2015年2月12日木曜日

いのちのおわり いのちのはじまり



無事に女児を授かりました。母子ともに健康です。


昨年初めのインドではヴェーダーンタを一緒に学ぶ友人や

ヴェーダンタを教えていただいる先生、スワミジ、スワミニ、

相談に乗っていただいたり、アドバイスをいただいたり、

いろいろなサポートをいただいたりと大変お世話になりました。

アーユルヴェーダのドクターには集中してトリートメントをしていただきました。


日本に帰ってからは、ヨーガクラスやアーユルヴェーダ基礎講座、

アドラー心理学・ヨーガ心理学講座、

インドからのドクターを迎えてのアーユルヴェーダのコンサルテーション、

アーユルヴェーダクッキング講座がありました。

クラスの生徒さん、講座の生徒さんにはたくさんの協力をしていただきました。


育児に集中するために閉じることにしてしまった烏丸教室、

教室を閉めるにあたって、生徒さんたちからは心温まるメッセージをいただきました。


ボランティアでも喜んで手伝ってくれた先生方、

自分の仕事や勉強を差し置いて、クラスや講座のバックアップをしていただきました。


すべてに大変感謝しております。

新しい命を支えてくれたみなさんが土-tsuchi-の家族、です。

わたしたちの観察が、またシェアできれば、

そしてそれが家族であるみなさんの平安へとつながれば

とても幸せです。


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もう10年近く前になりますが、命の終わりを見ました。

そしてこの一年間は命の始まりを見ました。

命について書いてみようとして、

以下、長い長い文章になってしまいました。

切りたいのですが、今の僕にはその力が無く、切れないのです。

ですので、お暇なときにお読みください。



命の終わりは、

インドのガンジス川、バラナシ(ベナレス)での話ではなく、

父の話です。

危篤になって2週間でしたが、その時には病院でずっと付き添ったのです。

小さい子供の頃は父からとてもかわいがってもらい、

家族においても最も尊敬の対象であった父でしたが、

やがて自分が思春期あたりから、変化していきました。

社会と家族のバランスが崩れた父の複雑な行動によって、

父は憎しみの対象となり、複雑な親子関係となっていました。



そんな父が危篤である、と聞いて、

ちょうど仕事を辞めて農業研修ボランティアをしていた僕は

その病院にかけつけ、長い長い最期を経験しました。


目の前にいる父は意識的にはまったくの普通の正常な状態でありながら、

肉体的にたくさんの苦しみを感じていました。

傷の痛みではなく、呼吸ができないという苦しみです。

医師が、「呼吸の苦しみは、いろんな苦しみの中でも最も苦しい」

と言っていた、その一番の苦しみを受けていました。

呼吸は大半は無意識に行っているのですが、

それができないとなると、意識的にならざるを得ません。

そしてその意識した呼吸が、自分が望んだのことではなく、

強制的であるために

一瞬、一瞬が、とてもとても永く、苦しいのです。


四六時中そばに寄り添うと、

やがて自分の体は父の体のように同じ苦しみを感じるようになります。

血液中の酸素濃度が下がると、自分も苦しくなります。

壁からチューブが出ていて、透明な管でブクブクと泡を立てています。

その泡から管を通って父のマスクへと酸素が送られます。

酸素濃度を上げると、血液中の酸素も少し回復し、自分も楽に感じます。

酸素濃度は普通の空気と混ぜられているのですが、

酸素の割合は日に日に上がっていきました。

やがて普通の空気はなく、

一般の人では呼吸できない、酸素100%へと近づいてきました。


その苦しみの中で、もう確実にやってくる圧倒的なものを感じます。

死という大きな自然の力を前にしてしまうと、

さまざまな複雑な感情や考えはぴったりと止み、

きれいさっぱり消えてしまいます。

いえ、感情や考えは消えて無くなったはなく、

いまだにあるんだけれど、意味が変わってしまうのです。


例えば、この人から傷つけられたという記憶は変わってはいませんが、

この人がいてくれたので、たくさんの経験ができた、

という意味に変わり、


例えば、その傷があったからこそ、

傷というものを他人に与えてはいけないのだ、

という今の自分の考えが作られている、と言う意味とか


例えば、父は社会に対する仕事に熱心なあまりに家族を壊していった、

そのお陰で、仕事も大切かもしれないけれど、

なにより家族を大切にしようという自分の考えが作られた、という意味とか。


例えば、かつて父を恨んでいたとき、自分自身が毒だらけになったような

そんな気持ちになったので、恨むことを止めて、

許すこと、認めることはとても自分を癒やしてくれること。

また、恨んでいるはずの父に対してさえ、幸せを願ったりできたり、

すべての人の幸せを願うことを可能にするのだ、

それは自分の毒を消してくれるのだなぁ、

今、とても、ここちいいもんだなぁ。

(死んでいく人には悪いけれど、ここちよかったのです)

