2012年11月23日金曜日

ポジティブ・シンキング② エゴ


また、前回のブログから時間が経ってしまいました。

ぐぐぐ。

ポジティブシンキングもネガティブシンキングも同じところから始まっている、

という話をしてみたかったのです。

自分は苦しみたくない、悲しみたくない、だから明るく上を向いて行こう!

(他人を押しのけででも上へ行こう!)

がポジティブシンキング。

自分は能力がない、自分を信じられない、だから下を向いていくしかなかろう

(失敗して傷つくのが怖いから、最初から下を目指していこう)

がネガティブシンキング。

どちらにも潜んでいるのが、自分に対する評価であり、

その評価は世界と比べてちっぽけである、ということ。

この評価をしているのが「エゴ」さんです。自我のことです。



エゴは、Egoと英語で書きますね。英語での発音はイーゴウと聞こえますが、

「エゴ」と日本では読んでます。

エゴによって苦しみが生まれる、といいますよね。



エゴについてはたくさんの書物があり、小説があり、解釈があります。

東洋では基本的にエゴは普通は悪者です。

エゴをなくそう、エゴはつまり煩悩であり、煩悩はなくしていくものです。

西洋ではエゴはどちらかといえば、アイデンティティというニュアンスがあるかもしれませんね。





ヴェーダーンタにおいては、エゴはいいも悪いもなく、かなり心理学的なニュアンスです。



ヨーガやヴェーダーンタでは、エゴ、自我のことをアハンカーラと言います。

アハンというのは「私」ということ。

カーラというのはKr(クル)という語源、行いという言葉が元になっています。

カルマ(行いとその結果)と同じ語源です。

アハンカーラは「私が行い手である」という認識をしている内部器官(アンタッカラナ)です。

内部器官には考えの他に感覚器官などがあります。

感覚器官も考えも、見えないけれど、わたしたちの大事な道具です。




この考えの道具には4つあるといいます。


1つ目はチッタ(チッタム)。

 すべての考えのもとになる記憶です。

 記憶あるいは潜在記憶にせよ、記憶がなければ、なにも考えは生まれません。

 今の私がしたことを覚えていなければ、明日どうすればいいのかわかりません。

 子どもの時の記憶がなければ、親のことも、教育も、自分の名前さえわかりません。

 記憶は大事な考えの基本です。



2つ目はマナス、考えです。

 この考えとは揺れ動いている考えのことです。

 ですので、感情や思い悩んでいる考え、想像しては揺れる考えです。

 揺れ動くので、大変なときもあります。悩みはそうですよね。

 また揺れ動くので、楽しさでもあります。恋愛とかそうですよね。

 好きとか嫌いとか、そういった考えは揺れ動き、それを追い求めたりします。


3つ目はブッディ、知性です。

 この考えは、動かないしっかりとした土台となった考えです。

 2×3=6という考えは幼稚園までは記憶されていないでしょう。

 小学校に上がってから自分の中で揺れ動く考えの中で整理され、

 さらに繰り返し学ぶことで知性に変わります。


4つ目が今回の主人公、アハンカーラです。

 自我です。「わたし」が行い手であるという考えです。

 
この4つがどのように働くかを見ていきます。

まず私は感覚器官を使って、五感を使って、この五感から情報を得ていきます。

すべては五感から始まります。

逆に言えば、ニンゲンはどのようにさかさまにひっくりかえっても

まずこの五感以外から情報を得ることはできません。


アインシュタインは時間や空間やエネルギーについて

見たことも触ったこともないのに、大事な情報を見つけ出しました。

五感以外から、つまり直感で導き出した、ともいえます。

けれども、やはりこの考えも五感がベースです。

数学もまずは五感からです。

1+1=2から始まります。

ここにリンゴが1個あって、そこにもリンゴが一個あって、あわせるといくつですか?

視覚や触覚や嗅覚、はたまた味覚、あるいは聴覚まで使って、このリンゴがある、

と認識し、そして数学が始まります。

その積み重ねが、数学であり、相対性理論にも、量子力学にもつながっています。


五感から得た情報が、飛び込んできた時、過去の情報と照らし合わせます。

チッタム=記憶に問い合わせるのですね。

コンピューターで言えば、ハードディスクに記録されている書類を検索するわけです。

でてきた答えから、例えば

「あ、あれはヘビだ」

という認識が起こります。

そこで、マナス=マインドが「嫌だ」と反応します。

マナスの反応に対して、最後にアハンカーラ=自我が

私はヘビを見た。私はヘビが嫌い! 私はヘビから逃げよう!」

という意思が働き、行動に変えるのです。


最後の考え、アハンカーラの働き、どうでしょう?

