2014年7月29日火曜日

『変える勇気』アドラー心理学とヨーガと

いつも利用している店のお姉さんが、あるとき

「いいことないわー」と溜息をついていました。

顔もいつもの覇気がなく、声も小さいような。

いつもはよしもとの舞台に出てきそうなぐらい、大きな声で力強いのです。

どうしたのか尋ねてみると、いろいろと話してくれました。

「こんなに頑張って働いてるのに、子供らは私の事うるさがって、ほんまにがっかりや」

彼女は「お金にだらしのない旦那」と別れて、

子供二人と自分の母親を支えるためにに朝から晩まで働いているのだそうです。

「あー、えらいなぁ。僕の母親と同じやー」と僕は言いました。

そして、それは耳が痛い、と思いました。

実は、自分の母親も同じように早朝から働き詰めに詰めて、何年もそうして子供たちを育てたのです。

でもその当時、中学生や高校生の頃、

母親がそれほどまでに頑張っていることに、

子供の自分としてはどうしていいのかわからなかったのです。

疲れて機嫌が悪くなっている母親に対しては、

「そんなにしてまで頑張られても(感謝しているけれども、

できることはこちらも頑張っているし、

どうかムリしないで欲しい。

こっちにその機嫌の悪さを押し付けてこないで欲しい)」と思っていて、

無意識に感じる母親からの感謝の要求(そんなものはたまにしかなかったのですが)に反発を感じていたのです。

そんなことを思い出して、落ち込んでいる彼女に僕は言いました。


でも子供は黙ってお母さんの頑張りを見ているよ。

子供はいつも母親にそっと感謝している。

そしてその頑張りを見ていたから、

他の人の痛みを知ることが出来るようになったような気がする。

思いやりを持てるようになったと思う。

それは母親の苦しみを知っていたから。

今は子どもとしてはなにも言えないかもしれないけれど、

いつしか、行動で見せてくれると思う。

僕は今も、いつも母親に感謝している。

母親には頭が上がらない。

おかんはいつも
すごい。

そして母親に何もしれやれない分、僕は自分の家族を大事にしようと思っている。

きっとあなたの子供も、あなたに感謝している。絶対そうだと思う。

「おかんは、でもね、60歳にして僕の友人のお父さんと再婚して、

都会育ちの母親が、田舎で草刈りして、土まみれになって、

そこから運転免許もとって、第2の人生をがんばっているよ」

「きっと、子供から卒業したと思った時、ステキな旦那さんが現れるから、大丈夫!」

彼女は目を真っ赤にして、ウンウンと頷いて
「ありがとー、元気でたわ」と言っていつもの笑顔に戻って行きました。


人は誰かの役に立つことで、自分の価値を測っています。

でも誰かの役立つこと、というとき、誰かに対して評価を求めてしまいます。

その評価を求めることは、その誰かにとっては押しつけになるのです。

わたしは貢献しているでしょ、という態度が、誰かを萎縮させます。

ではどうすればいいのか。

貢献するということは、とても微妙なことなのです。

貢献は見返りを求めないことが貢献だから。

見返りを求めた時、それはGive & Takeであり、

約束があり、束縛があります。

「これだけしてあげてるのだから、あなたもこれだけしなさいよ」

それは見えない束縛です。

原則として人は束縛から逃れたいという欲求があります。

(束縛は人生において必ずあります。それは義務と呼ばれます。
義務を果たすことが喜びになる時も、やがて、やって来ます。それが自分を自由にすると理解できる時には義務は喜びです。。)

貢献には相手には束縛や義務感を与えません。

さらにその人も他へと貢献していこうといく勇気がつけられます。

義務的な行為よりも、さらに高度な行為だと思います。

高度ですが、契約から貢献へと私たちは成長していきたいのです。



その後もう一つ話があるのですが、それは別の機会に。

この出来事が、今回のアドラー心理学からヨーガへ『変える勇気』の講座につながっていくのです。

それにしてもこのブログを春から「書いていく勇気」がなく、、、

そのあたりから変えていかなければいけませんね(笑)

2014年3月30日日曜日

櫻 桜 サクラ




桜が咲き始めました。


普通、桜といえば、「お花見」、「宴会」、「楽しいもの」ですよね?

僕にとっては桜はいつも苦しいものでした。


どうして桜が苦しいのでしょう?

