2012年3月21日水曜日

幸せってなんだっけ

私は誰なのか、と問いかけた時、
私は幸せになりたい人です。
と答えることができるかもしれません。

すべての人は、幸せを望んでいます。

苦しみを望んでいる人はいるでしょうか。
仕事や勉強は苦しいけれど、楽しい、ということもあります。苦痛を望む人も中にはいるかもしれませんが、その人だって、なにか苦痛のようなものを得ることで、幸せを感じるのだとおもいます。
誰でも苦しみは望んではいないことは明らかです。

さらに、苦しみでいつづけることはできるでしょうか。
誰にもできません。

なぜなら、苦しみは、自然の性質、法則とは異なっているからです。
苦しみは人にとっても、動物にとっても、植物にとっても、望まれない不自然なことなのです。

昨日、リシケシの川沿いのお寺で、おばあさんが寝転がっている牛に対して布を何度も何度も振り回しているのをみました。
最初、それは何かの儀式なのかとおもいましたが、よく見てみると、その牛の後脚をギブスのように石膏が覆っていました。
その牛は後脚が折れていたのです。
牛にはハエがたくさんたかっていました。
おばあさんはそのハエを追い払おうとしていたのです。
布を振り回すとハエが逃げていきます。けれどもすぐにまた牛のところにハエがたかります。
なので、おばあさんはまたショールを振るのです。
牛は苦しんでいました。
誰だって苦しいのがいやです。
それが不自然だからです。
だから、おばあさんはその苦しみを取り除きたいとおもいました。

その姿を見ていて、胸が詰まって涙がでそうになりました。
見ているぼくも苦しいのが不自然なのです。


さて、さて、
幸せはどこにあるのでしょうか。
幸せを探して見ましょう。

たとえば、美味しいごはんを食べると幸せです。
そして満足します。
わたしは、このごはんに幸せがあった、と思いました。

そこで、もっと幸せになりたいとおもいました。
さらに食べようとします。

そうすると、お腹を空かせていないので、さっきのような幸せはありません。

なぜでしょう。

ごはんに幸せがあったと思ったのですが、ごはんには幸せはなかったのです!

ごはんに幸せがあったらば、いつでもどんな時でも、幸せなはずです。でも、それは状況によるようです。
みんな外側に幸せを見つけようとします。
素敵な服を買った時は幸せです。
でも、同じ服を2枚買っても嬉しくないし、同じ服を友達が着ていて、かぶったばあいは、なんだか最悪になったりします。
あるいはお金を得て、幸せ探しの旅にでます。彼氏を見つけるかもしれません。そのときは最高に幸せです。
そして喧嘩をしてなんでこんな人にあってしまったんだ、と運命を嘆きます。

あるいは、インドに行けば、グルがいて幸せを運んでくれるはず、と出かけます。
そこで、瞑想をして、スピリチュアル体験を得て幸せを感じますが、体験は過ぎ去ってしまうので、またもや不幸になるのです。

そんな風に、なにか自分の外側にある、何かの対象Objectには幸せがあるように見えていますが、そこにはありません。

では、逆のことも考えて見ましょう。
お腹が空いていて、
でも先ほどのようにごはんは手に入らないとします。
お腹が空いているので、わたしは幸せではありません。
苦しみでいっぱいになるかもしれません。
でもぼくはふと思い出しました。
あるメロディです。
「♬シャーンター カーラン、ガ、ガ、ナ、サドリ、シャーン♬」
スワミジのお得意なキュートな歌です。サドリ、シャーンというときに手先が斜め45度の角度で天へと向かいます(笑)

