2011年7月31日日曜日

フカヒレを食べながら、最後の私たちの願い

今日は普段行かない一流高級ホテルへ。
丸坊主姿。着ていく服がない…。
でも、ヨギーですので、気にしないで、インド製の綿シャツです。
そこで、カーマ喜びがたくさんの中華料理をいただきました。
およばれで、あれこれ自分では注文しなかったので、
鶏もあったし、フカヒレなんぞもいただいて、
普段ベジタリアンのヨギーとしては、美味しくも、胸が痛む、いやおいしい、
とろぉり、ねっとり、濃厚なスープ。そしてネギとなぜか安価なモヤシ…
ああ、こんなものを食ったら、千と千尋のお父さんになってしまう…、
えーい今日は気にするな、
ビールがおいしい!
という夕食でした。


そんなアダルマでラジャシックな私で、なんですが、前回の続きです。
(アダルマ=自然の法則に従っていない。ヨギーは動物性のものを食べることを避けているため。ラジャシック=激しい調子)

ここまでで、私たちが生きている間で望んでいることをひとつひとつ明らかにしてきました。

一つは、長生きができて(アルタ:安全)、
そして、楽しみ(カーマ)もたくさんあって、
その先に、
自然とか世界の人たちとの関係性の中で、
できるだけの自分の役割を果たして、
何かの役に立って(ダルマ:宇宙の法則を求めて)、


さて、最後の望みです。
私たち、自分の本当の望みとはなになのか……

最後の望みは、

わたしとは、いったい、誰なのか?
私はナニモノか!?

を知りたい!ということではないでしょうか。

ここは、哲学です。
この件に関しては、誰もあまり触れたがらない。
昔、お父さんに尋ねたような気がします。
自分とは何なのか。
でもね、大人はずるいので、誰も答えてくれないのです。
きっと答えがないからです。


ところが、そこのところをヨーガは教えてくれます。

生まれてきた理由は何なのか。
ここに私がいる理由は。
長生きをする私は誰なのか。
楽しんでいる私は誰なのか。
嘘をつく私は誰で、
人を騙す私は誰で、
悲しみにくれる私は誰なのか。
自然に親しむ私は誰で、
だれかのために一肌脱いでいる私は誰なのか。
そして、この死にゆく私は誰なのか。



ヨーガは人々の最後の願いは何なのかも明らかにします。

私とは、本来は、完全な自由、モークシャである。
というのが、ヨーガ、ヴェーダンタの答えです。

この時、ヴェーダンタでいう「自由」という言葉自体が、
一般の言葉からはかけ離れています。

完全な自由、ということなので、さらに難しい。

完全ということは、不完全ではない、限りがないということです。

いやいや、いやいや
限りということでは、自分たちは「限り」ばかりに日々気づいています。


朝起きるときは、もっと眠りたい、時間という限りに気づくことから始まります。
出来るだけ駅まで早く着きたい、それは距離という限りに気づいていることです。
速く走るにも肉体に限界があり、
多く仕事をこなそうとしても、頭の限界があります。
財布の中身には限界があり、
わたしの美しさにも限界があり(笑)
過去を、高学歴に変えるわけにも行かず、
バイリンガルが良かったなーといっても親を変えるわけにも行きません。
だから外国に行けば、言葉の壁があり、
職業を変えてみようかな、といってもなかなか簡単にはいかないのです。

そんな限りばかり、限界ばかりの私たち

そんな私の本質は、
本当は「完全な自由」、モークシャ
である、とヨーガは教えてくれます。

すばらしい結論!
あるいは、
ほんとなの? ぶっとんでいませんか?
なんだか甘い香りのする言葉?
そう思うのはあたりまえだと思います。

だから、だまされないようにしましょう(笑)、
自分たちが一つ一つ確かめながら、
学んでいく事がらです。

ですので、まずは、ヨーガは、健康ではなく、美容ではなく、
最後はモクシャを求めているんだなぁ
ということが、なんとなく理解できればそれでいいと思うです。

2011年7月27日水曜日

調和する生き方……ダルマで成長!

