2015年12月18日金曜日

瞑想とチャクラWS 感想

全7回で行われた瞑想とチャクラワークショップ。
参加者の方々のシェアリングによって、形を変えて進めていくことになりました。今回の講座はみなさんと一緒に作り上げていく講座だったと思っています。
以下、みなさんからの感想を一部アップしていきたいと思います。
Takeshi

(参加者以外の方にもわかりやすいように*で少し解説させていただきました)


瞑想講座を終えて

私は最近ネガティブな感情や価値観にとらわれてがんじがらめになっているような気がして、「瞑想」を学び、もう少し心穏やかに過ごせたらと思い受講させていただきました。

毎回様々な気づきがあり、過去の出来事を思い返した時には、今までとはまた違った見え方をしました。
その中でも、強く心に残ったのは同情と慈悲は違うという事です。

何年も前のことですが、色々なことが重なりとても辛かった時期に誰よりも心配し心を痛めてくれたのは家族だったのに、実際に助けられたのは第三者だったという経験があります。
そのように感じてしまう事が家族に申し訳なく複雑な気持ちでしたが、理屈がわかると素直に改めて感謝することが出来ました。
大切に思う相手ほど難しいとは思いますが、自分が支える側に立った時には心に寄り添いながらも違う次元から客観的に見るという事を意識したいと思います。

想像していた以上に講座の内容が深く、聞きなれない言葉も多かったのでとても理解出来たとは思えませんが、講座を受講する前と後では明らかに自分の中で何かが変わったと感じています。
シェアリングも貴重な体験でした。講座を開いて下さった先生方、一緒に講座を受講した皆さま、ありがとうございました。

亀井 あゆみ

*同情と慈悲について。
例えばですが、溺れている人を助けようとして一緒に溺れてしまうような、そんな感情や考えが同情です。一方、溺れている人の苦しみを知りながら、一旦潜って、しがみつかれている腕をほどいてから、後ろに回って救助に回る、ということが可能になるのが慈悲です、と講座では解説したように思います。
同情では他者と同じ気持ちになることです。感情と考えを他者と同じにしてしまうことです。慈悲は他者の感情と考えに寄り添い、理解しながら、客観的に全体からの視点を失わないことです。
しかしながら同情は決して悪者ではありません。同情は慈悲の一歩手前の大事なステップです。同情がなければ慈悲もおこりません。

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チャクラと瞑想のワークショップを受講できたことに感謝しています。
毎回、内容が濃厚で引き込まれ、いつも時間があっという間でした。また、教室にいる数時間は不思議と透き通った気持ちになれ、俗世間から離れたお寺か神社にいるような感覚でした。

チャクラと瞑想という切り口から大昔より伝わっている聖典ヴェーダーンタやバガヴァットギーターに触れていくのは、より良く生きるための人生哲学の勉強そのものでした。
普段自分が感じている違和感、疑問、問題点に対してこんな捉え方があったのかと、新しい考え方や分析の仕方を知って、目からウロコがぼろんぼろんこぼれ落ちました。

まだ毎日の座って行う瞑想は時間が確保できなかったり、できても眠気や考え事でなかなか集中できず、まだまだ訓練が必要です。今までになかった習慣なので、いきなり身に付くものと思わず、気長に1年や2年かかっても取り組みたいと思います。

また、瞑想は日常のすべてを一旦横に置いて立ち止まり、普段は見ないようにしている自分の感情や、無意識に繰り返している考え方の癖を見つめ直す自己対話でもあり、それは自分の中に自分をとり戻していくような感覚がしました。また、例えるなら薬を染み込ませていくような作業で、良薬口に苦しと言いますが、講義の中には自分の言動を省みなければならない耳の痛い話や、時にわけもなく胸がいっぱいになって涙が出てくる時もありました。講座を受けていた時間そのものも瞑想だったと思います。

講座のシェアリングの中で感じたことですが、お互い生活の場や育ちや考え方が違っていても、仕事や人間関係や自分自身についてなど、自分だけでなく、それぞれが悩みや苦しさの中にいることを知りました。
どんな人も恐れや不安を持っていて、その存在から逃げようとしたり消し去ろうとしても、生きている限りは離れられないものだと思いました。
7回目の授業でイーシュワラ(イーシュワラ=宇宙全体の意識、生きている全体宇宙、神と訳される場合もあります)の話がありましたが、全ての人が恐れや不安を持っているということは、全ての人に自分がイーシュワラだと思い出す可能性があるのだと思いました。
もし恐れや不安の存在が無ければ、本当の幸福を探求することもなくなってしまうかもしれません。
そして、イーシュワラの存在を知れば知るほど、一人で学んでいるのではなく、お互いの繋がりを感じ、目の前にいた方々が悩みや苦しみを乗り越えてくれたらという気持ちになりました。

もし、人生の最中に本当の幸福に目覚めたとしても、おそらく生まれ変わると再びリセットされて、また探求を繰り返すのかもしれません。そうだとしたら、そこに人間が生きる普遍的な理由があるように思います。

話が大きくなってしまいましたが、
まだ理解できていないことも多く、もっと講座を続けて欲しい気持ちもあります。
ただ、勉強したことを活かす実践が始まったところでもあるので、瞑想を日常の習慣にできるように努力していきたいと思います。

今回、このような勉強の場を与えてくださり、お忙しい中、本にできそうなくらいのテキストと講義を毎回用意していただいたtakeshi先生、nana先生、縁あって一緒に学ぶことができた生徒の皆様に(そして、あるがままに生きているブナちゃんと猫ちゃんにも)とても感謝しています。
本当にありがとうございました。

