今月は土-tuchi-ホームページを作り直していました。
ホームページはもう5年目だったのかな?
いままで見ていただいてありがとうございました。
ヨーガ堂・土-tsuchi-も少しずつ変化しています。
ホームページもそれにともなって変化していくべきだろうと思ったのです。
音楽がついているページがありますが、押し付けがましくなってませんか?
本当は、ホームページに音楽は要らない、と思っているのです。
会社で休み時間にサイトを開いたりして、そしたら急に音楽が鳴って、
周りに聞こえたりすると迷惑ですよね。
僕も経験があります。
もしそんなことになったら、ごめんなさい。
http://yoga-do-tsuchi.com/news/
上のページをブックマークしておくと音楽なしです。
今回の音源はなんだかホッとして、
昔好きで何度も聞いていた音楽に少し似ていて、、、、
竹村延和さんの時計台の朝ですね。
いま聞いてみたら、それほど似ていないですね。あはは
ホームページの方の音楽は、試験的に当分の間つけておきます。
さて、土-tsuchi-は社会的に不器用な二人の講師によってゆるゆると進んでいます。
ヨーガの本質へ向かって行こうとしていった時に、ヴェーダーンタに出会い、
そのヴェーダーンタに出会うことで、アーユルヴェーダが深く染みてきたんではないかな、
そう僕たちは考えています。
ヴェーダーンタはすべてのモノゴトの本質の話ですが、
そこに向かうためにはどうしてもこころと向き合います。
わたしたちはモノゴトを直接には見ておらず、
間に入ってくる考えによって、モノゴトを見ています。
ですから、モノゴトを見るためには、まず考えを見なければいけないのです。
目には見えず、触ることもできず、匂いをかぐことも、味わうことも、聞くこともない、
かすかな物質、考え=こころ。(ヨーガ&ヴェーダンタではこころも物質です)
けれども、こころがあるから目が見えて、触れて、匂いを嗅いで、味わい、聞きます。
こころはこの五感を持つ肉体の背後にあって、それを支えています。
五感、は神経や脳で起きている信号のやりとりで、目に見える物質の世界の力がありますが、
さらにその背後にある見えない、かすかな物質であるこころが支えているので五感となります。
その五感=こころには、さらにその背後にある考え=記憶、感情、知識、自我があります。
考え=記憶、感情、知識、自我がどこかに行っている時、
たとえば電車の中で風景は目に飛び込んでいるのに、
何も見ていない、何も聞いていない、ということがあります。
外から飛び込んでくる情報があります。
こころがそこにあると、五感がキャッチして、
さらにそれを自分の考えのフィルターに通します。
そうするとただの光のつぶつぶだったものが、
記憶と照らしあわせて、最後に「わたし=自我」が、こう発言するのです。
「あーあれは学生時代の友人だね」(と「わたし・自我」は言う)
でもよく見てみれば、学生時代の友人はそこには存在していません。
体の中の原子は1年で95%入れ替わる、という話を聞いたことがあります。
本当かどうかは知りませんが。
すべての細胞は7年で生まれ変わる。というのも聞いたことがあります。
きっとそうなのでしょう。
ですから、学生時代が7年前だったら、肉体的にはもう同じ人ではないのです。
そういうわたしだって、もはや昔の肉体は手放してしまっています。
こころだってそうですよね。考えはつぎつぎ起こります。
(考えの量は1日に数万ある、だったかな?
そして新しい考えは1%くらい、だったような。また調べておきます。)
体と比べて考えのほうが変わりにくいかもしれませんね。
それでも変わっていきます。
考えも体も変化し続けています。
でも、わたしは、「あーあれは学生時代の友人だね」と認識します。
この時、私の記憶を見てます。
わたしは私の考えを見ているのです。
しかも、相手もわたしを見ていません。
その人はその人にある考えを見ます。相手の中にある記憶、それを見て、
「やー久しぶり」と言います。
その相手はいまのわたしをこれっぽっちも知らないのです。
わたしは、外の世界をありのまま見ている、と思っています。
けれども、見ているのは自分の考え、こころです。
ここは大きな違いですよね。
さらに、わたしはわたし自身をよく見ている、と思っています。
けれども、見ているのはわたしと思っているわたし、
わたしの考えを見ています。わたしという観念を見ています。
ありのままのわたしを見ることをしていません。
ありのままのわたしってなに?
というのがヴェーダーンタです。
いろんな考え、観念が染み付いていますから、
この世界に対しても、観念のフィルターを通して見ています。
世界を見ているようで、自分の考えを見てしまいます。
もし、世界がつまらなく見えていたら、
それは自分の心がつまらない考えを持っているからかもしれません。
自分自身がダメに見えていたら、
自分の考えがダメな考えになっているからです。
考えは考え方の訓練が必要です。
アーサナはアーサナの訓練が必要なように。
何度も何度も繰り返していくこと。そして、間違えることも勉強ですよね。
ダメな考えもいい考えも、それもすべて考えです。
それらの考えの後ろにも、大事な考えが潜んでいます。
なんども掘り起こして、自分の考えの奥に潜んでいる、大切な記憶を見つけて、
そして世界と私にとって調和の取れる考え、客観的な考え、思いやりのある考えを
身に着けていくことは、長い間かかってもやり遂げるだけの価値のあることだと思います。
さて、来週からインドです。
また、考えの訓練してきますね。
ホームページはもう5年目だったのかな?