前回、ダルマの説明が中途半端でしたー。

今回は、さらに、ダルマを望むということは、成長である、というお話です


いろいろなひとが、安全や喜びを求めています。
さらに、ダルマ、自然の法則を見つけていくことに、喜びを感じ始めます。


カメラマン・写真家の例で言えば、
写真家と被写体とは関係性があることをまず知ります。
そして、写真家は被写体が自分の意図を超えたものであることであると知ります。

写真を取るときには、その場所・被写体への敬意を払って、
自分が撮らせていただくという立場を忘れずに、
その時、瞬間の贈り物を正しく受け取るようになります。
自然のメッセージをそこに見ることになるのです。
ダルマを感じた写真家は、その瞬間、人智を超えた自然の神秘、正しさ、美しさ、繊細さ、ダイナミックさを写真に込めます。正しく多くの人に伝わるように、技術を尽くして。

受け取った人たちは、自然に敬意、尊重、感動を知ることになるのです。


これが、ネイチャーカメラマンのダルマと言えます。


ダルマ=自然や宇宙の法則を見つけて
自然の法則、宇宙の法則に従って
その関係性、秩序の中で、
その世界に対して役に立つことを見つけていくこと。
これに対して喜びを見つけていくのは、探究心があるカメラマンの資質の最高のものです。
この資質は成長への喜びへとつながります。


数学者は、数学の中に正しい自然のダルマを見つけていくことに喜びを感じています。

物理学者は物理の中に壮大な自然のダルマを見つけていくことに喜びを感じています。

作家は物語の中に人間のエネルギーのダルマを見つけていくことに喜びを感じています。

絵かきは筆と絵の具でキャンバスに自分を超えたダルマを見つけては筆を取ります

医者はお金儲けを度外視してまでも多くの人が救われるようにダルマを見つけては日々働きます。

料理人は、愛情に満ちた食材を目の前にして、食する人の顔を浮かべながら、そのように調理すれば様々な人の自然の食材との接点が結べるかを探ります。

百姓は、太陽と月と水と大地と風の中で、植物の持つエネルギーを最大限活かして、おいしいと思ってもらえるような作品を探っています。

法則は何なのかを確かめていくこと、確認していくこと、
わたしたちがその法則の中に生かされていることを発見していくのです。
これまでは、安全や喜びに生きてきた私たちは、その奥に、宇宙の法則があることを
見つけていきます。

これら、眼に見えるものから、眼に見えないものまで、宇宙の法則、ダルマ
を見つけていくことは、わたしたちの第3番目の望みになります。

逆にダルマに沿わない生き方は可能でしょうか。
私たちは大きなこの宇宙の法則に逆らう、という自由選択があります。
それも人間は可能です。
人間だけは、ダルマに沿わない生き方があるのです。
ダルマをコントロールしようというのが、現代の社会における基本になっているかもしれません。
近代、現代科学、経済、哲学も、ダルマを人間の都合の良いように解釈して、変更を加えています。




アルタ=安全、カーマ=喜びを目的にする生き方をダルマにも応用しているのです。


ニュースを眺めていると、人々のほとんどの生き方が、そのように見えます。
そして、ダルマに沿っていないものが、たくさんあるようです。



さて、もともとの話の発端ですが、
ヨーガとこのダルマはつながるでしょうか。

答えは、はい、つながります。

このダルマとつながっていく生き方はヨーガの生き方のまず第一歩です。

2011年7月18日月曜日

ヨーガって何? 私たちの望み…3

さて、前回、ヨーガとは結ぶ、という語源からきているという話で始まりました。
何を結ぶのか、というと、まず、「私」があります。
もう一方に何があるのか、が問題でしたね。

一つの候補としては「安全」(サンスクリット語ではアルタ अर्थ artha)です。
つまり、生きていくことの基礎ですね。
もうひとつは「喜び」=カーマ (काम kaama)  です。
これだけでも、わたしたちが生きている意味をたくさん感じられると思います。

しかし、ヨーガのもっとも重要な教え、ヴェーダンタでは、3つめがあるといいます。
この3つ目の私たちの望みとはなんでしょう?