思い出して笑ったとき、その時、幸せでした。
お腹が空いているにもかかわらず、外側の状況は何ひとつ変わらないのに、
幸せはありました。

このとき、スワミジの歌がきっかけということは、心に残る記憶が幸せの源だったのでしょうか。

そう見えてしまうので、
幸せは心の状態である、
と言いたくなります。

これは、ほんとうでしょうか。
Yesであり、NOです。

こころをよく見てみると、こころはいつも移り変わる波のようです。
あるときは喜び、あるときは悲しみ、あるときは怒ります。
記憶からも感情が起こります。
このように移り変わるものをどうやって自分は見ることができるのでしょうか。
変わって行くものをみるときは定点観測が必要です。
スカイツリーの建設中はいつまでも同じように見えました。けれども、ある場所、一点を決めて、そこから同じ時間に写真を撮影していけば、スカイツリーが成長してく姿がわかります。
そのような映像を見たことがありますよね。

同じように、移り変わらないしっかりとした土台に自分がいないと、動き回る心を見ることはできません。

別の例えがあります。
川に流されている人が、助かるためには、動いていない岸に捕まる必要があります。しがみついたものが同じく流され溺れかかっているクマさんだったら、ちょっと助かりません。

動き回るココロObjectを見る土台、流されるココロがつかまる岸が必要です。

その土台こそ、私=Subject=I am=存在=意識です。


さきほどの幸せはどこからやってきたのでしょうか?

お腹が空いているという状況は言い換えると、私には限界があるということです。

わたしたちにはいつでも限界があります。
この限界があるわたしを受け入れたとき、
あるいはその限界のあるわたしを忘れているとき、
自分の本質である、存在=意識そのものが現れるのです。
どこから現れるのでしょう。
もともとあったのです!

I am Happy.
といいます。が、
Food is Happy.
Music is Happy.
とはいいません。
食べ物や音楽に幸せがあるわけではないからです。

こころがどのような形であろうとも、I am=存在=意識はいつでも輝いています。

意識がこころに輝いていないとき、人は眠くなったりします。寝てしまうと人は自分と世界を分ける限界を失って、幸せでいます。
寝るのが嫌いな人がいないのはそういうわけです。

逆に意識は、こころに反射して喜びとして光るときがあります。

これが幸せなときです。

わたしたちはその反射する光がどこからきたのか見えていないので、ごはんからやってきた、とか歌からやってきた、とか、映画からやってきた、とか考えます。


つまり、
こころは、私の意識によって、輝いて、幸せそのものになっていたのです。


では、私の意識から幸せがやってきたみたいですが、本当は私の意識と幸せは二つと別れていはいません。

意識と幸せはひとつです。
わたしたちの本質は意識であり、そして幸せなのです。
このことをヴェーダーンタでは、
私というのは、
sat=cit=ananda
である。
といいます。
存在=意識=限りなく満ち足りている
という意味です。
限りがないので、
幸せなのです。


すべての人はその本質において、限りはありません。
限りがあるのは、カラダやココロなど形あるもの、名前と意味です。
限りがある記憶力とか、判断力とか、性格とか、経済力や権力。わたしの美貌や体力、年齢にも限界があります。

幸せは歩いてこない、
だから歩いてゆくんだよ。
といいます。

けれども、見てきたように、
このとき、
私は誰、というところで見間違っているです。
なにを見間違っているか、わたしは、ココロやカラダではないということです。わたしは社会的位置や状況ではありません。

なので、どこか外に幸せがあって、そこからやってくる、とかそこへ歩いて行くわけのではないのです。自分の外側には幸せはありません。
幸せは自分の中にあるのです。
どのような状況のもとにも幸せは自分の中にあります。

苦しみは自分にとって不自然でしたが、幸せであることはいつでもいつまでもそうであり続けることができます。そのことは、わたしたちにとって最も自然なことです。

でも、そうはいっても、
いまわたしは幸せではないです。
というかもしれません。

私が属性を持つ自分であるとき、
I am a student.
I am a woman.
I am a office waker.
……
わたしはこの時、後ろのいろいろ変わる属性=名前と意味になっています。
ひとつの属性=名前と意味を持つと、別の属性=名前と意味とは区別されています。限界が現れます。
わたしが学生であるとき、先生ではありません。休みは日曜日だけになったりします。これも限界です。
この時、I am を忘れています。
わたしはこれらの名前の限界を忘れている時、
わたしの存在そのものに戻っています。
I am は最初からあったのに、
忘れていたのです。
わたしが学生であるとか、先生であるとか、子供であるとか、女性であるとか、借金があるとか、病気があるとか、悩んでいるとか、そういった限界を忘れている時、

