2011年10月31日月曜日

自然と調和するヨーギーのための食事法 WS

昨日、自然と調和するヨーギーのための食事法 WSが行われました。

午後2時~6時過ぎまでの長時間でしたが、
ヨーガの食事ってどんなことなんだろう、
という興味が高くて、
いつもよりも気持ちが熱く感じられました。

味噌は発酵しているから、だめ(=タマシック・惰性・鈍性)なんですか?
とか、
食品添加物はどうですか?
とか、熱心な質問も飛び交い、

瞑想を助けてくれるサトビック(純粋性)フードでも、食べ過ぎるとタマシックになります

という話には、
「わたし、あかんやん」(笑)

終わってからの感想で

「なんとなく、わかっていたことだったんだけれど、
見ないように
見ないように過ごしてきて、
今回WSに来て、
……やっぱり、そうだったんだ……」

という言葉に、みなさん大爆笑。

たのしいワークショップになりました。

これをきっかけに普段の生活を見直していったり、
普段の生活からヨーガを進めていくことつながればいいなと思いました。

今回は伝えたい内容が多く、
ゆっくりと話している時間がなくって申し訳なかったです。

次回、機会があれば、理論的な復習と、具体的な食材と調理についてゆっくりお話したいです。

みなさん、ありがとうございました。

2011年10月16日日曜日

かすかな体に、耳をすませば2_脳は私?

耳をすませば、という映画、先日はじめてみました。
ジブリの映画で近藤喜文監督の作品です。

wikipediaによると、

高畑(勲)が『火垂るの墓』、宮崎(駿)が『となりのトトロ』と、長編映画を同時に制作した時期は2人の間で近藤の争奪戦が起こった。高畑は「他は何もいらないから近ちゃんだけ欲しい」、宮崎は「近ちゃんが入ってくれないなら僕も降板する」と言ったという逸話が残っている

なんだそうです。
主人公の繊細で活き活きとした感性が細部にわたって生きていて、映画には風や匂い、寒さや、人の息まで感じられるようなステキな映画でした。
近藤監督は、残念なことに、この作品を最後に亡くなってしまいました。
もし、今でもジブリにいたら……。
でもきっと、近藤さんのチカラは今のジブリにも生きていますよね。


さてさて、
私たちは自分の中へと耳をすませてみましょう。



ヨーガの教え、ヴェーダンタの教えの中に、私たちは目に見える物理的な体以外にも、プラーナとか、雰囲気とか、元気とか、そういった目には見えない「かすかな体」というものがある、といいます。
この、かすかな体のもっとも代表的なものが、考え=思考です。

現在の科学者は「思考」は脳の機能だと考えている学者は多いようです。
脳という臓器=思考なのかどうかを見て行きましょう。


脳研究者たちは脳の中の血流の動きなどを研究していけば見つかるんじゃないか、と調べているところです。
脳の場所によっての働きの違いまでは分かるようになりました。
そのなかの部分が、体の働きや考えと連動していることがわかっています。

例えば、脳のある部分が事故か何かで損傷したら、
その場所と連動している機能は失われます。
脳の細胞は大人になってから増えることはないといわれていますので、
その脳の場所は復活することはありません。
ところが、損傷の大きさにもよりますが、
リハビリなどを通じて、他の部分が補ってくれて助けてくれて、機能は回復していくといいます。
つまり、失われた部分をカバーするという能力があるのです。

これは、全体を見通している監督がいるということです。
部分が集まってチームになるのか、というとそうではなく、全体を見渡せる視点がないと、そうできません。



野球だったら、監督がいるので、故障した選手の交代ができます。
機械はそうはいきません。
ここに「カメラくん」がいて、彼のパートナーのレンズちゃんが病気で倒れてしまったとします。
そこでカメラ君は
「あ、ぼく代わりに仕事しておくからレンズさん休んでおいていいよ」
なんて優しく声をかけることは、あったらいいのですが、
カメラ君は機械なので、ないですよね。
同じように、脳の部品を交換、あるいは、どこかでカバーするためには、脳以外のところが働く必要があります。
つまり、脳は監督ではないのでは?と思うのです。

脳は「思考」に関係してはいるけれど、
脳=思考とは考えにくいのです。

また、考えはそれが言葉などに現れているときには解りますが、
それを物理的な脳の中に探して行っても、ご主人である「考え」は見つかりません。
やはり、考えは、脳などの部品などに還元することはできないと思うのです。


では、かすかな体、考え、思考がいろいろと科学的には見つからなかったり、
たとえ見つかっていったとしても
このかすかな体、考えの中に「私」はあるのでしょうか。



2011年10月11日火曜日

大普賢岳リトリート、無事終わりました!