3つ目はダルマ (धर्म dharma )といいます。
簡単にいえば法則、とでもいうのでしょうか。
ダルマ、法則は人間の決めていった「法律」ではなく、
この自然や宇宙の法則のことになります。

はたして、この自然、宇宙の法則ってどのようなことでしょうか。
こんなものをみんなが求めているのでしょうか?

たとえ話を考えてみました。

今、ここで、わたしは、写真家です。ネイチャーカメラマンです。
まず、写真家は、何かの状況を説明しようとカメラを持って、被写体に迫り、シャッターを切ります。
私は世界的にも有名な、奈良の吉野山の桜の風景を撮ります。

写真を撮って、現像して、その写真が一定のクオリティを持っていることが、売り物になり、お金になり、自分の生計を満たしてくれます。つまり、私の望みの一つである「安全=アルタ अर्थ」が写真によって満たされます。

一つ目が満たされましたが、私は写真家ですから、それだけでは満足しません。

すてきな写真を撮ることで、それが掲載されて、
それを見た誰かが「ああ、こんなところにいってみたいなぁ」なんて感想をもらって、
あるいは、何かの賞をもらったりして、
自分の写真を認めてもらうことができたら、
これは私の望みの一つである「喜び=カーマ」を得ることが出来ます。
私は、誰かに認められることで、自分を確かめることができるからです。
仕事で自分を認めてもらうことは、自分の存在を確認できることになるのです。


まだその上に、写真家は追求するべきものがあります。
いよいよ、ダルマを見つけるのです

それまでは、写真家にとって被写体は「私」が狙ってコントロールしている対象でした。
「私がそのサクラを撮ってやろう」と思っていたのです。

ところが、ダルマを見つけようとしている写真家にとって、
被写体と「私」とは共同作業者の関係になります。
この関係性の中で、写真を撮るということは、「私」が「写真を撮る」というのではなくなります。
なぜならば、被写体は「私」の思い通りになることはないからです。

サクラは、その時何百年もの生命をつないで、毎年訪れてくる季節の移り変わりを感じて、
いまここに花開いています。
今年はいつもよりも寒い冬だったかもしれません。
いつもよりも雪が多かったかもしれません。
つぼみは固く、でも確実に春に向けて膨らんでいきます。
そしていよいよこの春を迎えました。
サクラの咲き具合は、場所場所によって、違っています。
日当たりのいいところは早めに咲き始めますし、日陰になりがちなところは遅いのです。
また木一本一本によって、その性格も枝ぶりも違っています。
花には裏年、表年といって、咲き具合は年ごとに違いを見せます。
裏年の次の年だからといって、その年にたくさん花をつける、ということでもありません。

撮影のその日、狙っていた青空ではないかもしれません。
人通りは少ないほうがいいと思っていたところで、早めに団体客が来ているかもしれませんし、
あるいは観光客がたくさん来ているところを撮ろうと思っていても、その日はなぜか少ない時にあたってしまうかもしれません。


ダルマを理解している写真家であれば、
その時に出会うサクラや空や風や太陽、霧や朝もやも、雲も雨も、花見客の様子も、店先の賑わいも、観察しています。そして、その時の様々な条件の組み合わせでしかありえない、たった一枚の写真を撮ります。

これは、写真家が観察しているだけで、撮れるのではなく、
世界がそのようにあるから、そして写真家がその存在を観察しているときに成り立ちます。

写真を撮る(世界を自分の思うようにコントロールしようとする)、のではなく
写真を撮るチャンスを与えられる(世界を知り、自分がその世界との関係の中で生きている)ことを知ります。
その写真家は自分と世界の関係性を知るのです。

