2012年10月22日月曜日

Vedanta Camp at Yoga-do-tsuchi

チェータナ先生の月一度のヴェーダーンタキャンプが

ここ、ヨーガ堂・土-tsuchi-で行われました。

ヴェーダーンタの入門書となる

『タットヴァ・ボーダ』の今年出版されたスワミ・ダヤナンダジの本をテキストにして

連続して行なっているこのヴェーダーンタキャンプ。

たしか今回で4回目になります。

いろんな人のチカラが働いて、そのおかげで神戸大学や大阪市内で開催されてきましたが、

この10月11月は、「土」でどうでしょうか?

とお声がかかって、来ていただくことになったのです。

とってもありがたいことです。

ホンモノのヴェーダーンタを初めて伝えていただいたチェータナ先生と、

こうして縁がつながってきたことは、奇跡的な感じがします。

思えば、2年前、広島ヨガピースの実行委員の方に、

「大阪はなぜかヴェーダーンタをされる方が少ないです。

大阪でもチェータナ先生を呼んで

ヴェーダーンタクラスをしてください」、と言われたことがありました。

その時にはチェータナ先生には挨拶しただけ。まだまだ畏れ多くて、

「そんなことができたらいいなぁ」とぼんやり思っただけだったのですが、


こうして、思いがけず自然にそういう形になったことが素晴らしいです。


参加者は15名。

ヴェーダーンタに少し触れたことのある方、ヴェーダーンタ初心者も多く見受けられた

今回のキャンプですが、チェータナ先生はその初めての方にも分かるように、

丁寧に、かつ大胆、スピーディーに進められました。

タットヴァボーダの最初の祈りの言葉をまず丁寧に解説していただきました。



  ヴァースデーヴァというのは先生のことです。先生とは、そのまた先生がいて、

  そして最後はイーシュワラ=宇宙の意識のことになります。


  人はすべて「知っていること」=記憶を100%見ています。

  もし記憶がなかったら、このクラスにいる人が男の人か、女の人がいる、

  ということすらわからなくなります。

  男や女や壁、というのを知っているので、そこに意味を見ます。

  例えば夢は100%自分の記憶です。記憶の中の山や私が出てきます。

  夢に登場するものはすべてが記憶です。

  起きている時、見ているものはすべて昔の記憶です。
  
  ただの空気の振動の羅列、音の羅列でも「あ」「さ」「が」「お」という音を出せば、

  そこに「あさがお」の花を浮かべます。意味が頭の中に輝きます。

  音と、意味がつながっている記憶があるからです。

  数学というのは誰もが同じ結論を出せる客観的な知識ですが、  

  もし、「1+1=3」と記憶していたらどうなるでしょう?

  八百屋さんに行って、いつも喧嘩することになるでしょう(笑)。

  間違った記憶があるとき、そこには混乱があります。

  子供の頃、兄弟がいて、私だけが親から認められていない、という記憶があればどうでしょう。

  いま、私は会社の中で、どうしても上司とぶつかってしまう、

  上司から周りから認められていない、と思ってしまうかもしれません。

  子どものころの記憶の中に、似たようなことがあるのかもしれません。

  私たちは記憶に閉じ込められています。

  ヴェーダは正しい知識、イーシュワラを教えてくれます。

  間違ったことを訂正してくれるのが聖典なのです。

  この人生においての自分の見え方が正しくなれば、

  考えにゆとりが生まれます。そして、それが、

  ムムクシュ、真実を知りたい人、自由を知りたい人、モクシャを知りたい人

  つまりアディカーリーになり、この人生においてリラックスが生まれるのです。



何度も聞いているお話なのですが、今回、おー、という感動がありました。

座学、本当に地面に座って聞く形はインドの修行場、アシュラムと同じ感覚です。

さらにみなさんがヨーガ、ヴェーダーンタ、に対する尊重の気持ち、

先生に対する尊敬があふれていて、それがきっと教えに集中できて

理解が深まり、気持ちよかったのです。





食事はヴェジカレーとだいすけさん、まきさんご夫婦が作って下さったサラダとピクルス。

皆で輪になって食べる食事はとってもおいしかった。

たくさんのお菓子もみなさんから持ってきていただき、持ち帰れないほどでした。

はじめて手作りのお菓子を作って下さった方もいらして、胸がジーンとしました。



先生のクラスは、4つの資質、そしてシャマについての解説に入って行きました。

ここで感覚器官、五感は考えによって支えられている、

という言葉の説明のところで、ポットの喩え話が出て来ました。


この手に持っているのはなんでしょうか。ポット、です。 
でもその本質は「土」です。 
「ポット」のうしろに「土」があります。 
ポットを見ると、土は隠れたように見えますが、本当は少しも隠れてはいません。 
ポットは土から生まれて、現在も土で、そして落として割ってしまっても土です。 
ずっと土です。 
ですから、わたしが持っているものは「土」です。 
ポットは壊れますが、土は壊すことができません。