大笑いしている時、
音楽に感動しているとき、
大自然の中で、大地や空や星と一緒になっているとき、
みんなで苦しみを乗り越えたとき、
自分の名前と意味、属性の限界はそこにはなくなります。
そのとき、自分は自分の存在そのものに戻っています。

自分が自分の存在そのもののであることは、
いつでも、
いまも、
どこでも、
ここでも、
離れることはできないはずです。

つまり、
わたしたちは
いつも存在=意識=幸せ
なのです。

すごいですね。
そして、すごい長い文章ですね(笑)

2012年3月20日火曜日

自分を再発見する Aham asmi

ヴェーダーンタは自分を再発見させてくれる教えです。

その教えは物理学や生物学や心理学など科学的な分野も、哲学的分野も含んでいますが、それらを超えてしまうので、科学的には確かめようがなくなります。

だから、ヨーガやヴェーダーンタは科学ではありませんとプージャー・スワミ・ダヤーナンダは言います。

ぼくはヨーガは科学です、と聞いていましたし、そういう風に人にも言っていたこともあります。

けれどもスワミジが言うように、よく見てみれば

「科学はすべてこの世界を理解できる」というのは幻想です。

科学はいつも変化し続けています。昨日の答えは、今日の答えとは違います。
かつては肉と魚をたくさん食べないと健康にはなれないよ、と言われました。いまでは穀物と野菜、でも今の野菜は栄養価が低くなってきたので、時にはサプリメントをとりなさいといいます。バナナがいいよとか、カカオが、いいよとか。テレビでも言ってますよね。でも、次の日には変わるのです。

かつては空間と時間は絶対的でした。

しかし、アインシュタインは空間も時間も物質もエネルギーも相対的であることを見つけました。
光の速度で移動すれば、空間はゆがんで、移動している人は時間の進み具合が遅くなるのです。
もし、自分の子供を地球に置いて、
光の速度で移動して地球に帰ってくれば、
なんと、その子供がお年寄りになって自分より年上になっていて、ひ孫と同じ歳ということが起こるのです。

さらに、現在の科学者は、科学が世界を理解したくてもほとんどわからないことを、よく理解しています。
この宇宙は理解できないことばかりであることを。

ダークマターとかダークなんとかとか、宇宙の物質のほとんどは、説明しようとしても、わけが分からないことが、わかってきています。
そして、これを書いている私も、読んでいる人も、わけが分からなくなっています(笑)

さて、話を戻したいです(笑)


私自身がわかればどんなことがあるのでしょうか。

その教えを理解出来れば、とてもメリットがあります。
そうでなければ、
学ぶ理由が、なくなります。
勉強して、落ち込んだなら、インドにくることはありません。

ヴェーダーンタを本当の意味で理解できれば、メリットがあるのです。

私は私自身とともにいて、
自由でリラックスできるのです。
いつでも、いつまでも。

では、この私について観察してみる旅にでます。
普通の旅は距離と時間があって、目的地にエネルギーをつかって到達しますが、
自分への旅は距離も時間も必要ありません。
さらに目的地は一番近いところ、一歩も動かない、ここです。
つまり、いま、ここに答えはあるので、なにもインドに行く必要はありません。
ぼくは別ですが(笑)

普段、私たちは、自分の中心を観察することはありません。
観察することなしに、自分は自分だとわかっています。

自分は自分を見失いません。
よく考えてみれば、
これはすごいことです。

中には、
私は、自分を見失ってばかりです

という10年くらい前のぼくみたいな人もいます(笑)

しかし、その人はどうして「私」とわかるのでしょう。
記憶喪失の人でも、
「私は記憶を失った」という「私」がいます。

誰に教えられなくても、
「私は存在する」のです。

私は存在する、ということをヴェーダーンタではひとつの公式としてサンスクリット語で、こういいます。
Aham Asmi
英語でいえば、
I am
です。

ところで、あなたは誰ですか? Who are you?
と聞かれたら、なんと答えますか?

