いつも利用している店のお姉さんが、あるとき
「いいことないわー」と溜息をついていました。
顔もいつもの覇気がなく、声も小さいような。
いつもはよしもとの舞台に出てきそうなぐらい、大きな声で力強いのです。
どうしたのか尋ねてみると、いろいろと話してくれました。
「こんなに頑張って働いてるのに、子供らは私の事うるさがって、ほんまにがっかりや」
彼女は「お金にだらしのない旦那」と別れて、
子供二人と自分の母親を支えるためにに朝から晩まで働いているのだそうです。
「あー、えらいなぁ。僕の母親と同じやー」と僕は言いました。
そして、それは耳が痛い、と思いました。
実は、自分の母親も同じように早朝から働き詰めに詰めて、何年もそうして子供たちを育てたのです。
でもその当時、中学生や高校生の頃、
母親がそれほどまでに頑張っていることに、
子供の自分としてはどうしていいのかわからなかったのです。
疲れて機嫌が悪くなっている母親に対しては、
「そんなにしてまで頑張られても(感謝しているけれども、
できることはこちらも頑張っているし、
どうかムリしないで欲しい。
こっちにその機嫌の悪さを押し付けてこないで欲しい)」と思っていて、
無意識に感じる母親からの感謝の要求(そんなものはたまにしかなかったのですが)に反発を感じていたのです。
そんなことを思い出して、落ち込んでいる彼女に僕は言いました。
でも子供は黙ってお母さんの頑張りを見ているよ。
子供はいつも母親にそっと感謝している。
そしてその頑張りを見ていたから、
他の人の痛みを知ることが出来るようになったような気がする。
思いやりを持てるようになったと思う。
それは母親の苦しみを知っていたから。
今は子どもとしてはなにも言えないかもしれないけれど、
いつしか、行動で見せてくれると思う。
僕は今も、いつも母親に感謝している。
母親には頭が上がらない。
おかんはいつも
すごい。
そして母親に何もしれやれない分、僕は自分の家族を大事にしようと思っている。
きっとあなたの子供も、あなたに感謝している。絶対そうだと思う。
「おかんは、でもね、60歳にして僕の友人のお父さんと再婚して、
都会育ちの母親が、田舎で草刈りして、土まみれになって、
そこから運転免許もとって、第2の人生をがんばっているよ」
「きっと、子供から卒業したと思った時、ステキな旦那さんが現れるから、大丈夫!」
彼女は目を真っ赤にして、ウンウンと頷いて
「ありがとー、元気でたわ」と言っていつもの笑顔に戻って行きました。
人は誰かの役に立つことで、自分の価値を測っています。
でも誰かの役立つこと、というとき、誰かに対して評価を求めてしまいます。
その評価を求めることは、その誰かにとっては押しつけになるのです。
わたしは貢献しているでしょ、という態度が、誰かを萎縮させます。
ではどうすればいいのか。
貢献するということは、とても微妙なことなのです。
貢献は見返りを求めないことが貢献だから。
見返りを求めた時、それはGive & Takeであり、
約束があり、束縛があります。
「これだけしてあげてるのだから、あなたもこれだけしなさいよ」
それは見えない束縛です。
原則として人は束縛から逃れたいという欲求があります。
(束縛は人生において必ずあります。それは義務と呼ばれます。
義務を果たすことが喜びになる時も、やがて、やって来ます。それが自分を自由にすると理解できる時には義務は喜びです。。)
貢献には相手には束縛や義務感を与えません。
さらにその人も他へと貢献していこうといく勇気がつけられます。
義務的な行為よりも、さらに高度な行為だと思います。
高度ですが、契約から貢献へと私たちは成長していきたいのです。
その後もう一つ話があるのですが、それは別の機会に。
この出来事が、今回のアドラー心理学からヨーガへ『変える勇気』の講座につながっていくのです。
それにしてもこのブログを春から「書いていく勇気」がなく、、、
そのあたりから変えていかなければいけませんね(笑)
「いいことないわー」と溜息をついていました。
顔もいつもの覇気がなく、声も小さいような。
いつもはよしもとの舞台に出てきそうなぐらい、大きな声で力強いのです。
どうしたのか尋ねてみると、いろいろと話してくれました。
「こんなに頑張って働いてるのに、子供らは私の事うるさがって、ほんまにがっかりや」
彼女は「お金にだらしのない旦那」と別れて、
子供二人と自分の母親を支えるためにに朝から晩まで働いているのだそうです。
「あー、えらいなぁ。僕の母親と同じやー」と僕は言いました。
実は、自分の母親も同じように早朝から働き詰めに詰めて、何年もそうして子供たちを育てたのです。
でもその当時、中学生や高校生の頃、
母親がそれほどまでに頑張っていることに、
子供の自分としてはどうしていいのかわからなかったのです。
疲れて機嫌が悪くなっている母親に対しては、
「そんなにしてまで頑張られても(感謝しているけれども、
できることはこちらも頑張っているし、
どうかムリしないで欲しい。
こっちにその機嫌の悪さを押し付けてこないで欲しい)」と思っていて、
無意識に感じる母親からの感謝の要求(そんなものはたまにしかなかったのですが)に反発を感じていたのです。
そんなことを思い出して、落ち込んでいる彼女に僕は言いました。
でも子供は黙ってお母さんの頑張りを見ているよ。
子供はいつも母親にそっと感謝している。
そしてその頑張りを見ていたから、
他の人の痛みを知ることが出来るようになったような気がする。
思いやりを持てるようになったと思う。
それは母親の苦しみを知っていたから。
今は子どもとしてはなにも言えないかもしれないけれど、
いつしか、行動で見せてくれると思う。
僕は今も、いつも母親に感謝している。
母親には頭が上がらない。
おかんはいつも
すごい。
そして母親に何もしれやれない分、僕は自分の家族を大事にしようと思っている。
きっとあなたの子供も、あなたに感謝している。絶対そうだと思う。
「おかんは、でもね、60歳にして僕の友人のお父さんと再婚して、
都会育ちの母親が、田舎で草刈りして、土まみれになって、
そこから運転免許もとって、第2の人生をがんばっているよ」
「きっと、子供から卒業したと思った時、ステキな旦那さんが現れるから、大丈夫!」
彼女は目を真っ赤にして、ウンウンと頷いて
「ありがとー、元気でたわ」と言っていつもの笑顔に戻って行きました。
人は誰かの役に立つことで、自分の価値を測っています。
でも誰かの役立つこと、というとき、誰かに対して評価を求めてしまいます。
その評価を求めることは、その誰かにとっては押しつけになるのです。
わたしは貢献しているでしょ、という態度が、誰かを萎縮させます。
ではどうすればいいのか。
貢献するということは、とても微妙なことなのです。
貢献は見返りを求めないことが貢献だから。
見返りを求めた時、それはGive & Takeであり、
約束があり、束縛があります。
「これだけしてあげてるのだから、あなたもこれだけしなさいよ」
それは見えない束縛です。
原則として人は束縛から逃れたいという欲求があります。
(束縛は人生において必ずあります。それは義務と呼ばれます。
義務を果たすことが喜びになる時も、やがて、やって来ます。それが自分を自由にすると理解できる時には義務は喜びです。。)
貢献には相手には束縛や義務感を与えません。
さらにその人も他へと貢献していこうといく勇気がつけられます。
義務的な行為よりも、さらに高度な行為だと思います。
高度ですが、契約から貢献へと私たちは成長していきたいのです。
その後もう一つ話があるのですが、それは別の機会に。
それにしてもこのブログを春から「書いていく勇気」がなく、、、
そのあたりから変えていかなければいけませんね(笑)
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