ポットは土ですが、土はポットである、とは言えません。 
土はポットを装うことができます。 
もし土がなければ、ポットは成り立ちません。 
ポットだけを取り出すことはできません。 
土に触らずにポットに触ろうとしても無理です。 
ポットは土によって支えられています。 

感覚器官は考えによって支えられています。 
考えがなければ、記憶がなければ、音はただの振動です。 
あれは虫の声だ、という風にはわかりません。 
盲目の人が、はじめて目を開ける人は色の記憶が無いので、ただの色の波です。 
それが何かを識別できないのです。 
さらに考えは意識によって支えられています。 


この土もよく見てみれば、原子ですし、素粒子です。 
すべてのこの世界は素粒子ですが、科学ではここまでです。  
ヴェーダーンタではこの素粒子もすべては意識である、といいます。

チェータナ先生の授業はスワミ・ダヤナンダジのクラスのように笑いもたくさんありました。

感動もあり、涙もあった人もいたんではないでしょうか。

最後に先生が「とてもやりやすかったです」とおっしゃっていただけたのが、

本当にうれしかったです。


遠くからわざわざみなさん来ていただいて、ありがとうございました。





2012年10月16日火曜日

ポジティブ・シンキング

今日は新月です。

何かをはじめるにはいい時です。

浄化にもいいです。

浄化するということは、汚れているということでもあります。

汚れ、ってなんでしょうね。

汚れって、自然じゃないということです。

私たちの服に土がついていると汚れ、になります。

自然じゃないですから。

でも、登山をしていて、服に土がついてしまうのは、汚れではありません。

とっても自然なことだから。


草木が土で汚れている、ということはありません。

土にあるのが自然ですから。

ココロの汚れというのもありますよね。

それも自然との関連だと思います。

自然なココロを持っているか、そこがココロの清らかさ、ということでしょう。






パソコンで入力していて、変換ミスというのが時々起こります。例えば、

「いぬげみけのいちぞく」。

実際には、そんな単語を打つことはないでしょうが、もしあるとすれば、

ここでは、「犬神家の一族」と打ちたい。

(あ、年代によっては、もはや知らない言葉になっているか…)

けれども、

「犬が三毛の一族」

と変換されることはありえますよね(笑)。

このままだと、ミステリーがナンセンス漫画くらいに変わってしまい、

まるで意味が通じません。

パソコンで起こる変換ミスですが、

わたしたちの心のなかでもたくさんの変換ミスが起こっています。

もちろん、わざとではないけれど、無意識的におこっています。



今回は、脳内でおきる変換ミスの、その犯人について探求してみます。




たとえば、先日はこんなことがありました。


いま書いているブログですが、基本的には気楽につらつらと書いてしまっています。

また、ブログを書いていることすら忘れていることがあります。

更新が長いのはそのせいですね。

9月はとうとう一つもブログを書きませんでした。

ところが先日、ブログを見た、という方がいらっしゃいました。

これはすごいことです。天然記念物の発見くらい稀なことです。

そのかたは、目をキラキラさせて(……これも僕の変換ミスかもしれませんが)

「先生のブログ、好きです」

とおっしゃいました。


ブログを見た、といわれることがほとんどありませんから、

それだけでも頭の中に「!?」マークが飛び、

「ブログってなんだっけ?」と疑問が起こり、

さらに、おもしろいことに、脳内では「ブログ」という単語をすっ飛ばしてしまっていました。

ということは、どういうことになるかというと、

「先生好きです」

という言葉になります(笑)。つまり変換ミスです。



この場合は、ポジティブ型の変換ミスですね。


少しのポジティブ型は明るくて楽しいかもしれません。

都合の悪いことも良いように変換されます。

根がポジティブですから自分をいいようにとらえます。





では、反対にネガティブ型変換ミスならば、どうでしょう?



