2011年8月29日月曜日

カオナシ。道具と自分との識別

ヨーガは、元はといえば、インドの行者さんの瞑想だと言ってもいいかもしれません。

昔の人はヨーガを通じて、自我を見つめて、自分を深めていき、自分と偉大なる自然、大いなるものとつながっていきました。お釈迦さんもヨーガをしていたといいます。ブッダは苦行を重ねて体を酷使したすえに、「苦行には意味はない」という結論を出しました。が、ヨーガの哲学、思想はしっかりと体験され、その教えの中に入っています。
人間とは何か、世界とは何かという問いかけは、そんなヨーガによって答えを得たのです。
そして、その答えは、どんな人間にも、どんな世界にも、何を信じていようと、信じていなくても、普遍的なことです。


普遍的ですから、誰にでもOKということです。
つまり、うれしいことに、どんな人にもヨーガの入り口があります。

いわゆる一般的な運動は、比較があって競争なども行われます。
だから、ある程度基準を設けなければいけません。
男のグループであるとか。
ボクシングなんかは体重別で決めたりしますね。
学生と社会人ではぜんぜん違うとか。

ヨーガは何かと比較することはない、内面の作業です。
競争ももちろん、ありません。
ヨーガの規定演技、などというのはありえないのです。
〇〇選手、自由演技で高得点のヨーガ!なんてことは、ツノの生えているウサギ、
言葉上ではありえますが、実際にはヨーガではないのです。

隣の人がたくさん、息を吸っているから、隣の人の勝ち、なんてことはありません。
わたしのほうが、体が柔らかいから、わたしの気分がいい、
という時は、ヨーガをしていないことになります。比較をしていますから。

もっと正確に見ていくと、
ヨーガにおいても、物事の比較そのものはあるかもしれません。
過去の自分と今の自分を記憶の中で比べたりすることはあるでしょう。
でも、そのことでがっかりしたり、喜んだり、
そんな感情と自分を引っ付けてしまうことをしないのです。

「自分」はもともとは、自分を持たず、何にでもなれる「カオナシ」(映画:千と千尋の神隠し/スタジオジブリに出てきた妖怪)です。

水晶にも例えられます。水晶は透明ですが、後ろ側に置いたものによって、
水晶はいろんな色を持つように見えます。
考えによって、感情が動くと、カオナシはそれを飲み込んで、自分にします。
水晶は、その感情を自分の色としてしまいます。


たとえば、あなたは道具を使用します。
その道具は車だとしましょう。
あなたは車を使用します。

あなたと車は違いますが、自分が車を運転している時、
車全体を自分だと認識するようになります。
だから、車の天井を擦っていまいそうな背の低いゲートなどを潜ろうとする時、
あなたの首をすくめます。
タイヤをどこかにぶつけると、
「アイタッ!」と叫びます。痛くはないのに、あなたは車になっているので
痛みまで感じるのです。

その車が古くてオンボロで、故障ばかりだとします。
すると自分の車は駄目だ、という気分になり、
いつの間にか、自分はダメだという気分にもなります。

あなたの車、道具は確かにダメかもしれません。
でも、だからといって、あなたはダメではないですよね。

でもわたしたちはいろんな道具と自分をくっつけてしまいます。
もっとも身近な道具、この「体」のことをわたしたちは自分だと思い込んでいます。
この体を自分だと思い込むと、何が起こるでしょう。
この自分は20歳くらいがピチピチの最高です。
力があって、肌に弾力があって、怪我をしても回復が早い。
そして、40歳くらいになると、もはやボロが出てきて、
60歳はオンボロで、80歳はどうなんでしょう。
自分はたった20歳前後だけが最高ということです。
あとは、落ちる一方です。

ヨーガはちゃんとそこのところを識別=ヴィヴェーカしなさい。と教えてくれます。
観察して、正しい答えを見つけることがヨーガです。

「この体は私のものですが、私はこの体ではない」というのが、
本当の結論です。
本当の結論が出てくれば、本当に生きているとは、どういうことなのか、
私たちの存在はどういうことなのか、という答え、ゴールまで、あと少しになってきます。