自分を含めた世界や宇宙には、目に見える関係性があります。
また、目に見えない関係性もあります。

関係性は、空間や時間の中で一つの秩序を持ちます。

サクラと季節には関係性があります。

季節は地球の回転と関係性があります。
地球の回転は宇宙と関係性があります。
宇宙は時間と空間の関係性があり、

時間と空間は、別別のものではなく、一つのエネルギーであることを
物理学の法則によって明らかになり、

このエネルギーはこの私の身体にも、
サクラの花びらにも、
バクテリアにも、
細胞にも、
DNAにも、
アミノ酸にも、
原子にも、
素粒子にもあることを知るようになりました。

これらの関係性、秩序、自然・宇宙の法則をダルマというのです。

私たちが生きているということは、
ここに存在しているということは、
宇宙的なエネルギーが、それぞればらばらではなく、
ひとつの調和と秩序を持って、
さまざまな関係性の中でのバランスを保つことで、

たとえ、そんなバランスを保つ力はどこからきて、どこへ去っていくのかを知らなくとも、

素晴らしい法則があることによって、
ここにこうしていることができます。

ヨーガを行う人、ヨーギーやヨギーニは、このダルマをまず見つけようとして、
このダルマに沿って生きることを一つの目標とします。



ところで、今日はヨーガ堂・山部が山登りに行こうとしていた日でした。
台風が来たから中止になったのです。

「あー山に行きたかったー」
とガッカリしていますか?

ガッカリですよね。

そんなときはめいいっぱいガッカリ気分を観察して、
そのあと、お茶を淹れて、
今日のダルマを発見してみませんか?


写真家が雨の日でも、いろんな発見をして、その時にしか出来ない仕事をするように、

ヨーギーは台風のときに、
台風でしか見られないダルマを見つけようとするのです。

2011年7月15日金曜日

ヨーガって何? 私たちの望み…1・2

今回は、
ヨーガって一体なんでしょうか……?
ということに挑戦してみます。

「ヨーガ」のもともとの言葉の意味は、
つなぐ、結う、という意味だと言われます。
つなぐということは、一つ以上の何かがあって、それがつながるということです。

では、何と何がつながるのでしょうか。

一つは、ヨーガをしている本人です。
「私」、がまず一方にあります。

そして私が「何か」とつながります。

さて、私は何とつながりたいでしょうか。
言い換えれば、何が私たちの願いなんでしょうか。


一つは安全です。
自分たちは生命の安全を願っているのです。
生まれ持っての本能は、自分の命を守るために、素晴らしい機能を与えてくれています。
生まれたての赤ん坊を水の中に浮かべてみたら、
その赤ん坊は、その本能で息を止めて、水をかき分けようとします。
水の中から出してあげてみれば、空気のあることを知って、息を吐き出して、吸い込もうとします。
教えられなくても、生命の維持を図っています。
私たちの願いの一つ目は、生命が安全であることです。
これは動物や植物とも共通の願いです。

今年の3月11日に、地震で、津波で、そしてそれ以降、放射能汚染で、
広島・長崎、東京・大阪空襲以来経験したことのない大規模な生命の危機を感じ続けています。
本当の自分たちの願いはなんだったのか、を確認することになりました。


私たちの願い事の二つ目は、
喜びです。
生命が安全であれば、そこに安心が生まれます。
安心があるところには、楽しみを求める心が出てきます。
いのちをつないでいく食べ物や空気や水や睡眠が満たされたら、
そのうちに自分というものの存在に気づきます。
この時、ただ、生きているだけでは面白くないのです。
これは動物や植物より、人間に発達した願い事です。

まず、子供の時には、おいしいと感じる食べ物や、
心地のよいベッドや、面白くおかしいおもちゃ、アトラクションが欲しくなります。
おかあさんに褒められたくなるだろうし、注目をあびることも喜びです。