いままで見ていただいてありがとうございました。
ヨーガ堂・土-tsuchi-も少しずつ変化しています。
ホームページもそれにともなって変化していくべきだろうと思ったのです。
音楽がついているページがありますが、押し付けがましくなってませんか?
本当は、ホームページに音楽は要らない、と思っているのです。
会社で休み時間にサイトを開いたりして、そしたら急に音楽が鳴って、
周りに聞こえたりすると迷惑ですよね。
僕も経験があります。
もしそんなことになったら、ごめんなさい。
http://yoga-do-tsuchi.com/news/
上のページをブックマークしておくと音楽なしです。
今回の音源はなんだかホッとして、
昔好きで何度も聞いていた音楽に少し似ていて、、、、
竹村延和さんの時計台の朝ですね。
いま聞いてみたら、それほど似ていないですね。あはは
ホームページの方の音楽は、試験的に当分の間つけておきます。
さて、土-tsuchi-は社会的に不器用な二人の講師によってゆるゆると進んでいます。
ヨーガの本質へ向かって行こうとしていった時に、ヴェーダーンタに出会い、
そのヴェーダーンタに出会うことで、アーユルヴェーダが深く染みてきたんではないかな、
そう僕たちは考えています。
ヴェーダーンタはすべてのモノゴトの本質の話ですが、
そこに向かうためにはどうしてもこころと向き合います。
わたしたちはモノゴトを直接には見ておらず、
間に入ってくる考えによって、モノゴトを見ています。
ですから、モノゴトを見るためには、まず考えを見なければいけないのです。
目には見えず、触ることもできず、匂いをかぐことも、味わうことも、聞くこともない、
かすかな物質、考え=こころ。(ヨーガ&ヴェーダンタではこころも物質です)
けれども、こころがあるから目が見えて、触れて、匂いを嗅いで、味わい、聞きます。
こころはこの五感を持つ肉体の背後にあって、それを支えています。
五感、は神経や脳で起きている信号のやりとりで、目に見える物質の世界の力がありますが、
さらにその背後にある見えない、かすかな物質であるこころが支えているので五感となります。
その五感=こころには、さらにその背後にある考え=記憶、感情、知識、自我があります。
考え=記憶、感情、知識、自我がどこかに行っている時、
たとえば電車の中で風景は目に飛び込んでいるのに、
何も見ていない、何も聞いていない、ということがあります。
外から飛び込んでくる情報があります。
こころがそこにあると、五感がキャッチして、
さらにそれを自分の考えのフィルターに通します。
そうするとただの光のつぶつぶだったものが、
記憶と照らしあわせて、最後に「わたし=自我」が、こう発言するのです。
「あーあれは学生時代の友人だね」(と「わたし・自我」は言う)
でもよく見てみれば、学生時代の友人はそこには存在していません。
体の中の原子は1年で95%入れ替わる、という話を聞いたことがあります。
本当かどうかは知りませんが。
すべての細胞は7年で生まれ変わる。というのも聞いたことがあります。
きっとそうなのでしょう。
ですから、学生時代が7年前だったら、肉体的にはもう同じ人ではないのです。
そういうわたしだって、もはや昔の肉体は手放してしまっています。
こころだってそうですよね。考えはつぎつぎ起こります。
(考えの量は1日に数万ある、だったかな?
そして新しい考えは1%くらい、だったような。また調べておきます。)
体と比べて考えのほうが変わりにくいかもしれませんね。
それでも変わっていきます。
考えも体も変化し続けています。
でも、わたしは、「あーあれは学生時代の友人だね」と認識します。
この時、私の記憶を見てます。
わたしは私の考えを見ているのです。
しかも、相手もわたしを見ていません。
その人はその人にある考えを見ます。相手の中にある記憶、それを見て、
「やー久しぶり」と言います。
その相手はいまのわたしをこれっぽっちも知らないのです。
わたしは、外の世界をありのまま見ている、と思っています。
けれども、見ているのは自分の考え、こころです。
ここは大きな違いですよね。
さらに、わたしはわたし自身をよく見ている、と思っています。
けれども、見ているのはわたしと思っているわたし、
わたしの考えを見ています。わたしという観念を見ています。
ありのままのわたしを見ることをしていません。
ありのままのわたしってなに?
というのがヴェーダーンタです。
いろんな考え、観念が染み付いていますから、
この世界に対しても、観念のフィルターを通して見ています。
世界を見ているようで、自分の考えを見てしまいます。
もし、世界がつまらなく見えていたら、
それは自分の心がつまらない考えを持っているからかもしれません。
自分自身がダメに見えていたら、
自分の考えがダメな考えになっているからです。
考えは考え方の訓練が必要です。
アーサナはアーサナの訓練が必要なように。
何度も何度も繰り返していくこと。そして、間違えることも勉強ですよね。
ダメな考えもいい考えも、それもすべて考えです。
それらの考えの後ろにも、大事な考えが潜んでいます。
なんども掘り起こして、自分の考えの奥に潜んでいる、大切な記憶を見つけて、
そして世界と私にとって調和の取れる考え、客観的な考え、思いやりのある考えを
身に着けていくことは、長い間かかってもやり遂げるだけの価値のあることだと思います。
さて、来週からインドです。
また、考えの訓練してきますね。