危険なヘビから逃げる選択をしました。

アハンカーラは

これを見る限りでは、問題はありませんよね。


このアハンカーラの働きの中で、もっとも強いエネルギーを持つもの……

それは「好き」と「嫌い」です!

好きと嫌いはセットです。いつも一緒で、コインのウラ・オモテです。

アハンカーラ、つまり「わたし」においての一番目立つ仕事はこの「スキ・キライ」です。

記憶も、五感も、知性も、そこにはただただ現実を見ていく機能があります。

もちろん過ちも含まれますが、それでもその人にとっての真実です。

けれども、感情と一緒になったアハンカーラ、

つまり「スキ・キライ」は人生を大きく変えるほどの強力なエネルギーを持つのです。




2012年10月22日月曜日

Vedanta Camp at Yoga-do-tsuchi

チェータナ先生の月一度のヴェーダーンタキャンプが

ここ、ヨーガ堂・土-tsuchi-で行われました。

ヴェーダーンタの入門書となる

『タットヴァ・ボーダ』の今年出版されたスワミ・ダヤナンダジの本をテキストにして

連続して行なっているこのヴェーダーンタキャンプ。

たしか今回で4回目になります。

いろんな人のチカラが働いて、そのおかげで神戸大学や大阪市内で開催されてきましたが、

この10月11月は、「土」でどうでしょうか?

とお声がかかって、来ていただくことになったのです。

とってもありがたいことです。

ホンモノのヴェーダーンタを初めて伝えていただいたチェータナ先生と、

こうして縁がつながってきたことは、奇跡的な感じがします。

思えば、2年前、広島ヨガピースの実行委員の方に、

「大阪はなぜかヴェーダーンタをされる方が少ないです。

大阪でもチェータナ先生を呼んで

ヴェーダーンタクラスをしてください」、と言われたことがありました。

その時にはチェータナ先生には挨拶しただけ。まだまだ畏れ多くて、

「そんなことができたらいいなぁ」とぼんやり思っただけだったのですが、


こうして、思いがけず自然にそういう形になったことが素晴らしいです。


参加者は15名。

ヴェーダーンタに少し触れたことのある方、ヴェーダーンタ初心者も多く見受けられた

今回のキャンプですが、チェータナ先生はその初めての方にも分かるように、

丁寧に、かつ大胆、スピーディーに進められました。

タットヴァボーダの最初の祈りの言葉をまず丁寧に解説していただきました。



  ヴァースデーヴァというのは先生のことです。先生とは、そのまた先生がいて、

  そして最後はイーシュワラ=宇宙の意識のことになります。


  人はすべて「知っていること」=記憶を100%見ています。

  もし記憶がなかったら、このクラスにいる人が男の人か、女の人がいる、

  ということすらわからなくなります。

  男や女や壁、というのを知っているので、そこに意味を見ます。

  例えば夢は100%自分の記憶です。記憶の中の山や私が出てきます。

  夢に登場するものはすべてが記憶です。

  起きている時、見ているものはすべて昔の記憶です。
  
  ただの空気の振動の羅列、音の羅列でも「あ」「さ」「が」「お」という音を出せば、

  そこに「あさがお」の花を浮かべます。意味が頭の中に輝きます。

  音と、意味がつながっている記憶があるからです。

  数学というのは誰もが同じ結論を出せる客観的な知識ですが、  

  もし、「1+1=3」と記憶していたらどうなるでしょう?

