に従って
その関係性、秩序の中で、
その世界に対して役に立つことを見つけていくこと。
これに対して喜びを見つけていくのは、探究心があるカメラマンの資質の最高のものです。
この資質は成長への喜びへとつながります。


数学者は、数学の中に正しい自然のダルマを見つけていくことに喜びを感じています。

物理学者は物理の中に壮大な自然のダルマを見つけていくことに喜びを感じています。

作家は物語の中に人間のエネルギーのダルマを見つけていくことに喜びを感じています。

絵かきは筆と絵の具でキャンバスに自分を超えたダルマを見つけては筆を取ります

医者はお金儲けを度外視してまでも多くの人が救われるようにダルマを見つけては日々働きます。

料理人は、愛情に満ちた食材を目の前にして、食する人の顔を浮かべながら、そのように調理すれば様々な人の自然の食材との接点が結べるかを探ります。

百姓は、太陽と月と水と大地と風の中で、植物の持つエネルギーを最大限活かして、おいしいと思ってもらえるような作品を探っています。

法則は何なのかを確かめていくこと、確認していくこと、
わたしたちがその法則の中に生かされていることを発見していくのです。
これまでは、安全や喜びに生きてきた私たちは、その奥に、宇宙の法則があることを
見つけていきます。

これら、眼に見えるものから、眼に見えないものまで、宇宙の法則、ダルマ
を見つけていくことは、わたしたちの第3番目の望みになります。

逆にダルマに沿わない生き方は可能でしょうか。
私たちは大きなこの宇宙の法則に逆らう、という自由選択があります。
それも人間は可能です。
人間だけは、ダルマに沿わない生き方があるのです。
ダルマをコントロールしようというのが、現代の社会における基本になっているかもしれません。
近代、現代科学、経済、哲学も、ダルマを人間の都合の良いように解釈して、変更を加えています。




アルタ=安全、カーマ=喜びを目的にする生き方をダルマにも応用しているのです。


ニュースを眺めていると、人々のほとんどの生き方が、そのように見えます。
そして、ダルマに沿っていないものが、たくさんあるようです。



さて、もともとの話の発端ですが、
ヨーガとこのダルマはつながるでしょうか。

答えは、はい、つながります。

このダルマとつながっていく生き方はヨーガの生き方のまず第一歩です。

2011年7月18日月曜日

ヨーガって何? 私たちの望み…3

さて、前回、ヨーガとは結ぶ、という語源からきているという話で始まりました。
何を結ぶのか、というと、まず、「私」があります。
もう一方に何があるのか、が問題でしたね。

一つの候補としては「安全」(サンスクリット語ではアルタ अर्थ artha)です。
つまり、生きていくことの基礎ですね。
もうひとつは「喜び」=カーマ (काम kaama)  です。
これだけでも、わたしたちが生きている意味をたくさん感じられると思います。

しかし、ヨーガのもっとも重要な教え、ヴェーダンタでは、3つめがあるといいます。
この3つ目の私たちの望みとはなんでしょう?

3つ目はダルマ (धर्म dharma )といいます。
簡単にいえば法則、とでもいうのでしょうか。
ダルマ、法則は人間の決めていった「法律」ではなく、
この自然や宇宙の法則のことになります。

はたして、この自然、宇宙の法則ってどのようなことでしょうか。
こんなものをみんなが求めているのでしょうか?

たとえ話を考えてみました。

今、ここで、わたしは、写真家です。ネイチャーカメラマンです。
まず、写真家は、何かの状況を説明しようとカメラを持って、被写体に迫り、シャッターを切ります。
私は世界的にも有名な、奈良の吉野山の桜の風景を撮ります。

写真を撮って、現像して、その写真が一定のクオリティを持っていることが、売り物になり、お金になり、自分の生計を満たしてくれます。つまり、私の望みの一つである「安全=アルタ अर्थ」が写真によって満たされます。