実は昔はカメラマンをしていたのです。そういえば。笑



この時期は桜前線にそって中国地方や四国、関西を車で走り回っていました。

海岸線から都市部にかけては気温が高いので、そちらの方から撮影が始まります。

場所で言えば高知市内、高知城から始まるでしょうか。

そして広島市内。岡山市内です。

でも山手の方にも良い桜がポツポツあったりします。

津山城の桜は何度も通った場所でした。


桜カメラマン、というのは素晴らしい仕事です。

いつも最高の桜の時期に、最高の場所で、そのサクラを見ることができるのですから。



まだ固い、紅色のつぼみ。

山の中の一本桜。

全体が桜色にうめつくされる山や河川の土手。

ライトアップされるお城の石垣。

提灯がたくさん吊り下げられて、屋台が並んで、ブルーシートの上で盛り上がるサラリーマンたち。

お城のお堀に吹雪く桜の花びら。

雨上がりの水たまりにぎっしりとうめつくされていて。

あっという間に一番いい時期は去っていきます。
 

寂しいというのもありました。

みんな花見している中、一人で朝から夜桜まで撮影していたりしているのですから。

夜遅くまで撮影して、朝早くから移動し、どの場所で終わるか読めないことも多く、

車の中で寝泊まりすることがほとんどです。

そうして日本中の桜を見たような気分になります。


今年、数年ぶりの日本の桜を見ます。

撮影もすることなしに。

純粋に桜を見ることができます。

何ものからも自由に見る、ということはほんとうに難しいことです。

カメラマンであるという自分から自由で、いろいろな思い出から自由に見る。

それはつまり、思い込みや偏見から自由になるということです。


普通みなさんが花見をしているとき、仕事や立場、状況から開放されています。

すべての思い込みから自由に桜を見ることができます。

全てから自由であるとき、実は桜が美しいのではなく、その人自身が美しいのです。

その人は桜と一つになって、なにかの必要だとか、欲望とか、不安から自由になります。

肩書や、容姿、才能、罪や、悩み、そんないろいろな自分から自由な自分になります。

ただ美しさと一体になっています。

その瞬間に居続けることができるとき、その人は美しいのです。

桜だけではありません。

何かを見るとき、自分自身の欲や不満から自由になって、開放されてモノを見る。

そのとき、世界は素晴らしいということが見えてきます。


サクラが咲きはじめの時も、五分咲きの時でも、満開の時でも、散り始め、

散り終わりを迎えて、葉桜であっても、

自由にモノを見ることができれば、それはいつでもすばらしい。

そのとき、自分が美しく、そして世界は本来美しいのです。

2014年2月17日月曜日

ありがたい、をそのままに

こちらインドは青空です。気温は20度くらいでしょうか。

なんと贅沢な気候なんだろうとしみじみ思います。



インド伝統のヴェーダ(知識)を学び、体験している日々ですが、

これもまたなんて贅沢な時間なんだろうと、毎回思います。

学生の時には勉強することの贅沢さなんてものは、考えませんでした。

あのときもっと勉強していれば....(泣)

時間とはもっとも貴重なもの、贅沢品です。

贅沢品を英語で言えばLuxury ラグジュアリーといいます。

Luxとは光を意味しますね。

光は太陽が与えてくれています。


太陽といえば、

「最近曇りとか雪ばかりで、もっと晴れてくれないと洗濯物が乾かない」

とか、「太陽光発電で、エコに」

などなど、ついつい損得、経済に結びつけて考えてしまうかもしれませんね。


昔の人はきっと違っていたように思います。

太陽といえば、ありがたいなあ、と感じていたので、お天道さまに手を合わせる、

ということは日常にあったのではないでしょうか。

日本昔ばなしの世界です。

太陽、光はありがたいもの、つまり贅沢品だったのです。Luxury、ラグジュアリーです。

お天道さまという言葉も、そこには太陽と空、その道、太陽の動き、季節、という意味が含まれています。

自然は贅沢品で、全てを与えてくれるもの、植物を育て、動物を育てる、ありがたいもの。

そして、時には台風や嵐や大雪、災害をおこして、命も全てを奪うもの、そして新しい命を与えるものでもありました。

私たちはこのような贅沢品をいただいたとき、

その時だけは感謝します。

自転車が初めて家に来た時。

なんて素敵なモノが内に来てくれたのだろうと大喜びしました。

でも、いつの間にか当たり前になっていきます。いつの間にか必需品へと変わります。

なければ困る。と言います。

車が初めて家に来た時、大喜びです。パパもママも子供も。

でも、いつの間にかそれは必需品へと変わります。

車が故障でもしようものならば、メンテナンスを怠ったパパに非難が集まります。

携帯電話が来た時、なんと贅沢なものだろうと思ったものです。

でも、いまや無い人は社会から外れている、というくらい必需品へと変わりました。

スマートフォンを持つこと。贅沢品だったのが、きっと今年中には必需品へと変わります。

彼氏ができたとき、大喜びして、結婚して旦那になってしばらくすると

どうなっていますか??.......(笑)


私たちは贅沢品、LuxuryをLuxuryとしておくことが、なかなかできません。

贅沢品 Luxuryを必需品 Necessitiesに変えてしまいます。

モノは必ず壊れたり、失われたり、ふるくなったりしていきます。

ですから必需品はいつも新しくする必要が出てきます。

必需品が壊れたりすれば、必ずストレスになります。

やがて必需品に振り回されるようになります。

必需品のために、稼ぎを増やさなければいけません。

老後のために貯金も必需品です。ですから貯金を増やさなけばいけません。

こうして必需品のために人生の大半は費やされることになります。


わたしたちは自分の人生をもっと自分自身のために費やす「必要」があるのではないでしょうか?

その必需品は本当に必需品ですか?

そこから気づいていくことがたくさんあります。

この必需品は実は贅沢品ではなかったでしょうか?

ありがたい、と感謝すべきものではなかったでしょうか?



私たちは自然の絶妙なバランスの中でしか生きることのできない、命です。

貴重な命、それを育む自然、エネルギーを頂いておきながら、

これらを無尽蔵にあると勘違いしていきます。

地球や宇宙を使い果たしていこうとしています。

ニュースの続報を見ていると、日本の大雪は大災害になりそうな勢いだとか。

一方で、インドでは場所にもよるでしょうが、雨が降るときに降らず、

この地でも今月は2回しか雨がない、といいます。

水道から出る水は日本のように出ることはなく、

チョロチョロと出てくるだけ。

蛇口をひねると水が出ることは贅沢なことなのだなぁとしみじみと気づきます。


Luxury 贅沢品を必需品 Necessitiesとして受け取るのではなく、

Luxury、贅沢品というのはなかなか得がたいこと、つまり「有り難い」こと、

有り難いものを有り難いものとして受け取ること。

あるがままのものを、あるがまま受け取ること。

この感性と考えにいたる過程こそが、心の成長だと思うのです。



と、ここまで読んでいただいて、

ありがとうございます(笑)