私は会社員です。
とか、ヨーガの先生です。とか、
私は日本人です。とか、
私は主婦です。とか、
そんなふうに生物学的属性とか、社会的属性とか、何に属しているか、ということを答えます。

私は会社員です。と答えたあなたは会社員なのでしょうか?
もしあなたが上司に聞けば私は部下です。夫に聞けば私は妻です。
子供に聞けばお母さんです。
友達に聞けば、大学の友人です。
家の隣の人に聞けば、お隣さんです。
あなたのお母さんにあった時、私は誰?と聞いてみたら、
「あなたは、私の娘だよ」という前に、
いよいよ「なにをいい出したんだろうね。仕事のしすぎでおかしくなったのかしら」

と病院に連れていかれて、そこで、もう大丈夫ですよ、あなたは患者です、と言われるかもしれませんね。

本当に私とはいったい誰でしょう。
私はそれらのたくさんの名前を持つ人なのでしょうか?

わたしはそれらのたくさんの名前を持つ人も含んでいて、それらを超えています。

I am a woman.

I am a student.

I am a worker.

I am wife.

I am your mother.

に共通するものは、

I amです。

つまり、
私はある。
私は存在
です。

私はある、というとき、
そこには私=意識があります。
そしてI amのうしろに付いている student, mother, workerなどの名前はなにかに属しているということ、つまり属性です。述語です。
たとえば、私は子供です。ということはありますが、子供といえばあなたのことを指すわけではありません。
あなたは属性を持つことはありますが、その属性はあなたではないのです。
本当のあなたは
I am
私はある。
私はある、というとき、
そこには私=意識があります。
この意識があなたの本質です。

そのうしろにつく言葉は、わたしの意識によって輝いている、ひとつの言葉と意味です。

その名前と意味は私=意識によって輝いていますが、
時間が経てば移り変わるような波のようなものです。

私はこの身体です。というとき、
私=意識はこの身体を輝かせています。そして時間と空間のなかでうつりかわっていきます。
意識はいつもその身体を輝かせて、存在を支えていますが、
カラダも生態系の一部で、循環し、代謝して移り変わっています。

身体中の細胞は7年で入れ替わってしまうと言います。毎日水分を2リットル以上とって、排出して、酸素を取り入れて二酸化炭素を排出しています。

さらに、長い期間で見れば、身体は親から受け継いで、いただいたものであり、親もさらにその親にもらったものです。

子供が生まれたら、自分のカラダはその子供に受け継がれていくのです。

このカラダは、まるで流れる川の波の一つのようです。


たとえば、わたしは学生ですが、
学生はわたしである、と言えないように、
わたしはこの身体を持ちますが、
一瞬一瞬移り変わるこの身体は、私の意識が宿る場所であり、わたしではないのです。

わたしのカラダはこの瞬間に現れた一つの波なのです。

 

さらに、話は続きますが、また今度です。

 

2012年3月12日月曜日

バンダーラ……プンニャ、徳を積む

スワミ・ダヤーナンダがいらっしゃっている期間は、バンダーラ、サドゥ(修行者)のための施しがよくおこなわれます。

 

サドゥはだいたいがオレンジ色の布をまとっていて、髪の毛がちぢれてうず高くもりあげている人がいたり、中にはドラゴンボールの亀仙人のようにかっこいいサングラスをかけた爺ちゃんもいたりします。