大人になれば、かなり複雑になります。
たくさんのお買い物ができるようにお金があることや、
誰よりも自分の価値が感じられるように、地位や名誉、権力、
誰よりも賞賛を浴びることができる、美貌、ファッション、
資格をたくさん持ったり、好きな音楽をたくさん聞いていたり、
喜びを追求するようになります。

ここまでは私たちの願いで実に分かりやすいものです。

きっと誰もが願っています。

ではヨーガとは、
「私」が「喜び」とつながること
なんでしょうか。

たとえば、身体の健康は、安全+喜びです。
ヨーガをすれば健康になります。
これは喜ぶべきことです。
なので、ヨーガは私が健康になること、という答えでも、もちろんいいとおもいます。

ほかにも、少しヨーガを続けてきた人はこう思うかもしれません。

ヨーガでかっこいいアーサナができるようになって嬉しいですが、
それよりも、ココロが安定してきました。
ココロが健全です。
これが目的じゃないでしょうか。

ココロが健全なことも「喜び」です。
では、ヨーガでココロが安定することが目的でしょうか。


答えは、
「いいえ」です。
ヨーガは「私」と「安全」や「喜び」を結ぶものではないのです。


ヨーガの教えのなかでも最も重要な教え、ヴェーダンタでは、私たちの生きている中で、願い事は4つあるように見えると言います。
3つめがあって、さらに4つめもあるんですね。
喜び、快楽、で望みは叶えられたはずなんですが…。

人間には、こんなにも望みがあったっけ?


この続きはまた次回です。

2011年7月9日土曜日

お金がたくさんあることは幸せですか?

先日、中国人向けの、中国骨董品のオークションイベントが終わりました。
二日間で、なんと5億円!のお金が目の前を流れていきました。(現金は数千万円でしたが)

僕はそこで、なにをしていたかというと、
朝からオークション会場となっているホテルのホールを走りまわっていました。
コンピューターに少し詳しいというので、なぜかこういったイベントの落札から精算までの計算システムを組んで、運営する仕事をしているのです。
ヨーガ以外にこんな特技があったんですね。


ところで、中国人向けの、骨董品のオークションっていきなり書いてもなんのことかわからないですよね。
説明してみます。


今、中国の経済が20年前の日本のバブルのように、どんどんと膨れ上がっています。

お金持ちはお金が有り余っていて、有り余ったお金を置いておくのもったいないので、なにか価値のあるものを売り買いしようとします。

そこで登場するのが、骨董品です。

戦後、経済成長の時と、中国から多くの骨董品が安く買われては日本で売られていました。
中国の美術品がどんどんと日本に流出したのです。

今、その骨董品を日本から持ち帰ると、中国では高値で取引されるのです。

そこで、この10年くらいの間に、日本で中国人のための、中国骨董品がオークションというのが始まったのです。

近頃は、オークションというとyahooオークションなどインターネットでのオークションがイメージされるかもしれません。

でも、これは、生のオークションです。

イベント会場にその骨董品や美術品が展示されて、中国人バイヤーが熱心にルーペなどで調べてその骨董品の価値を確かめに来ます。

当日は、モニターに写真を表示して、落札者たちが目当ての品が出てくると、自分の番号札を上げたりして、競りあってどんどんと値を上げていくのです。
値が上がりきって、誰も札を挙げなくなると、ハンマー係が、
バチン、と音を立てて、

「356番、150万円、謝謝」

と、その値段での落札者を決定するのです。

熱心な顧客は中国から電話で参加して、電話の向こうから会場の様子を確かめ、代理の中国人スタッフに落札の札を挙げさせて、落札します。

今回のオークションで一番の高値が4500万円だったか、4800万円だったか、忘れましたが(自分のお金ではないので、どうでもいいのですね!)の書画でした。

受付で業務していると、となりの中国人スタッフの女の子(ほとんどのスタッフは日本の大学に留学しに来ていて、日本語が堪能なのです)がタメ息をついて、

4500万円!! はぁ~、マンション買える~

その後にも何千万かの落札があり、

はぁ~マンション買える~
というのです。

マンションばっかりやなぁ、他にほしいもんないのん?
と聞くと、

そしたら、ハワイに旅行に行きたい!
何回行けるやろ。向こうに住めるんと違う?

