2013年1月2日水曜日

ポジティブ…③好きと嫌いと幸せの関係



あけましておめでとうございます。

2日になってしまいましたので、間が抜けた感じしますが。

大晦日から元日にかけてはタオ療法の和田寺で、念仏に挑戦してました。

何回唱えたのでしょうか……南無阿弥陀仏を…。

108回の五体投地もあったのですが、それ以外にも唱えて続けていたので、わかりません。

夜9時から3時間の仮眠があって、昼12時までありました。

念仏だけではなく、体感するワークや踊り念仏などもあり、真面目かつおもしろく、

笑いにも満ちていました。

どこか、シヴァナンダヨガのTTCに通じるものがあります。

しかし昨年の108回の太陽礼拝(3時間だったかな)よりも、

108回の五体投地(たぶん30分くらい)のほうが、筋肉痛になりました。

たぶん、ぼくにはペースが早かったからでしょう。



さて、あみださまはサンスクリット語ではअमिताभ Amitābhaで、

サンスクリット語辞書によれば

Amitaが測れない、無限の

abhaは光や表れで、雄大, 光彩, 壮麗, 栄耀, 栄華とも訳されます

阿弥陀は、無限の光

ということです。



仏教的にはわかりませんが、

ヨーガ的にこのアミターバを解釈してみればどうなるでしょう。

無限の光とは物理的な光ではないですよね。

物理的な光は空間や時間の制約を受けています。

無限は限りがないこと、つまり、時間や空間とは関係がないことです。

そして光は自らは輝きそのものであり、他の暗闇をも照らしてはっきりさせます。

暗闇の中で、もっとも暗いものは、自分自身と世界の本当の姿について知らないこと。

つまり、無知です。

あみださまはこの無知の暗闇を照らして払ってくれるということなのでしょう。

もしこの意味で正しければ、グルという意味と一緒です。

グは暗闇、ルは振り払うことです。

元日の初日の出を拝むのも、グルであり、阿弥陀であり、無知を振り払うことです。



無知のうちの一つ、自分たちの無知の中でもこれは大きい、という無知は

(前回のブログの続きになりますが、)好きと嫌いについてになるかもしれません。

みんな好きなことで幸せになる、と考えています。

また、同じように嫌いなことを避ける事で幸せになる、と考えます。

本当にそうでしょうか?

好きなアイスクリームの話があります。

あるスワミジが生徒に尋ねました。

一個目のアイスクリームは幸せにしてくれるのに、

どうして3個目のアイスクリームは幸せにしてくれないのか?

好きなアイスクリームが食べられたらいつでも自分は幸せになるはずです。

ところが、好きなモノは幸せにしてくれないことがあるのです。

ある生徒がそれに答えて言いました。

「それは3個目になると(冷静になって)パッケージの成分表を見て

(人工甘味料に発ガン性物質、こりゃ体に悪いなとわかって)しまうから」(笑)

これはブラックな笑い話ですけれど、

好きなモノは本当に私を幸せにするのでしょうか?

好きな事に没頭したりすることはよくあります。

もし好きな人ができたら、わたしは幸せだ!とおもいます。

けれど、次の瞬間にはこう思うかもしれません。

わたしはあの好きな人にはつりあわない。

もし嫌われたらどうなるだろう…

好きな人がいなかったときはそんな心配はなかったのに。

好きな人がこっちに振り向いたら幸せかもしれません。

けれど、その好きな人が私以外になにか好きな事を見つけたら…

好きなことが次々と心配や不安を生み出します。

好きなことがあるとき、その好きなことが近づかなかったり、

離れてようとした時、離れた時に不幸になるのです。

好きな事は不幸を創りだしてしまいます。

では、嫌いなことはもうわかるでしょう。

嫌いなことがあるときに不幸でしょうか?

嫌いなこと、たとえばゴキブリにしましょうか。

やめましょう、万人に強烈すぎます。お正月ですから(笑)

嫌いなこと、そうですね。渋滞が嫌いだとします。

渋滞があると知った時、近づいた時、いまここにあるとき、不幸です。

けれども、その嫌いな渋滞のまっただ中にいたら、必ず不幸でしょうか?

そうではない時がありましたよね。

子供の頃、渋滞でもなにか遊びを見つけては、夢中になってました。

前を走る車のナンバーでさえ遊びの道具になったりしました。



かつてこんな考えさせられたことがありました。

戦争で焼け野原になってしまったときに子どもたちは不幸だったのか……ということです。

僕が知っている何人かの戦争体験者は、戦争はもちろん良くない、のは当然なのですが、

焼け野原の状態や死体が積み重なる世界を不幸だとは表現されていませんでした。

ぼくも10年前にパレスチナに行った時、

ガザ地区で爆撃を受けた跡のマンションで遊んでいる子どもたちを見ました。

彼らのこころは傷ついているのだろうと思いました。

けれども、不思議と不幸、というものは感じられませんでした。

死がたくさんまわりにあって、兄弟も親も友人もたくさんいなくなる世界。

検問で1時間もかかって、隣の町にも自由に世界。

そんななかでも青年は夢を語っていました。明るい目をしていました。

大きな爆撃を受けていない世界、イスラエルの街に戻った時、

人々の目には暗いものがあるように見えました。



家がなく、お金がないことは嫌ですが、不幸とは関係がないのです。

好きと嫌いは、誰にでもあります。あたりまえです。

けれども好きな事を追いかけていくこと、嫌いなことを避けていくことで幸せになれる、

というのは真実ではありません。

無知ゆえにそうしているのです。


好きなことが離れていく時に受け入れること、


嫌いなことを受け入れてしまったとき、不幸はそこにはないのです。


では幸せはどこにあるのでしょう。

さきほどの、あみださまの話しに戻りますが、

「阿弥陀とは時間の空間に限定されない光である」、と訳してみました。

時間とは過去と未来です。時間とはつかむことのできない流れです。

逆に、時間と空間に限定されないものとは、いま、ここのことです。

今はとっても短い時間のことではないのです。

「今」は時間には関係がありません。

そして、いま、ここの光、とは今一番自分に近いもの、意識のことです。

ですから、本当のわたしは阿弥陀のことなのです。

実は幸せとは自分自身の中にあります。

幸せにしてくれるものがあるとき、外側にそれが見えるとき、

それは自分自身の姿を、その外側に投影しています。

本当の自分は幸せそのものです。


外側に幸せが見えるとき、それは阿弥陀仏、と見えます。

内側に幸せがあるということが本当だと理解できますように、

そして幸せから離れることがないように、

あなたというのは幸せという意味そのものである、

と、ヴェーダーンタは教えてくれています。