2011年8月27日土曜日

讃岐うどん3 : 私はこの肉体ではない

讃岐うどんヨーガと題して
なんだか、話がどんどんとすすみます。
饂飩ですから、話も太く伸びます。
腰もあって、うまい。はず。笑
さて、さて、


セルフって、気軽。
セルフって、自由。
セルフって、本場。


この讃岐うどんのキャッチコピーの言葉によって、遠いところまでやって来ました。

自分たちの行き方は①安全②喜び③ダルマ=宇宙の法則、他との協調性④モークシャ=完全な自由を求めていくということがわかってきました。

モークシャ:完全な自由を求めていくとき、
この時、自分という定義自体が、今までの考え方とは異なります。



いままでは、
「自分」はこの「体」でした。
そして、この自分という「気持ち」があります、気分があり、元となる気、エネルギー、つまり元気があります。
自分というエネルギーです。
そして、自分という「意識」があります。
「体」と「エネルギー」と「意識」が、
「この私こそ、私である」、と宣言していますが、
この私の定義は果たして、本当に私なのでしょうか。

まず物質的な自分を見てみましょう。

この体は私です。
そうではないでしょうか。

私の体は、私である。という定義がありますが、

このことは全くの勝手な思い込みである。

そんなことを今回は見ていきますね。




まず、肉体はどのようにして生まれてきたでしょうか。

学校では、私たちはお母さんの卵子にお父さんの精子がくっついて、受精したいことによって始まったと学びました。二人分のDNAがひとつに組み合わさったのです。
DNAレベルでは私は受精によって始まったということです。

お父さんお母さんを、私は選択できたのか……という謎があります。
私にも、たぶん、みなさんにもわからないですね。
だからこの私の体の始まりは、「私」が始めたのかどうかは謎だということが解りました。

そして、DNAの情報量は30億対塩基、75メガバイトと言われます。
頭が痛くなるような数字です。どえらい複雑さです。
1か0かのデジタルデータみたいな組み合わせて30億の数があるということです。


そこからタンパク質ができたりする情報が必要らしく、情報はもっともっと必要になるようです。
DNAだけでは、人間はできないらしいです。

これらの肉体の「私」はこの設計にたずさわりましたか?
正直言って、この私の体のDNAの設計については私は知らないです。
みなさんも、自分のDNAの設計をしてきた、という人は一人もいないと思います。
つまり、私の体の設計は、私以外のなにかが始めたということが解りました。

さらに、時間が過ぎていくと自分の起源がわかるでしょうか。

お母さんの胎盤に張り付いた受精卵。細胞はまだひとつから2つ、4つ、8つとわかれたひとつの生命の卵のようなものです。

この細胞たちは増えていきます。
そして人間の形となります。

私の始まりは、なんだかまだよくわかりません。

ところで、細胞たちが増えていくためのエネルギー、栄養などはどこから来ましたか?

栄養は母の胎盤から注ぎ込まれました。
へその緒を通じて、外とつながって、エネルギーが来たのです。
そのエネルギーは私でしょうか。
元は母のエネルギーです。
母のエネルギーは、その元は、食べ物でした。
その食べ物のエネルギーはどこから来たでしょうか。
大地と水と太陽から来ました。

生まれてきてからは、私たちは食べ物を通じて、エネルギーを補給して細胞分裂を繰り返して大きく成長してきました。
エネルギーをいただいて、自分は成長してきました。


最終的には外界に出てくるようになります。
おぎゃあと泣いて、どうでしょうか、「私」は始まりましたか?

生まれてきてからの、別の側面を見てみましょう。

私は食べ物を補給します。

食べ物を口に入れた途端に、その食べ物は自分になるのでしょうか。
町で昇華されて吸収して血液に流れた時でしょうか?
息を吸い入れたとき、どこから自分の酸素と言うのでしょう?
血液に入ってから? 肺に入ってから? 口に入ってから? 眼の前の植物から酸素が出てきた時から?

私にとって一番重要な栄養素である酸素がどこから自分の酸素ということになるのでしょう。



あるいは、物質が出ていくところを見てみます。

排泄した瞬間にどこからその自分は自分でなくなるのでしょうか。

口から出た二酸化炭素はもはや自分ではないですか?
あるいは自分の尿はもはや自分ではない?
自分が出した二酸化炭素はもはや自分ではない?


肉体の始まりにおいては、決して自分独自では設計もできなければ、
設計変更もないし、父でもなければ、母でもない設計者がいるようです。
自分の考えではひとつも成り立たないことがわかりました。

その設計を考えたのが私でなければ、誰が作ったのでしょうか。
わたしが作ってもいないのに、このわたしはあるのでしょうか?
不思議なことです。

映画をつくるときには監督がいます。
その映画はやっぱり、その監督の作品だといいます。

この体という作品は、
監督が自分ではないということがわかっています。
そうすると、この体は自分の作品ではありません。


肉体の成長において、酸素や水、食物などの栄養やエネルギーなどが自分の中に取り込まれていきますが、どこからが自分のエネルギーと言えるかもはっきりしていません。出ていくときも自分から自分でなくなる瞬間はわかりません。
今現在においても物質的なこの体は、どこから自分で、どこから外界となるのか、あるいは、自分の内部にある大量の菌、乳酸菌とかいろんな菌が腸内にはいます。細胞ひとつひとつの中には、ミトコンドリアという共生者がいるのですが、これらは自分なのでしょうか。あるいは、自分とは違うのでしょうか。