和佐又山での屋外ヨーガ
10月9日、10日、奈良県上北山村で大普賢岳ヨーガリトリートが行われました。

大普賢岳への稜線にある石の鼻にて
9日は和佐又山への1時間ほどの山歩きと草原でのヨーガ、そして野外でチャパティを焼いてカレーの夕食を楽しみました。
ヒュッテ泊とテント泊に分かれての宿泊で、夜中には気温5度くらいに下がりました。
10日は早朝ヨーガを行なって、大普賢岳へ出発。12時に山頂に到着し、16時に無事、下山しました。


また後日詳しくレポートしたいと思います。

2011年10月2日日曜日

かすかな体に、耳をすませば

ライフっていう映画を見てきました。
驚きと感動が満載の映画でしたが、とくにすごかったのが、
アリさんの農業。
ハキリアリというアリさんは、自分たちは食べもしない草を切ってせっせと巣に運ぶのです。
そこで行われているのが、地下での大規模キノコ農業。
葉っぱを発酵させて、キノコを育てているのです。
しかも立体構造の巣は、キノコから出る二酸化炭素を排出させる煙突まで用意していて、
だれがいったいぜんたい、彼らのライフスタイルを設計したのか……!
面白かったです!

やっとお久しぶりのヨーガの話。

本当は、「さぬきうどんヨーガ」の続きになりますが、
インターバルが長すぎて、麺が完全に伸びてしまってます(笑)




私は完全な自由(モクシャ)であるということを理解することが自分たちの最終目標である。
そんなことが、ヴェーダンタによって教えられました。

私とは一体何か。
この私の肉体を私と思っているけれども、
この肉体を設計した覚えもなければ、この肉体を維持している機能に携わることもできない、
実は私はこの体ではない、ということが前回までの結論です。

この体を使用するオーナーだけれど、
私自身は私の体ではないんですね。

例えば、車のように。
私sivaramは車を持っていません。使いたいときはレンタカーを借りています。
もし、持っていたとしても、それは私の道具です。
私は車を使ったりするけれども、そのエンジンや駆動関係やボディを設計したわけでもないです。
ガソリンと二酸化炭素、ひとつひとつ交換していく部品、それぞれを分解したところで、私はいないし、
あるいは、その全体の機能を見た時でも、この車にはこの私らしさは見つからないのです。


では物理的ではない体、なにか、もやもやしたものが私なんでしょうか。

ヨーガでは「かすかな体」というのを教えます。
目に見えない体です。


人の体にはプラーナというかすかな体、エネルギーがあるといいます。
「気」という言葉に置き換えられることもあります。
元気、雰囲気などの「気」です。
よく言われるオーラも普通の人には見えません。
私も見たことはありません。


見えないというのは、車に例えて言えば、電気系統のようなものです。
ガソリンと違って、電気は目には見えないのだけれど、確かに何かを動かすチカラを持っています。
メーターを使えばその数値は測ることは出来ますが、電気そのものを見ることは出来ません。
電気が光に変わることはありますが、それは光に変わったときに見えるのであって、
電気そのものではありません。
離れていると存在を感じることは難しいです。
しかし、ビリビリと感電した時、触感があります。
目には見えないのだけれど、たしかに存在しています。

ではこのかすかな体が自分なのでしょうか。


雰囲気は感情によって、心の動きによって変わります。
たしかに見えないけれど、人の持つ「気」は伝わってきます。
「考え」というのもかすかな体です。
考えこそ、この私にとって一番私らしい気がしてきます。
そうすると、この私の考えが私なのでしょうか……

つづきます