という考えの発見とか。


つばを吐きつけてやりたいぐらい大嫌いだった父の痰の処理をしたり、

尻ぬぐいばかりさせられた、あんなやつ、

と「あんなやつ」扱いされている父のおしりを拭いたり、

目も合わしてやるもんか、と思っていたぐらいの父でしたが、

言葉も途切れ途切れの父とアイコンタクトで看護婦さんを呼んだりしながら、

たくさんの記憶や考えがそんな意味に変わっていきました。



やがて、さらに深く意味が変わっていきます。


呼吸にあえぎ、管だらけになっている目の前の父、

父の体はまさに滅びようとし、

一方である息子は今は生きてはいますが、

それもいつかやがては滅びます。

すべて、この世界のモノは滅びるというのは、先か後はあるけれども、

どれも共通です。同じです。


また、しかし父の遺伝子が滅んでも、すべては終わりではなく、

息子へと受け継がれています。

この目の前の父の遺伝子によって、自分の体は作られています。

遺伝子はすべて以前の情報を元に作られています。

以前の情報はそのまた以前の情報を元にしています。

では、遡ってその最初の情報、命のメッセージはどこにあったのでしょう?

それを考えれば、すべての遺伝子は命のメッセージであり、

すべでが命であるというメッセージ、という意味からすれば、

自分の遺伝子と、他人の遺伝子がどこでわけられるでしょう?


だから、たとえ自分に子供がなくて、

自分の遺伝子がうまくこの世界に伝えられなかったとしても、

たとえ、人間が亡くなったとしても、

植物であれ、動物であれ、生物がいれば遺伝という

たった一つの命のメッセージが残っています。


このように、圧倒的な死を目の前にしては、すべては一つでした。

命に触れているとき、自分も他人もすべては分けられません。

生き物はすべて分けられません。


その命が消えるとき、父の考えは混濁していたかもしれませんが、

眼には混濁していない意識が最期まで感じられました。

肉体から命の灯が消えても、その意識はずっと存在続けていました。

そして自分の体には父の情報がしっかりとつながっていました。

何かがなくなったのは確かでしたが、何もなくなっていないのも確かでした。

命は変わり続けているということ、そのことが同じでした。


また、反対に、同じなのに変わったこともありました。

いつもの路上のレンガや、植え込みの木々、ビルの間の空を見たら、

いつもと同じであるのに、何か違っていました。

自分の考えは同じだけれど、その意味が違っていたのです。

すべてにはメッセージがありました。

すべては命であり、一つというメッセージでした。




命が生まれるときもまた、同じことを見ることができます。

出産までには様々なプロセスがあります。

僕たち夫婦はヨーガ講師をしています。

体や心を観察していくことが仕事ですから、

できるだけ意識的に、妊娠前、妊娠、

出産というプロセスを観察して、楽しんできました。

もちろん、つわりや出産の陣痛など、

楽しみとは思えないような感覚もたくさんあります。

それもよく観察してみました。

月経は月の満ち引きの影響も受けているといわれます。

ある産婦人科の先生によれば、出産も潮の満ち引きとの関連があると言います。

それらも生まれようとするときの自然のリズムです。

陣痛にもプロセスとリズムがあります。

体の準備、胎児の準備ができたときに、収縮の波がやってきます。

収縮には小さな波と大きな波。その間があり、間があることによって、

次の波がやってくることができます。

波は新しい命をこの世界に届けようとするプログラム、情報によっておきます。

その情報は体に埋め込まれています。

自然はたくさんの情報を体にセッティングしてくれて、

条件が整っているときには、適切なときに適切な作用を起こしてくれます。

体にセットされた遺伝子というプログラムは、

たくさんの情報を含み、遺伝子の背後にあるメッセージによって、

時と場所と物質をつかってたくさんの複雑な変化をおこします。

遺伝子だけが情報ではありません。

遺伝子の背後には、遺伝子そのものを複雑に変化させる情報もあります。

その情報はまわり環境とつながりであり、宇宙とつながっています。

宇宙のメッセージはリズムとなってこの命を発動しているのです。


長い期間、妊娠中の妻に寄り添うことで、

夫である自分の体でも、妊婦の体と同じように感じることができます。

家族の食事はよく自分が作っているのですが、

家族の意識に合わせていると、そのうちになんとなく、

つわりの時には、どの食べ物が食べたくて、食べたくないのか?