一つ目が満たされましたが、私は写真家ですから、それだけでは満足しません。

すてきな写真を撮ることで、それが掲載されて、
それを見た誰かが「ああ、こんなところにいってみたいなぁ」なんて感想をもらって、
あるいは、何かの賞をもらったりして、
自分の写真を認めてもらうことができたら、
これは私の望みの一つである「喜び=カーマ」を得ることが出来ます。
私は、誰かに認められることで、自分を確かめることができるからです。
仕事で自分を認めてもらうことは、自分の存在を確認できることになるのです。


まだその上に、写真家は追求するべきものがあります。
いよいよ、ダルマを見つけるのです

それまでは、写真家にとって被写体は「私」が狙ってコントロールしている対象でした。
「私がそのサクラを撮ってやろう」と思っていたのです。

ところが、ダルマを見つけようとしている写真家にとって、
被写体と「私」とは共同作業者の関係になります。
この関係性の中で、写真を撮るということは、「私」が「写真を撮る」というのではなくなります。
なぜならば、被写体は「私」の思い通りになることはないからです。

サクラは、その時何百年もの生命をつないで、毎年訪れてくる季節の移り変わりを感じて、
いまここに花開いています。
今年はいつもよりも寒い冬だったかもしれません。
いつもよりも雪が多かったかもしれません。
つぼみは固く、でも確実に春に向けて膨らんでいきます。
そしていよいよこの春を迎えました。
サクラの咲き具合は、場所場所によって、違っています。
日当たりのいいところは早めに咲き始めますし、日陰になりがちなところは遅いのです。
また木一本一本によって、その性格も枝ぶりも違っています。
花には裏年、表年といって、咲き具合は年ごとに違いを見せます。
裏年の次の年だからといって、その年にたくさん花をつける、ということでもありません。

撮影のその日、狙っていた青空ではないかもしれません。
人通りは少ないほうがいいと思っていたところで、早めに団体客が来ているかもしれませんし、
あるいは観光客がたくさん来ているところを撮ろうと思っていても、その日はなぜか少ない時にあたってしまうかもしれません。


ダルマを理解している写真家であれば、
その時に出会うサクラや空や風や太陽、霧や朝もやも、雲も雨も、花見客の様子も、店先の賑わいも、観察しています。そして、その時の様々な条件の組み合わせでしかありえない、たった一枚の写真を撮ります。

これは、写真家が観察しているだけで、撮れるのではなく、
世界がそのようにあるから、そして写真家がその存在を観察しているときに成り立ちます。

写真を撮る(世界を自分の思うようにコントロールしようとする)、のではなく
写真を撮るチャンスを与えられる(世界を知り、自分がその世界との関係の中で生きている)ことを知ります。
その写真家は自分と世界の関係性を知るのです。

自分を含めた世界や宇宙には、目に見える関係性があります。
また、目に見えない関係性もあります。

関係性は、空間や時間の中で一つの秩序を持ちます。

サクラと季節には関係性があります。

季節は地球の回転と関係性があります。
地球の回転は宇宙と関係性があります。
宇宙は時間と空間の関係性があり、

時間と空間は、別別のものではなく、一つのエネルギーであることを
物理学の法則によって明らかになり、

このエネルギーはこの私の身体にも、
サクラの花びらにも、
バクテリアにも、
細胞にも、
DNAにも、
アミノ酸にも、
原子にも、
素粒子にもあることを知るようになりました。

これらの関係性、秩序、自然・宇宙の法則をダルマというのです。

私たちが生きているということは、
ここに存在しているということは、
宇宙的なエネルギーが、それぞればらばらではなく、
ひとつの調和と秩序を持って、
さまざまな関係性の中でのバランスを保つことで、

たとえ、そんなバランスを保つ力はどこからきて、どこへ去っていくのかを知らなくとも、

素晴らしい法則があることによって、
ここにこうしていることができます。

ヨーガを行う人、ヨーギーやヨギーニは、このダルマをまず見つけようとして、
このダルマに沿って生きることを一つの目標とします。



ところで、今日はヨーガ堂・山部が山登りに行こうとしていた日でした。
台風が来たから中止になったのです。

「あー山に行きたかったー」
とガッカリしていますか?