足が不自由な人もいれば、バイクで二人乗りで乗り付けるサドゥも、携帯電話を持つヒトもいます。一人ひとりがかなりキャラクターが濃い。


さて、これらのサドゥが150〜250人一堂に、庭に数列になった敷物に座ります。

時間がくるといっせいに男の人たちがご飯や野菜炒め、豆スープ、水などを入れたバケツと、

おたまを片手に、前に置かれた皿にそのごはんを入れていきます。
その時、おたまは決して皿に触れないというのがルールで、

ぼくも一度、触れてしまって注意されました。
しかしこれが難しい! 片手のバケツは重いし、上から落とすと汁が飛び散って、

ほらほらこぼれるじゃん、的な舌打ちされたりして(笑)


それから一人ひとりにお布施が配られます。

100〜300ルピー(日本でいえば1000円から3000円くらいの価値は充分あります)が

渡されていきますから、全体で相当なお金です。

 


ご飯を食べ終わると、なんというか感謝の歌のような、

それぞれ神の歌をうたいます。そして、掛け声と共にエイサーっと立ち上がって帰っていきます。

 


これらのご飯やお布施は全部寄付で成り立っています。最低限10万円くらいからでできます。

先日はパラヴィッディヤー・ケンドラムと日本人の生徒たちとで合わせて、バンダーラを行いました。

なんだかうれしかったです。


スワミジがおられる時は、寄付が多いので、バンダーラが多いといいます。


サドゥに寄付するというのは、最高に得を積むことになるそうです。

 

それは、サドゥたちが大事な叡智を社会のために残しているからです。


プンニャ、日本でいえば「徳を積む」ことになるという考え方は、

日本よりもずっと多い気がするのです。


たとえば、アシュラム(修行のお寺)はすべてが寄付によって運営されています。


たとえば食事はホワイトボードに「本日 昼ごはん、チェンナイのだれだれさん寄付」と書いてあります。


団地のように並んでいる宿泊施設も寄付によって造られ、

講義を受けているホールも寄付です。

 

ここにやってくる人たちは、自分の懐具合に合わせて、

寄付をして、宿泊したり、授業に参加します。

 

3年コースの勉強もありますが、これも寄付です。

 

お金がなければ、なしでいいし、あればあるだけ出せばいいのです。


そこにはプレッシャーはありません。

 


寄付にプレッシャーがあったら、それは「支払い」です。

 

忘れていた頃やってくるカードの支払いの請求書を見た時の額の汗、

そのような汗はアシュラムでは不要です(笑)


また、アシュラムで、なにか商売をしているようなそんなことは見たことはありません。

 

本とか写真とかは売っていますが、

日本のお寺のように、

たくさんのお守りがあったり、

 

戒名いくらとか、

葬儀宗教なんてことは言われないのです。

お墓もないのです。

 


本当は、これはとても自然な感じがしませんか?

 

 

 

2012年3月4日日曜日

スワミ・ダヤーナンダ 2


スワミジの今回のキャンプは、申し込みが、とくに今年は多くて入りきりませんでした。

もっとも多いインドの人たちはだいたいはリタイヤしているような熟年層だとおもいます。
その次に多いのは、はっきりわかりませんが、ブラジル人かな? 海外からのひとたちは、30台前後のヨーガの先生たちもいます。

スワミジの講義は難しい話を、ごくごくシンプルに話ししてくれます。
時には、いえ、いつもですが、笑いあり涙あり感動もあります。
乗ってくると歌も歌います。

先日は歌の掛け合いになりましたが、メロディの複雑さと絶妙さは、
「日本の歌手で言ったら…」
ぼくは、桑田佳祐だと思いましたが、nanaさんは、「北島三郎と思った」(笑)

たとえ話は物語であったり、
スワミジの経験であったり、
スワミジの勝手な作り話であったりします。
伏線を引っ張ってあったり、
最後にオチがあるところなどは、大阪人としては「う〜ん」と唸って、
たまらないものがあります。