どのタイミングでそれが欲しくなり、欲しくなくなるのか?とか

さらに自分自身も食べたい、食べたくないが同じようになります。

そんなことが分かるようになりました。

もちろん、最初から直感で分かることはありません。

が、よく観察していると徐々に自分の体がリンクしていきます。


陣痛も、もちろんリンクできます。

小さい波、大きい波、その間。

小さい波、大きい波、その間。

収縮の波に集中し、その一点の中から新しい命がこの世界に送り出されるのを感じます。

陣痛中の女性は体のすべてをアンテナにして体からの、

そしておそらくは宇宙からのメッセージをうけとっています。

一緒に寄り添う人が一緒にそのメッセージを受け取るとき、

波は新しい命に近づくという喜びとなります。

反対に、逆もまた起こります。


陣痛は痛みじゃない

周りがざわざわしていると痛みになる。

(あなたのざわざわした意識が)伝わってくるから、

離れて瞑想していてくれる?


と陣痛中のあるときに言われました。

どきっ、あ、しまったと思い、

声が届くけれども、少し離れた見えない場所で陣痛のリズムに集中し、

妻と胎児への安全への祈りを始めました。


その瞬間、


あ───。いま意識変えた?

楽───。



女性の陣痛中は、他人の精神の揺らぎを感じることができるほど、

それほどまでに敏感で繊細なのです。

ですから、不用意に出産に立ち会うことは危険なのです。


夫が陣痛を感じている妻に集中せずにいると、

その陣痛は痛みや苦しみになります。

隣で別のことを行動したり、考えたりしている人がそばにいれば、

波のメッセージも邪魔されて、とても苦痛なのです。

それは、そばにいても、そばにいなくてもです。

どうやら、女性とはそのようにできていて、離れていても分かるのです。

女の人は体をアンテナにして自然をたくさん知っているようです。

今はほとんどが忘れられているかもしれませんが、

人はそのようにプログラミングされているのでしょう。

たとえ男の人だって、女の人に寄り添えばそのアンテナは感じることが可能です。

男の人は自然や宇宙の精妙さにアンテナを向けるのは不得意ですが、

愛する女性、愛する家族にアンテナを向けるのは可能なはず。

観察を続けていると、男の人でも陣痛の波と一つになれます。

男の人でも、自分の体にもたくさんのメッセージを受け取ります。

手を握れば、それは伝える力を増します。

おしりを押せば、収縮の波をもっとおおきく感じます。

(陣痛の合間におしりの穴付近を押すと、不思議と痛みは楽に変質するのです)