「先生のブログ、好きです」と言われての変換ミスは、どういうのがあるでしょう。


「ブログはいいけれど、実際喋るとあまり話が面白くないですね」

といったネガティブ変換がありえますよね(笑)。

「話が面白く無い上に、長くて疲れた、なんだか残念」

なんていう複雑変換をすれば、もうボロボロです(笑)

ネガティブ変換も多発すると、どんなに周りがその人を励まそうが、

いいところを褒めちぎろうが、ダメです。

どうせ自分は価値がないんだ、と思い込んでしまうのです。

ネガティブ性は、周りを引きずり込んで疲れさせます。




そんなわけで、ネガティブと違って、ポジティブ型変換のほうは、

前向きで、上昇志向でいいじゃない、

とおもわれるかもしれません。

ポジティブ・シンキング、という言葉が20年くらい前に出てきた時、

とても画期的だな、と思った記憶があります。



が、ここにも実は問題が勃発します。


ポジティブとは自分を肯定することです。

肯定、はよさそうですけれど、その中身は、

とにかく現実はどうであれ、間違っていてもOKということです。

ともすると、悪いことを振り返ることがありません。

調子に乗ってしまうと、現実とのギャップが広がっていきます。

いよいよ、ひどくなれば、

「私は人から認められているカリスマ、

私は他人を幸せにしてあげているのだ。」

なんていうふうに事実をねじ曲げてしまうことにもなりかねません。


そうはいっても、ポジティブは実に気持ちがいいものです。気持ちが上に上がれますから。

「アゲ」という言葉は今はあまり聞きませんが、今も気持ちは上げようと思っているでしょう。

私は上に立っていて、他の人は下にいる。

この状態、社会ではたくさん見受けられます。

上にいるほうが、眺めもいいし、気持ちがいい。

だから、上に行きたい。上昇したい。


でも、どうでしょう?

ヨーガとして見てみれば、一体本当は何が上で、何が下なのか。よく見なければいけないのです。

何において上があり、下があるのか。

上と下とは、空間において、重力が働いている時に起こる言葉です。

それは物理的に、また心理的にもおこります。

例えば、お金持ちは貧乏の人の上にいるような感じです。

学歴、大学の上があり、下があるような感じ。

文化レベルが高いと思っている地域があり、そうでないと思われている地域があり、

与える人は上にいて、もらう人は下にいる。




けれども、すべての人にとってその上下の価値観が大事であるとは限りません。

ある人は高級品の服を着ていることが自分の価値を高めると考えます。

その人には世界にひとつだけのお母さん手作りの着古した服を理解できないかもしれません。

ある人は大学のランク、そして仕事の役職に価値を持つと考えます。

その人は代々伝わるおばあちゃんの智慧に価値を持たないかもしれません。

食事が人生において幸せの源泉である、と考える人には、

断食の清々しさを知る人を恐れるかもしれません。

新しいものが好きな人、古いものが好きな人。

学問、文学、美術、音楽、演劇が好きな人、サブカルチャーが好きな人。

占いが好きな人。科学が好きな人、嫌いな人……。

家にいることが好きな人。旅を続けるのが好きな人。………





そもそも本当にそれが上下になっているでしょうか?

上や下ってしっかりした基準があるでしょうか?



例えば、

すべての人は母から生まれてきました。平等に。

すべての人は水を飲み、食物をいただいて命をいただいています。

すべての人はこの空間の中の空気の中に住んでいて、平等です。

すべての人はこの水の惑星、土の惑星、地球上の上では平等です。上も下もありません。

すべての人はいま、ここ、つまりこの宇宙の中において平等です。

すべての人はその宇宙から学んできました。自然の智慧として。

いま、その豊かな資源を、お金として、学力として、文化として、受け取る事ができます。

そのチャンスに恵まれた人が上に見えるかもしれません。

でも、自然の前においては、すべての人は平等です。

すべての人は死の前において平等です。だれも死から逃れることはできません。

上や下にいると思っていても、人生においてすべては平等のなかにあることがわかります。





ポジティブもネガティブも、上と下の認識について狭い範囲において、でしかありません。

大きな視野に立てば、本当は勘違いです。





さてさて、話を戻しましょう。

勘違いの話でした。

さきほどの「好きです」と変換してしまった、

つまり、ポジティブ型間違い変換をしたのは誰か、を考えてみましょう。

ですが、長くなってきたので、次回に