私は、私が作ったのでもなければ、私がコントロールできるものでもない
私という境界線すら曖昧なのです。


このことは、つまり、
自分の肉体は、自分ではない、と言えます。
仮に「自分の体」と名付けて、勝手に使っているだけだと言えます。

この肉体を自分が所有しているかもしれませんが、
自分が車を所有しているように、
自分の乗り物として、この肉体があるのです。
つまり、
私はこの肉体ではありません。
私はこの肉体の所有者ではあるけれど、私はこの肉体ではないのです。

話は続きます……

2011年8月26日金曜日

讃岐うどんヨーガ2 : モークシャについて

前々回に讃岐うどんヨーガと題して書いてみましたが。
そのうどんの中身については、なにもお伝えしてませんでした。

讃岐うどんがヨーガなわけはないでしょ!
というツッコミ。そこが大事です。

讃岐うどんやさんにあったキャッチフレーズこそ大事です。

セルフって、気軽。

セルフって、自由。

セルフって、本場。


このことについて、勝手な説をいろいろと展開してみようと思います。

さて、ヨーガとは   (アタ ヨーガ-……ヨーガスートラの始まりですね)
何だったでしょうか。

ヨーガはyuj、繋げるというのが語源でした。
何と何を繋げるのかというと、
まずは、片方に自分があります。
そして、自分は①安全であること。
自分は生き延びていきたいという存在であることは間違いありません。

そして、次の目標があります。
②喜び
私は喜びが欲しいのです。生きているだけではモノ足りません。
楽しいことが大事です。

その次に出てくるのは、③ダルマ=周りの人や環境とのつながり、関係性の中での豊かさです。
すべての環境との調和がとれた行き方、ダルマ(自然の法則、義務)の行き方です。
人を傷つけたり、環境を汚したりせず、他人を救ったり、環境の豊かさの手助けになるような生き方です。

安全や喜びを求めていく行き方は、子供でも、動物でも、ひょっとすると植物にもある生き方です。
けれども、ダルマ=調和を生きて行く選択、これは人が成長してきた先にやっとのこと出てくる生き方です。

ダルマは宇宙の法則や宇宙の義務という言葉に訳されることが多いのですが、もし最小限な言葉で言ってしまえば「慈しみ」ということかもしれません。
自分への思いやりと、他のものに対する共感性をもって自分と他とを大切にするということです。
このダルマについてどのように勉強すればいいでしょうか。

人間の脳の研究において発見されたことは、
人は、共感する能力がある、そういう機能を持つ脳の機能があるということです。

つまり、人は幸いなことにこのダルマを自然にプログラミングされて知っているということです。

誰もが、どんな悪人であろうと、どんな争いをしていても、人の痛みを自分の痛みとして感じる力があります。慈しみの心を持っているのです。だから、犯罪者であろうと、本当は知っているのです。自分が人を傷つけたこと。そしてそのことで自分が傷ついていることを。
そうでなければ、その人は病んでいるということになります。
共感性を失ってしまった病にかかってしまったということです。


さて、最後に出てくるヨーガの目標はなんだったでしょうか。

私は④完全なる自由(モークシャ)である。
これが人間の最終目標である、とヨーガの哲学で教えてくれました。

例えば、私はお金持ちになりたい、ということは、
私はお金で不自由になることから自由になりたい、と言い換えることが出来ます。

例えば、私は幸せになりたい、ということは、
私は、辛いな、苦しいなと思うようなことから自由になりたい、
ということです。
つまり、様々な限界が私たちにはあるということ。
いつまでも若々しくありたいけれども、生まれて死ぬという限界。
この空間に押し込められている自分たちの物理的限界。
たくさん勉強して、いろんなことを覚えていきたいけれど、記憶力には限界があり、
いっぱい働きたくても、体力にも限界があります。
放射能に打ち勝つ体を持ちたくても、日本人がみんな福島原発に負けない精神と体を持ちたくても、やっぱり限界はあります。


これらのたくさんの限界から自分を自由にしたいということが、自分たちの目標なのです。

この完全な自由を求めているという目標は、
ダルマ、他との協調性、調和を求めて、その先にこの考え方が出てきます。
自分はたった一人の存在ではなく、多くの他との関係性を学んでいった先に出てくる結論です。