呼吸を妊婦と胎児に合わしていけば、やがて自然と一つになります。

吐く息とともに「腕の力を抜いてー」、

「ふうー、首の力を抜いてー」

そんな風に、そっと言えるようになります。

それだって立派な自然のメッセージです。

たとえ男の人だって、自然のメッセージを送ることもできるようになるのです。


小さい波、大きい波、その間。

小さい波、大きい波、その間。

そのうち寄せる波によって新しい命は近づいたり、

また遠ざかるのも感じられます。


かつては出産で命を落とす人も大勢いました。

陣痛による収縮が長引いてくると女性の体をどんどんと消耗させます。

たとえ子供を産み落とせても、その後の出血によって亡くなる人も多かったのです。

いまだって多くの人が危険な状態になります。

女性は意識的、無意識的であれ、

どこかで自分の命をかけてその出産に臨んでいるのです。

無事にこの世界に新しい命を送り届けたい。

たとえ自分の命の灯が消えることになっても……と。


やがて波と産婦と胎児はひとつになっていきます。

その出産の波はきらきらと輝く命を届ける波でもあり、

漆黒の闇である向こうの沖、死へと引き戻していく波でもあります。


男の人もそばに寄り添えばその波を感じることができます。

すべての命はやってきて、そして去って行くのです。

もし、去って行くならば、

妻と子供を亡くせば「夫」という立場はなにも意味を持ちません。

夫である自分は生きている価値を失います。

夫である自分も去っていくのです。


もし、やって来るならば、

夫である自分も命とともに輝きます。


波と一つになるとき、「夫」という立場を超えていきます。

人間であること、動物であるという立場、

それをも超えて、

やがて命に触れるのです。

目の前の二つの命は、一つであり、そしてそれをみている私も一つです。

圧倒的な命の誕生、あるいは圧倒的な死の力を目の前にして、

私という個人はなくなり、ただただ命があるだけです。


この世界は命ばかりです。

生と死、すべてが命です。


そんな風に感じられたら、無機質だって命なのです。

私の体からは酸素という無機質が大切です。

血液には鉄分という無機質が必要です。

有機質であるこの体は、無機質からできているのですから。

天体とも切り離せません。

月の巡りと出産とも切り離せないのですから。


時間だって、空間だって、自分たちとは切り離せません。

時間よ止まれ、といって時間から自由になることはできません。

今ある空間の外に飛び出すことができたとしても、

次の場所にも空間があります。


また、生と死も一つです。

生と死は隣り合わせでもあり、裏表です。

表だけを欲しいと言っても、裏であるものを避けるわけにはいかないのです。

ですから、裏や表、生と死はあっても、

また、なくなったように見えることはあっても、

命は「なくなる」ことはありません。


命は一つだとしても、

生まれてきたらうれしい、

死んだら悲しい、

だから、生まれてくることと死ぬことはまったく違う、

と言うかもしれません。


しかし命が一つであり、生死が裏表の一つであるのだから、

生まれても、死んでも、うれしいことも、悲しいことも一つ。

うれしいことがあるから悲しいのであり、

悲しいことがあるからうれしいのです。

これらは裏表であり、それらもすべては一つです。

うれしいことだけが欲しい、というのも

表だけが欲しいというのと同じです。


また、命はなくならない、などと言うと

「前世」のことを考えるかもしれません。

前世はあるかもしれませんし、ないかもしれません。

ヨーガではある、といいます。

しかし、たとえ前世があろうとなかろうと、

来世があろうとなかろうと、

そんなことの前に、すべての命は生と死の裏表、

「たった今」ひとつであるのです。


痛いも心地よいも、暑いも寒いも意味があって、

うれしいや悲しいも一つで、意味があって、

複雑な世界も、単純な世界も意味があって、

そしてその命は、生と死には意味があって、

すべてはたくさんの意味というメッセージを運んでいるのだ、

と受け取れたとき、いつもの思考がチェンジーシフトします。

三次元、時間を合わせて4次元ではなく、なんだか違う次元です。

すべてには知識、多くの智慧を運んでいるのだ、と

ようやく、やっとのことでメッセージを受け取れたとき、

悲しいやうれしい、悲惨や、驚嘆は依然としてあるんだけれども、

このすべての世界は、涙が出るほどの美しいのだ、と思い出すことができます。

このとき自分という枠組み、エゴが外れています。

このとき、この瞬間の、ただただあるがままでありながら、

すべての存在がそのまま、でありながらの喜びがあります。


昨日この世界に生まれ出てくれた命を感じながら、そんなことを今は思うのです。


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たまにしか書くことがない、

書けば長い長いブログです。

ここまで忍耐強く読んでくださり、ありがとうございます。

「何日かに分けて読むようにしています」

と言われます。うまく書けずにごめんなさい。

予定通りに考えていた部分と、そうはいかなかった部分があり、

予定では本当は今頃はブログを書く時間などなかったはずなのですが、

思いがけない時間をいただいたので、その時間をこのブログにあててみました。

すべての意味を教えてくれる背後の智慧に感謝しております。





2015年2月1日日曜日

待つことについて



待つことは知識と勇気がいるんだなぁと思います

知識があるときには待っていても安心と不安は同じぐらい

無知があるときには、恐れを隠し、期待という妄想を膨らませます

あるいは反対に恐れに圧倒されて、絶望という妄想を膨らませます

知識があって、信じるとき、待つことは祈りになります


そして、本当の私は何も変わらずに、それらの感情を見ているのです