三浦祥子


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未だに瞑想は出来ていないですが、そこに至る様々な事を教えてくださって勉強になりました。瞑想にも色々種類があることも知りました。
チャクラに関しては自分の弱い所がどういう意味を持つのかと言うことも分かって面白かったです。
なかなか日々の生活で瞑想をする事が自分の中で拒否してる部分と言いますか、自分が出来るとは思えないと思い込んでるので、せっかく学ばせてもらった事を無駄にしないように一歩を踏み出せるよう勇気を持ちたいと思います。一回の瞑想で何かしら自分にプラスな事があれば続けられそうなので挑戦した時には自分の中の変化を見つめられたらと思います。

畠山明子
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瞑想ワークショップを終えて

瞑想のワークショップを受けて、自分の事を客観的に見ると共に、他とのかかわりや物質としての存在として在る事に気付きました。

いつの頃からか、心穏やかに過ごせる日が多くなった気がします。

全ての物や事から自由になれると、他の事も今までと違って見えたり、考えたり出来るようになりました。

ヨガも瞑想も、よちよち歩きですが、これからもよろしくお願いします。
                                                古賀裕子
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「チャクラと瞑想ワークショップ感想」

 「「わたし」とは、「世界との線引きをおこなった内側」ではありません。」初回に言われたこの言葉を、すぐには理解できなかった。瞑想して、自分の体で確認してみることにした。世界と自分との境界にあえて注意した。

 目を閉じて、息を吸う。お腹と背中がふくらみ、それ以上ふくらまないところで止まった。自分の輪郭を内側から感じた。そのまましばらく続けた。外から風が吹いてきた。耳や頬、指の皮膚にあたった。動く外気に自分の存在を教えられた。瞑想を終えて目を開いた。目の前に、いろいろなものが広がった。網戸、障子、畳の目、木の枝、葉っぱ、雲、電線、ベランダの手すり。それらと自分が対等で、仲間に入れてもらえる気がした。

 毎日、瞑想を続けた。そのうちに、瞑想はぎこちなくなり、うまく集中できなくなった。問題を探った。隙間のような違和感があった。呼吸する自分を、観察する自分が少し遅れて追いかけているようだった。自分の癖に気がついた。この癖を頼りに、たくさんの発見や喜びを得てきたけれど、たくさん苦しめられもした。ふたつの自分の隙間をなくすようにした。違和感が消えた。没頭と観察とが、同時にできることがわかった。「瞑想には時間がありません。」教わったこの言葉の意味を経験できた。初心に戻る方法を学んだ。

 これまでたくさんの人やものたちに支えられてきた。そのことを思い出したり、忘れたりしながら生きてきた。自分が世界の中心であるかのようにふるまい、流れに逆らうようなこともしてきた。今でも、自分と世界とのあいだに隙間をつくり、遅れをとってしまうことがある。そのことに気を許し、面白がってしまうこともある。動きつづける日常の中では、なかなか自然に世界と調和できないけれど、せめて瞑想のあいだだけでも、そばにいてくれる人やものたちと呼吸を合わせて、清々しくいたいと思う。
H・M
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日々生活をしていると、好き・嫌いという感情は、やはり普通にあります。
最初はそれがいけない事なのかと思って、WSに参加していました。聖人や僧侶の様にならねばならないのか、それが出来なければ自分はダメな人間なのかと思って、正直重い気持ちでいました。

そういった感情が無くなれば楽なのかもしれませんが、心は嘘をつけません。しかし、好き・嫌いというものがあっても、それらに振り回されないでいる事が本当は大事である事がわかり、それならば、自分も少しずつではあっても出来るなと思い、随分楽になりました。自分にOKを出す事が出来たのです。

下満 恭子

*瞑想の邪魔をしていくのが好きと嫌いという考えであることを全体の講座を通じて話してきました。元々は好きと嫌いもこの個人の体を守るための大切な感覚でありそこから生まれた考えかもしれませんが、好き嫌いが暴走して周りとの協調を失いながら自分の自我を満足させるためだけの好き嫌いになっています。この好き・嫌いに対して注意深く観察していくことが大切だと講座では進めてきました。
「好き嫌い」を嫌うのではなく、「好き嫌い」を好きになるのではなく、それをそのまま観察して、うまくつきあうこと。これによって「好き嫌い」によって振り回されないでいくことであり、全体からの視点を保ち続ける、つまり「客観性を持つ」ということです。
自分や他者のことへの好き嫌いから自由になり、自分と他者を認めていくことが、瞑想では大きなテーマであり、ステップになるのです。
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WS受講期間も含めて、今年はそれまでそれなりに続けていたアーサナや瞑想、食事といったヨーガ的な生活習慣ができている実感が自分にとって低い状況でした。
それは家族にヨーガを続けることをとがめられたことで自己肯定ができなくなり、また叱られるんじゃないかという恐れが引き金でした。それらの問題は今もつきまとうのが分かります。
疲れた私は無意識にヨーガを深めることの一時停止を選んだほうが安全と考えました。
WSを終えて、その選択がその時は最善ではあったけれど、やっぱり誤りだったと感じました。
瞑想はわたしからのメッセージをキャッチする手段です。そのメッセージを正しく受け取って、必要なくなった記憶から自由になったときの感覚ときたら。
この数日、マントラを唱えたり、少し瞑想するようになって、やはり考えが穏やかで整理されて、心が安定しています。あるがままの自分を受け入れる歓び。(職場でラジオからビートルズの“let it be”が流れてきた時、ハートの深いところが反応して、今までと違って聞こえました)
WSに参加して、これからも自分のペースで瞑想を続けていく意識付けができました。ありがとうございました。

よし子

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