つづく

2011年8月23日火曜日

大丈夫。みんなできるんです


8月19日金曜日、アメリカ在住のパドマヴァティ雅子さんがいらっしゃいました。
そしてお昼から近所の老人介護施設の天兆園さんににおじゃまして、雅子さんの指導によるシニアヨーガを行いました。
車椅子の方も含めて、20人くらいの参加者がいらっしゃいました。


まずは自己紹介です。

一番右が雅子さんです。
目は一番血液を消費する感覚器官です。だから目を休めることは、自分の体をいたわることなのです。


呼吸とともに腕を上げ下げします。みなさん、呼吸をこんなに意識して体を動かすことがないので、けっこう体力を使います。




前回、雅子さんが来てくれたのが、昨年の12月。

それをきっかけに、3月には静岡のヨガスタジオZENTRAの「こころプロジェクト」に参加している講師manasiますみさんに来て頂いてのシニアヨーガもありました。
こころプロジェクトも雅子さんがZENTRAにいらっしゃったことから始まったことなんです。

ヨーガっていうと、若い人のダイエットのイメージとか、アクロバティックなポーズのイメージを持っていると、びっくりするかもしれませんね。

実はこんなふうに高齢者の方々も、車椅子の人も、身体障害者の人も、ヨーガができるのです。


そして、健康な人以上に、健康を目指している人こそ、ヨーガを始めて欲しいのです。


ゆっくりとした体の動きとともに、
呼吸もゆったりとしていきます。

あるいは、体を動かさずに、
呼吸をゆったり深くしていきます。

そして、身体感覚を深めていきます。
同時に心の動きを沈めていきます。

呼吸を深くしていくと自動的に心が静まってくるのです。

そしてご自身の意識を見つめます。

自分の内面の観察をしていくのです。

これが、ヨーガの道のひとつ、ラージャヨーガ(瞑想的ヨーガ)のアーサナ(坐法)の基本です。

ちなみに、現代においてヨーガとイメージされているのは、ハタ・ヨーガ(身体を動かしていくヨーガ)のポーズのことになります。このことについては、また機会があれば、説明してみたいと思います。



おじいちゃん、おばあちゃんの体は確かにたくさんは動かせなくなっていますが、
おじいちゃん、おばあちゃんの存在はしっかりと感じました。
実は、シニアヨガをすると、いつも講習しているこちらが幸せな気持ちになります。

それは、人ひとりひとりの存在を、かけがえの無いものとして感じさせてくれるからだと思います。
言葉や体の動きが不自由になっている分、意識そのものが、自由さを求めていることがとてもよくわかるのです。
高齢化社会を迎えるにあたって、本当の健康、体の健康とともに、心の安定、安心、そして、自分たちの生きている実感を得られるよう、多くの人がヨーガを進めてほしいと思っています。

参加していただいた人たち、
そして講習をしてくれた雅子さん、ボランティアに来てくれたキミコさん(写真ありがとうございました)、ニシガキさん、
いっぱいの感動をありがとうございました。

2011年8月13日土曜日

讃岐うどんヨーガ

以前、香川県に行ったときに、
ここはおいしいよ、という評判の讃岐うどん店を回ったことがあります。
有名店ばかりでしたが、どこもおいしい。
素人でも少しずつ麺とかの違いが分かったりして、おもしろかったです。

あまり知られていないようなところ、麺工場でそのままセルフサービスで出してくれるようなところとか、いろいろあるみたいなのですが、ぜひまた行ってみたいです。


ちなみに、
その時に、一番美味しいうどん!と思ったのが、
香川県ではなく、高知県で立ち寄ったお店。
黒潮町のいろりやでした。

店主さんにお話を聞いてみたら、
国産小麦を使って時間をかけた発酵をさせているとか。
ちょうど1週間低温熟成発酵の自家製パンに凝っていたので、
お話が面白かった!

麺はむっちりしていて旨みがありました。ツユもいい。
天ぷらの野菜も最高においしかったのです。

こんなことを書いていると、
本場の讃岐うどんが食べたい!ですよね。

最近は大阪にもいくつか讃岐うどん店はあります。
「はなまるうどん」はチェーンのセルフうどん店では、
今のところダントツにおいしいと思っているところです。


で、ここからいきなりヨーガの話になります。
はなまるうどんには、テーブルにパンフレットが置いてあるのですが、
このなかに衝撃的コピーがあるのを発見したのです。

うどんを食べる箸が思わず止まってしまいました。

そこにあった言葉は……

セルフって、気軽。
セルフって、自由。
セルフって、本場。


セルフというのは普通一般的はセルフサービスのことですから、
なんてことはないかもしれません。

ところが、ヨーガ、ヴェーダンタを勉強するものには、ガガガーーん、
とうなるほどのキャッチコピー!