とまたもやタメ息です。

こんなとき、ついついヨーガ講師の私としては、聞きたくなるのです。
「何が本当の幸せか」を。

じゃあ、ここに来ている人のような、お金持ちの人と結婚すれば、幸せなんじゃないの?

お金があれば、この世界、この時代においてすべての自由を手にしているようなものです。なんでも買うことができて、なんでも手に入れることができるはずです。

そうしたら彼女は答えました。


「ダメダメ。お金がたくさんあったら、大変なこともたくさん」

えーそうなの? そのとなりの中国人スタッフにも聞いてみました。あなたもそうですか?

「お金がたくさんあると、苦労も多いです」

では、何が幸せなの?

私は学校に行って勉強したり、楽しいことをしていることが幸せ。


お金、お金と騒いでいるオトナたちを横目に、
今この時を輝いている、学生たちは、
本当の価値は何なのかを、見極めようとしていました。

なんだかホッコリしたひとときでした。

2011年7月3日日曜日

クーラーないとき、プラーナあるとき

6月27日(月)のワークショップからあっという間に一週間経ちました。

あのワークショップあたりから気温はぐんぐん上昇して、街中ではクーラーが当たり前になってきました。

昨日だったか、おとといだったか、
関西電力の株主総会で、原発に対する反対意見が飛び交う中、
「クーラーなくて会議ができるか!」と怒鳴った人がいたとか…。

確かに暑いとね、
集中できなくなります。

ならば、いっそのこと
拡散に向かうというのはどうでしょう。

ヨーガで言えば、シャバアーサナ、死体のポーズです。

なんと不思議な名前がついてます。
シャバ、
娑婆に似てますが、死骸ってことなんです。

ボディが完全に弛緩していって、マインドはリラックスして静まります。
この時ボディを包んでいるプラーナ(気・エネルギー)は充実していきます。

そういえば、体験した中で一番熱かったのは、
スーダンの首都ハルツームの昼間50度、夜の40度というのがありました。
日陰にいって、樹の下で、熱いチャイとかカルカデ(ハイビスカスティー)の甘いのを飲むのが一番涼しくなる方法でした。
夜はベットと、床に水を打ち水しないと干からびてしまうという熱さでした。


そんな時の自分のボディは力が入らなくて、それこそ死体に近いです。
そこに住む人もそんな暑さの中なので、必死には仕事してはいません。
でも、プラーナ、気、エネルギーは、
ゆるやかで、しなやかで、強く、優しい感じがしました。
夕方になって少し日差しが柔らかくなると、
ぞろぞろと街中が動き始めます。
屋台が活気づいて、裸電球なんかがぶら下がっている下にたくさんの商品が並んでいて、
楽しそう。
スーダンで会議なんてやっていたんだろうか。
きっと、屋台で繰り広げられる会議は、
日本のクーラーのあるオフィスで行われる会議の何倍もプラーナに満ち溢れている。
たぶん間違いないです。

もはや、日本は熱帯にある、と宣言して、
クーラーも効かない、それでイイんじゃない、と居直ってみるのはどうでしょう。

暑すぎるので仕事もそこそこにしましょう、
こんなときには、みんなで路上の屋台へ行っちゃいましょう。
異業種交流会、となりの山田くんともお友達になってしまう、
ダンスもしましょう、盆踊もいい、

といった、昔からのアジアの伝統に戻ることが、
ほんとうの意味での日本の復興だといえましょう。

2011年7月1日金曜日

Sivananda Yoga WS スワミ・マハデヴァナンダ 講演

Sivananda Yoga Tokyo Center高円寺オープンを記念して
大阪WSが無事終わりました!!