  八百屋さんに行って、いつも喧嘩することになるでしょう(笑)。

  間違った記憶があるとき、そこには混乱があります。

  子供の頃、兄弟がいて、私だけが親から認められていない、という記憶があればどうでしょう。

  いま、私は会社の中で、どうしても上司とぶつかってしまう、

  上司から周りから認められていない、と思ってしまうかもしれません。

  子どものころの記憶の中に、似たようなことがあるのかもしれません。

  私たちは記憶に閉じ込められています。

  ヴェーダは正しい知識、イーシュワラを教えてくれます。

  間違ったことを訂正してくれるのが聖典なのです。

  この人生においての自分の見え方が正しくなれば、

  考えにゆとりが生まれます。そして、それが、

  ムムクシュ、真実を知りたい人、自由を知りたい人、モクシャを知りたい人

  つまりアディカーリーになり、この人生においてリラックスが生まれるのです。



何度も聞いているお話なのですが、今回、おー、という感動がありました。

座学、本当に地面に座って聞く形はインドの修行場、アシュラムと同じ感覚です。

さらにみなさんがヨーガ、ヴェーダーンタ、に対する尊重の気持ち、

先生に対する尊敬があふれていて、それがきっと教えに集中できて

理解が深まり、気持ちよかったのです。





食事はヴェジカレーとだいすけさん、まきさんご夫婦が作って下さったサラダとピクルス。

皆で輪になって食べる食事はとってもおいしかった。

たくさんのお菓子もみなさんから持ってきていただき、持ち帰れないほどでした。

はじめて手作りのお菓子を作って下さった方もいらして、胸がジーンとしました。



先生のクラスは、4つの資質、そしてシャマについての解説に入って行きました。

ここで感覚器官、五感は考えによって支えられている、

という言葉の説明のところで、ポットの喩え話が出て来ました。


この手に持っているのはなんでしょうか。ポット、です。 
でもその本質は「土」です。 
「ポット」のうしろに「土」があります。 
ポットを見ると、土は隠れたように見えますが、本当は少しも隠れてはいません。 
ポットは土から生まれて、現在も土で、そして落として割ってしまっても土です。 
ずっと土です。 
ですから、わたしが持っているものは「土」です。 
ポットは壊れますが、土は壊すことができません。

ポットは土ですが、土はポットである、とは言えません。 
土はポットを装うことができます。 
もし土がなければ、ポットは成り立ちません。 
ポットだけを取り出すことはできません。 
土に触らずにポットに触ろうとしても無理です。 
ポットは土によって支えられています。 

感覚器官は考えによって支えられています。 
考えがなければ、記憶がなければ、音はただの振動です。 
あれは虫の声だ、という風にはわかりません。 
盲目の人が、はじめて目を開ける人は色の記憶が無いので、ただの色の波です。 
それが何かを識別できないのです。 
さらに考えは意識によって支えられています。 


この土もよく見てみれば、原子ですし、素粒子です。 
すべてのこの世界は素粒子ですが、科学ではここまでです。  
ヴェーダーンタではこの素粒子もすべては意識である、といいます。

チェータナ先生の授業はスワミ・ダヤナンダジのクラスのように笑いもたくさんありました。

感動もあり、涙もあった人もいたんではないでしょうか。

最後に先生が「とてもやりやすかったです」とおっしゃっていただけたのが、

本当にうれしかったです。


遠くからわざわざみなさん来ていただいて、ありがとうございました。





2012年10月16日火曜日

ポジティブ・シンキング

今日は新月です。

何かをはじめるにはいい時です。

浄化にもいいです。

浄化するということは、汚れているということでもあります。

汚れ、ってなんでしょうね。

汚れって、自然じゃないということです。

私たちの服に土がついていると汚れ、になります。

自然じゃないですから。

でも、登山をしていて、服に土がついてしまうのは、汚れではありません。

とっても自然なことだから。


草木が土で汚れている、ということはありません。

土にあるのが自然ですから。

ココロの汚れというのもありますよね。

それも自然との関連だと思います。

自然なココロを持っているか、そこがココロの清らかさ、ということでしょう。






パソコンで入力していて、変換ミスというのが時々起こります。例えば、

「いぬげみけのいちぞく」。

実際には、そんな単語を打つことはないでしょうが、もしあるとすれば、

ここでは、「犬神家の一族」と打ちたい。

(あ、年代によっては、もはや知らない言葉になっているか…)

けれども、

「犬が三毛の一族」

と変換されることはありえますよね(笑)。

このままだと、ミステリーがナンセンス漫画くらいに変わってしまい、

まるで意味が通じません。

パソコンで起こる変換ミスですが、

わたしたちの心のなかでもたくさんの変換ミスが起こっています。

もちろん、わざとではないけれど、無意識的におこっています。



今回は、脳内でおきる変換ミスの、その犯人について探求してみます。




たとえば、先日はこんなことがありました。


いま書いているブログですが、基本的には気楽につらつらと書いてしまっています。

また、ブログを書いていることすら忘れていることがあります。

更新が長いのはそのせいですね。

9月はとうとう一つもブログを書きませんでした。

ところが先日、ブログを見た、という方がいらっしゃいました。

これはすごいことです。天然記念物の発見くらい稀なことです。

そのかたは、目をキラキラさせて(……これも僕の変換ミスかもしれませんが)