これは、すごい。
ぜひ使わせていただきたい言葉なのです。

で、どうして?

となるのですが、スイマセン、説明不足ですが、またの機会に!
なんのことかわからないままですが、讃岐うどんはヨーガだったということで。
ごめんなさい(笑)

2011年8月4日木曜日

私という大問題



私とは誰か?

という大疑問に一生を費やした人がインドの聖者にいます。
南インドのアルナーチャラという山麓にいらした、ラマナ・マハルシ師です。

1896年、16歳だったラマナ少年は、それまで普通の男の子だったといいます。
6月17日、なんの前触れもなく突然家でバッタリ倒れて、死の恐怖に取りつかれてしまいます。
そして、次の瞬間には、自分の本質が何かを突き止めることに至りました。

普通の学校生活を送ることができなくなったラマナ少年は
とうとう家出してしまいました。
そしてシヴァの神がいらっしゃると聞いていたアルナーチャラ山に向かいます。
たった一人、神殿の奥で、誰とも会話をせず(マウナ:黙想)、
食べ物も食べず、時々心配した村人からの差し入れを無理やり口に入れてもらって、
足は虫に食われて傷だらけになりながらも、瞑想を続けたのです。

この時、ラマナ・マハルシは、
どこに行ったのでしょうか。




実は……どこにも行かなかったのです。
いままでも、いまも、これからも、
ほとんどの人が探さない場所、
自我を超えた、
本当の自分自身の本質、
いま、ここにいたのです。


少年はこのとき、自分の内側で、心の内側に平和を見ていました。
その平和があまりに素晴らしかったので、肉体や外側への興味を失ってしまったのです。
もしかすると、ここで肉体を捨てることもありえたかもしれません。
けれども、少年はこの世界に戻ってくることになりました。
多くの人が、少年におこっていることが、普通の体験ではないことに気づいて、
それを教えて欲しいと請うようになったからです。

最初、ラマナ少年にはその体験について伝える言葉はありませんでした。
言葉にならなかったのだと思います。
それは、言葉を超えた体験だったからです。
多くの信者が彼に問い掛けました。
賢者も少年に語りかけました。
その言葉が、少年の心から何かを引き出したのだと思います。
そして、彼はヴェーダンタの聖典の中に現れる言葉こそが、
自分の体験を語る道具として、ぴったりだということを発見したのです。

ヴェーダンタとは、その昔、太古の人々が神々から伝えてきた聖典です。
ブッダが現れ、その後に聖者シャンカラチャリアが解説を加えて、
確立させたインド最高の哲学です。


何年も経ってから、その体験を語るようになりました。

ラマナ・マハルシはこう言います。
「私とは誰か」
を私自身に問いかけていくことが、本当の私に到達する道のひとつですよ、と。

暗闇の海原に灯されて道を照らしてくれる灯台のように、
ラマナ・マハルシが体験したことをひとつの希望の星として、
そしてヴェーダンタの聖典に記された海図を読み解くことで、
自分たちにもこの世界の波を漕ぎ出す勇気を持てるのです。

ところで、今年2月からインドに行って、ヨーガ修行してきたのですが、
3月にこのアルナーチャラの山とラマナアシュラムに滞在してきました。
ラマナ・マハルシがいらっしゃった洞窟で瞑想をして、
夕方に宿に戻ってきたら、宿のおばさんが、
「たいへんだよ、日本がtsunamiだって!」
というから、インターネットを見たら…
そう3月11日の大地震がおきていたのです。





それでも、ぼくたちの生きているこの世界と、
そしてラマナ・マハルシが指し示した私と、
それは、本当は同じなんだよ。
ということを、ラマナ・マハルシは語っているように感じました。

はい、おじいちゃん(爺ちゃんの顔にちょっと似ている)がんばって修行します!

2011年8月1日月曜日

瞑想ワークショップ終了

昨日、瞑想ワークショップでした。
来ていただいた方、ありがとうございました。
sivanandaでの瞑想ステップと、ヴェーダンタで学んできたこと、モクシャについてなど、
内容の非常に濃い講義と、少しずつの実践に挑戦して頂きました。

3時間にも及ぶ長時間でしたが、みなさん真剣に参加していただき、とてもうれしかったです。


……3時間は長いですよね。


終わって、すこし話をしていたら、
「次はいつやりますか?」と聞かれました。

すごいです。その熱心さがすばらしい。


もっともっとわかりやすく伝えていきたいと思いました。

今回のワークショップの振り返りクラス+実践がしたいなぁと思ったのですが、
どうでしょう……?