世界的には大きな組織になっているシヴァナンダヨーガ。
日本ではまだまだ知られていないのですが、今回6月27日の大阪WSでは、予想をはるかに上回る参加をいただきありがとうございました。
こんなに関西にシヴァナンダヨーガをされている人達がいることに驚きました。
そしてみなさんにお会いできたことが嬉しかったです。
それからタイTTCでお世話になった紀子さん、マリオ、イシャンに再会できたこと、
今回のことで、新しくシヴァナンダの友人、ファミリーになった人たちに出会えて、幸せでした。

これを機会に……
ある友人に早く書きなさいとお尻を叩かれてやっとのこと…
ヨーガ堂・土-tsuchi-(大阪茨木市で小さなヨーガ教室をしています)
のブログを開設したいと思いました!
自分でパチパチ!
ブログ・日記が非常に苦手なのですが、トライしてみます。

ヨーガ(サンスクリット語ではヨーガと発音したほうがより近いので、ここではヨーガと書きます。ヨガでも間違いじゃないです)は、コマーシャルでも、ヨーガのイメージが使われるようになり、本当に誰にでも知られるようになってきました。
ヨーガを教えていて感じることは、多くの人が、健康とか自然な生活とか、たくさんの人の志向が自分自身へと、そして自分と環境とのかかわりへと向かうようになっていることだと思います。

そんな中、今回初めての関西でのスワミ・マハデヴァナンダの講演では「祈りの力」というテーマでお話ししていただきました。
祈りも自分自身や環境とのかかわりを感じる、とっても内面的な作業です。
実は、スワミ・マハデヴァナンダジを始め、世界中の人達は今回の震災、原発の事件に関してたくさんの祈りをしていただいていました。

それにしてもヨーガと祈り、ってなかなか難しいテーマでしたよね。
いや難しいのです。特に現代人、日本人にとっては。
祈り…って現代の日本人にとっては、もっとも遠い存在かもしれません。


Sivaram(このブログを書いている本人です)が10年前、アジアからアフリカ、中東を1年と7ヶ月旅したとき感じたことは、
「祈りは生活、人が生きることそのもの」
でした。

チベットの荒野ではなーんにもない大高原にいきなり石が積んであって、カラフルな旗がぽかんとした青空にたなびいていて、どんなところにも祈りが込められていました。
そんな荒野を何百キロも自分の体を地面に倒して進んで(五体投地で)、
聖地を目指して巡礼する人たち…。
「そーなんだよなー…これがチベットだー」としみじみ感動したものです。
インドでは毎日ガンジス川で沐浴している人がいて、
葉っぱの上に花と小さな灯火を川に流していて…。
プージャ、儀式があって。
アフリカ・エチオピアでは、古代のキリスト教が残っていて、それこそなーんにもない岩だらけの荒野に現れる岩山の上に洞穴を作って、ずっと、ずっと、お祈りをしているのです。

トルコ・カッパドキアも、お祈りの場所でした。

スーダンやエジプトの街中にはモスクの祈りの声が流れていて、

ケニアやタンザニア、ウガンダには、大地を素足で歩いている人たちの生きる姿が、
そのもの自然と融け合っていて、プリミティブな祈りがあったような気がします。

日本に帰って10年くらい経つと、世界はそうだったなぁくらいになってしまいました。

日本の生活は祈りが本当に少ないのです。
でもきっと、50年も経たない昔ならば、日本でも当たり前だったと思うです。
いまだって少しは痕跡があります。
田舎にいくと、田んぼの脇の道祖神なんかありますよね。
千と千尋の神隠しの最初のシーンにありますよね。
うちの近く、安威にはちゃんと田んぼの横にあります。

なぜ人は祈るのでしょう。

逆に言うと、

人は、人だから祈ります。
動物は祈るでしょうか?
うちには黒猫の秋さんがいますが、見ていてもどうも祈っていないようです。
動物は、祈らないですよね。


農業をしている人は特にわかるとおもうのです。



苗を育てるところから、土と水の力を知って、温度が季節によって変わって、どのくらいの日にちだったら、作付けするのに適していて……、虫がいて、病気があって
大風や大雨や低温や日照り…
自然力を知っていてもなお、コントロール出来ないことがあります。