「先生のブログ、好きです」

とおっしゃいました。


ブログを見た、といわれることがほとんどありませんから、

それだけでも頭の中に「!?」マークが飛び、

「ブログってなんだっけ?」と疑問が起こり、

さらに、おもしろいことに、脳内では「ブログ」という単語をすっ飛ばしてしまっていました。

ということは、どういうことになるかというと、

「先生好きです」

という言葉になります(笑)。つまり変換ミスです。



この場合は、ポジティブ型の変換ミスですね。


少しのポジティブ型は明るくて楽しいかもしれません。

都合の悪いことも良いように変換されます。

根がポジティブですから自分をいいようにとらえます。





では、反対にネガティブ型変換ミスならば、どうでしょう?



「先生のブログ、好きです」と言われての変換ミスは、どういうのがあるでしょう。


「ブログはいいけれど、実際喋るとあまり話が面白くないですね」

といったネガティブ変換がありえますよね(笑)。

「話が面白く無い上に、長くて疲れた、なんだか残念」

なんていう複雑変換をすれば、もうボロボロです(笑)

ネガティブ変換も多発すると、どんなに周りがその人を励まそうが、

いいところを褒めちぎろうが、ダメです。

どうせ自分は価値がないんだ、と思い込んでしまうのです。

ネガティブ性は、周りを引きずり込んで疲れさせます。




そんなわけで、ネガティブと違って、ポジティブ型変換のほうは、

前向きで、上昇志向でいいじゃない、

とおもわれるかもしれません。

ポジティブ・シンキング、という言葉が20年くらい前に出てきた時、

とても画期的だな、と思った記憶があります。



が、ここにも実は問題が勃発します。


ポジティブとは自分を肯定することです。

肯定、はよさそうですけれど、その中身は、

とにかく現実はどうであれ、間違っていてもOKということです。

ともすると、悪いことを振り返ることがありません。

調子に乗ってしまうと、現実とのギャップが広がっていきます。

いよいよ、ひどくなれば、

「私は人から認められているカリスマ、

私は他人を幸せにしてあげているのだ。」

なんていうふうに事実をねじ曲げてしまうことにもなりかねません。


そうはいっても、ポジティブは実に気持ちがいいものです。気持ちが上に上がれますから。

「アゲ」という言葉は今はあまり聞きませんが、今も気持ちは上げようと思っているでしょう。

私は上に立っていて、他の人は下にいる。

この状態、社会ではたくさん見受けられます。

上にいるほうが、眺めもいいし、気持ちがいい。

だから、上に行きたい。上昇したい。


でも、どうでしょう?

ヨーガとして見てみれば、一体本当は何が上で、何が下なのか。よく見なければいけないのです。

何において上があり、下があるのか。

上と下とは、空間において、重力が働いている時に起こる言葉です。

それは物理的に、また心理的にもおこります。

例えば、お金持ちは貧乏の人の上にいるような感じです。

学歴、大学の上があり、下があるような感じ。

文化レベルが高いと思っている地域があり、そうでないと思われている地域があり、

与える人は上にいて、もらう人は下にいる。




けれども、すべての人にとってその上下の価値観が大事であるとは限りません。

ある人は高級品の服を着ていることが自分の価値を高めると考えます。

その人には世界にひとつだけのお母さん手作りの着古した服を理解できないかもしれません。

ある人は大学のランク、そして仕事の役職に価値を持つと考えます。

その人は代々伝わるおばあちゃんの智慧に価値を持たないかもしれません。

食事が人生において幸せの源泉である、と考える人には、

断食の清々しさを知る人を恐れるかもしれません。

新しいものが好きな人、古いものが好きな人。

学問、文学、美術、音楽、演劇が好きな人、サブカルチャーが好きな人。

占いが好きな人。科学が好きな人、嫌いな人……。

家にいることが好きな人。旅を続けるのが好きな人。………





そもそも本当にそれが上下になっているでしょうか?

上や下ってしっかりした基準があるでしょうか?