ぼくたちは、
「国宝の落語家やね」と言ってます。
本当は国を超えて、地球の宝です。
落語家ならば、
桂米朝さんというよりは(前回のブログでも米朝さんがでてきましたね(^_-)、
桂枝雀さんで、
テンポはじゃじゃ丸(とnanaさんは言いますが、わかりません。笑)、
動物でいえばクマさんのような感じですか、
余計わかりませんね。

ぼくたちは、このようなスワミジ、先生を持つことができて、
とても幸せな時代だとおもいます。

ヴェーダーンタを教えてくれている先生なのですが、
さて、このヴェーダーンタってなに?
と思いますよね。このブログでもあまり説明してなかったかもしれません。

ひょっとすると、世界のあるひとつの国インドの、
そのまた、古いお話しのひとつであって、
好きな人だけが学ぶような、
あるいはヨーガを勉強する人だけが必要な、
遠い哲学話だと思うかもしれません。

けれども、ヴェーダーンタはインドのお話ではない、といいます。
かつては古い文明があって、地球上ではその教えを共有していたといいます。
ヴェーダーンタを、英語で、しかも混乱や間違いなく、教えてくれる先生は、スワミ・ダヤーナンダしかいないと聞きました。

現在はそのお弟子さんがたくさんいますが、すごいことです。
その世界への貢献は、シャンカラチャリアに匹敵するといいます。
シャンカラチャリアは誰に匹敵するかは、難しいですが、
桂米朝さんに匹敵するといってはちょっと違うような気がします。
でも米朝さんあって上方落語が復興したことを思えば、日本ではすごいお方ですよね。

そのヴェーダーンタとはなんでしょうか?
スワミ・ダヤーナンダはこう言います。
ヴェーダーンタとはセルフ・ナリッジ、
自分自身への理解であると。
さらにこういう風にも言います。
ヴェーダーンタは「なにであるか」である、と。
この自分とは何であるか!?(・_・;?、
この世界とは何であるか( ? _ ? )。
この二つの理解であると。
そして、面白いことに、ヴェーダーンタは哲学ではないといいます。
哲学はたとえ話(客体)を使って、証明をしようとするけれども、
たとえ話(客体)には必ず、その逆のたとえ話が出てくるので、覆されてしまう。(議論のための議論ができてしまいますよね)

ヴェーダーンタは自分自身についての理解であるから、
最終的には例えることができない、自分自身を見つめること。つまり、主体そのものを直接知ることになる。
そのため、議論ではなく、瞑想が必要になることを言っています。

実は、
このヴェーダーンタ。
インドでも風前の灯火、
といってもいいかもしれません。
どこの国でもそうですが、
頭の良い若者は、今の主流である方向
コンピューターとか、
金融とか
スマートな生き方に行きますから、
伝統は廃れて行く一方です。

ましてや日本では
チェータナ先生が2009年にダヤーナンダジを日本に連れてきて頂いてから、
始まったといっても良いのです。

大学でも、ヴェーダーンタを教えてくれるのですが、
それは混乱した状態の、学術的研究としての内容になっていて、
スッキリと整理されていないといいます。

ダヤーナンダジのヴェーダーンタは、
伝統そのものです。
しかも、現代人の教育に合わせて、言葉を選んで語ってくれます。
科学となんの矛盾も起こさず、
逆に最先端の科学こそ、ヴェーダーンタを学ぶ方が
この世界の理解につながる知恵のかたまりといえます。
なので隣に座っている人が、
ハーバード大学教授であったり、
脳科学の先生であったり、
とある国の大統領であったり、
はたまた流れ着いた旅人であったり、
もともとは食べ物を恵んでもらうためだけにやってきたニセモノ修行者であったりします。
チェータナ先生の同級生は、
3年コースの後、国連に就職しています。
先日のスカイプクラスでは、ヴェーダーンタの大切な聖典である
バガヴァッドギーター(ガンジーの愛読書でもありましたね)
には、世界の問題の解決があることを教えて頂きました。
いや本当、とっても地味な静かなアシュラムなのですが、
この地球の未来にまで広がる
とっても素晴らしい教え、
Vedanta
がここにあるのです。