自然の力は自分たちの考えをはるかに超えています。

この時、人は自分を越えている大きな法則があることがわかります。
これをヨーガではダルマと言ってます。
私たちは、成長を経て、
このダルマ、自然の法則に逆らわないことを学びます。
どれだけ、豊かな人でもダルマに逆らうことは叶わないです。
たとえばアメリカの大統領だって、アップルのスティーブ・ジョブズだってダルマに逆らうことは出来ません。
政府がどれだけ政策を考えても、
ダルマ、自然の法則に勝てっこないのです。

人は必ず死ぬ、というのも大きなダルマです。大統領だって変えることは出来ません。

原発でも、部分的に人の力を使っていますが、
もともとは、自然・宇宙の本来持っている莫大なエネルギーです。

燃料がメルトダウンして、
格納器を飛び出してメルトスルーしているか、
巨大なエネルギーを出している放射線があまりにも危なっかしくて、
人間ではカメラとか装置を設置することもできなくなっていて、
少し離れた環境の変化から、きっとこうなんじゃないかなーという曖昧な推測でしか、自然のエネルギーを測ることが出来ない状態です。
誰も直接見に行くことができないのです。

こんなふうに、小さなことでも、大きなことでも、環境を、きっと人をも、
コントロールする、ということは出来ない、といこともダルマです。

だからまず、自分たちは自然の法則を謙虚に学ぶ姿勢が必要です。

そして、自分たちは思い通りに自然を、何かをコントロール出来ないことを知らなければ行けないのです。

では、いったい「祈り」とはどういうことなんでしょう。
コントロール出来ないことを祈るのは無意味じゃないでしょうか?

祈りは個人の心を使って、ダルマ、自然の法則に直接アクセスしようとする試みです。

自然の法則にアクセスすればダルマは変わるでしょうか?
きっとダルマは、祈ったところでダルマ、自然の法則のとおり働くでしょう。
(ダルマに沿った祈りは、もちろん行為=祈りに対する答え=リアクションがあります)

では祈りで変わるのは、何でしょう。

まず、個人の心が変わります。

祈りによってダルマにアクセスすると、自分の心がダルマに沿ったものへと変化します。
わたしたちは台風で風に飛ばされるかもしれない稲穂に対して祈ることによって、
自分たちの力でのみ生きていると思い込んでいることを間違いだなーと悟ります。

原発の話で言えば、私たちのからだは、強い放射能に耐えることは出来ないなーということ、
こういったアタリマエのことを祈りによって実感するはずです。

祈りによって理解されることは、
生きていることそのものが祝福なんだな、
ありがたいなぁなんて感じること。
そして他の生き物のためにも、
自然、ダルマに逆らわないでおこうよ、

という選択がわたしたちの中で生まれてきます。
そういう考え、選択が普通に、自然に生まれてきます。

祈りによっておこることは、それ以外にもまだまだあります。

でも今日はこの辺で。

ダルマの説明は難しいよねーっとシヴァナンダヨーガ東京センターのマリオに話をしたら、
(マリオはとってもピュアな眼をもったフランス系のカナダ人で、間違いなく世界でトップクラスのヨーガの修行を積んでいる素敵なヨギーです。)

みんなダルマを「法」って言うから、自由を縛り付けるモノと解釈しがちで、
これはなんだかしたいことを止められるような嫌な感じするよね。
でも、ダルマは「自然な流れのこと」だよ、
と教えてくれました。
流れに逆らうと、大変だよね。
流れに乗っていると、ほら、楽に泳げるじゃない。
と。
マリオが言うと、魔法にかかったように「そうだそうだ、うーん納得するー」と感動してしまいます。

あ、僕のリスニング能力ではそう聞こえました。まちがっていたらごめんなさい。

長い文章になりました!
息切れしないように続けていきますね。

Hari Om Tat Sat