ガッカリですよね。

そんなときはめいいっぱいガッカリ気分を観察して、
そのあと、お茶を淹れて、
今日のダルマを発見してみませんか?


写真家が雨の日でも、いろんな発見をして、その時にしか出来ない仕事をするように、

ヨーギーは台風のときに、
台風でしか見られないダルマを見つけようとするのです。

2011年7月15日金曜日

ヨーガって何? 私たちの望み…1・2

今回は、
ヨーガって一体なんでしょうか……?
ということに挑戦してみます。

「ヨーガ」のもともとの言葉の意味は、
つなぐ、結う、という意味だと言われます。
つなぐということは、一つ以上の何かがあって、それがつながるということです。

では、何と何がつながるのでしょうか。

一つは、ヨーガをしている本人です。
「私」、がまず一方にあります。

そして私が「何か」とつながります。

さて、私は何とつながりたいでしょうか。
言い換えれば、何が私たちの願いなんでしょうか。


一つは安全です。
自分たちは生命の安全を願っているのです。
生まれ持っての本能は、自分の命を守るために、素晴らしい機能を与えてくれています。
生まれたての赤ん坊を水の中に浮かべてみたら、
その赤ん坊は、その本能で息を止めて、水をかき分けようとします。
水の中から出してあげてみれば、空気のあることを知って、息を吐き出して、吸い込もうとします。
教えられなくても、生命の維持を図っています。
私たちの願いの一つ目は、生命が安全であることです。
これは動物や植物とも共通の願いです。

今年の3月11日に、地震で、津波で、そしてそれ以降、放射能汚染で、
広島・長崎、東京・大阪空襲以来経験したことのない大規模な生命の危機を感じ続けています。
本当の自分たちの願いはなんだったのか、を確認することになりました。


私たちの願い事の二つ目は、
喜びです。
生命が安全であれば、そこに安心が生まれます。
安心があるところには、楽しみを求める心が出てきます。
いのちをつないでいく食べ物や空気や水や睡眠が満たされたら、
そのうちに自分というものの存在に気づきます。
この時、ただ、生きているだけでは面白くないのです。
これは動物や植物より、人間に発達した願い事です。

まず、子供の時には、おいしいと感じる食べ物や、
心地のよいベッドや、面白くおかしいおもちゃ、アトラクションが欲しくなります。
おかあさんに褒められたくなるだろうし、注目をあびることも喜びです。

大人になれば、かなり複雑になります。
たくさんのお買い物ができるようにお金があることや、
誰よりも自分の価値が感じられるように、地位や名誉、権力、
誰よりも賞賛を浴びることができる、美貌、ファッション、
資格をたくさん持ったり、好きな音楽をたくさん聞いていたり、
喜びを追求するようになります。

ここまでは私たちの願いで実に分かりやすいものです。

きっと誰もが願っています。

ではヨーガとは、
「私」が「喜び」とつながること
なんでしょうか。

たとえば、身体の健康は、安全+喜びです。
ヨーガをすれば健康になります。
これは喜ぶべきことです。
なので、ヨーガは私が健康になること、という答えでも、もちろんいいとおもいます。

ほかにも、少しヨーガを続けてきた人はこう思うかもしれません。

ヨーガでかっこいいアーサナができるようになって嬉しいですが、
それよりも、ココロが安定してきました。
ココロが健全です。
これが目的じゃないでしょうか。

ココロが健全なことも「喜び」です。
では、ヨーガでココロが安定することが目的でしょうか。


答えは、
「いいえ」です。
ヨーガは「私」と「安全」や「喜び」を結ぶものではないのです。


ヨーガの教えのなかでも最も重要な教え、ヴェーダンタでは、私たちの生きている中で、願い事は4つあるように見えると言います。
3つめがあって、さらに4つめもあるんですね。
喜び、快楽、で望みは叶えられたはずなんですが…。

人間には、こんなにも望みがあったっけ?


この続きはまた次回です。