例えば、

すべての人は母から生まれてきました。平等に。

すべての人は水を飲み、食物をいただいて命をいただいています。

すべての人はこの空間の中の空気の中に住んでいて、平等です。

すべての人はこの水の惑星、土の惑星、地球上の上では平等です。上も下もありません。

すべての人はいま、ここ、つまりこの宇宙の中において平等です。

すべての人はその宇宙から学んできました。自然の智慧として。

いま、その豊かな資源を、お金として、学力として、文化として、受け取る事ができます。

そのチャンスに恵まれた人が上に見えるかもしれません。

でも、自然の前においては、すべての人は平等です。

すべての人は死の前において平等です。だれも死から逃れることはできません。

上や下にいると思っていても、人生においてすべては平等のなかにあることがわかります。





ポジティブもネガティブも、上と下の認識について狭い範囲において、でしかありません。

大きな視野に立てば、本当は勘違いです。





さてさて、話を戻しましょう。

勘違いの話でした。

さきほどの「好きです」と変換してしまった、

つまり、ポジティブ型間違い変換をしたのは誰か、を考えてみましょう。

ですが、長くなってきたので、次回に


2012年8月20日月曜日

「これでいいのだ」

うだるように暑かったり、雷と雨がどかどかと落ちてきたり、

夜にはこの茨木の山手では、厚手の布団でないと眠れないくらい寒くなったり、

不思議な天気なのです。

そのうち、西から昇ったお日さまが見られるかもしれません。

西から昇ったお日さまといえば、元祖天才バカボンのテーマソングです。

もはやバカボンを知らない世代も多いかもしれませんが……

……と強引な枕ではじめるひさしぶりのブログです。すいません。


バカボンの意味っておもしろいんですよ。

ヴェーダーンタとか、ヴェーダに関係しているのです。

バカボンという言葉は、バガヴァーンというサンスクリット語が由来だといいます。

このバガヴァーン、

バガを持つものという意味です。

バカを持っているのではなく(笑)

バガです。どちらも濁音になってます。

バガとは6つの能力があることです。

①ニャーナ……全知 ありとあらゆる知識 (ジニャーナですが、最初のジはほとんど発音されません)

②バイラーギャ……執着がないこと。公平さ

③ヴィールヤ………宇宙創造・維持・破壊のチカラ

④ヤシャス…………究極の名声(知られないことがないということ)

⑤シュリー…………ありとあらゆる富と資源

⑥アイシュヴァルヤ……絶対的な君主、統治


ちなみに、バカボンのパパは生まれる時に「天上天下唯我独尊」と言ったそうです。

この言葉はお釈迦様が生まれた時に発した言葉ですよね。


「全世界で私が一番尊い」という意味です。

Wikipediaによれば

元来、「天上天下唯我独尊」は、釈迦が言ったのではない。釈迦以前に出世したといわれる過去七仏の第1仏である毘婆尸仏(びばし)が誕生した際に言った



のだそうです。知らなかった。

お釈迦様はインドではヴィシュヌ神の生まれ変わりだといわれます。

ヴィシュヌ神は維持の神さまで、時代が混乱した時にはその次代の要請、祈りによって

人間として現れるといいます。

世界3大叙事詩の1つとされる。『ラーマーヤナ』と並ぶインド2大叙事詩の1つである

『マハーバーラタ』の中心の章にバガヴァッド・ギーターというストーリー&聖典があります。

ここに登場するクリシュナもヴィシュヌ神の生まれ変わりです。

バガヴァッドとは、「バガヴァーンの」という意味で、

このバガヴァッド・ギーターとはごくごく簡単に訳せば『神の歌』という意味です。

で、そこにはヨーガ、ヴェーダーンタが書かれてあります。


このお話を簡単に言えば……

世界を2つに分ける戦争の物語で、その中での主人公であるアルジュナは、

戦いが今から始まる、というときに、眼の前にいる敵の中に、

自分の尊敬する先生やおじさん、

子供の頃からの友人、何の罪もない庶民たちがいて、

戦いによって、その生命が失われていくことに絶望し、どうしたら良いのか、

なにが本当の幸せなのか、ほんとうの人生の意味とは

ヨーガとはなにか?ヨーガが目指しているものは?ということを

馭者であるクリシュナ(ヴィシュヌ神)に教えを請うていく、というお話です。




馭者のクリシュナがバガヴァーンであるということを、うすうすアルジュナは知っていました。

なので、戦争が始まる前にクリシュナに一番自分の近くにいてくれる馭者を頼むことにしたのです。

そうして、戦う準備万端になったところなのに、敵を目の前にして

「わたしの尊敬する先生を殺すならば、

この世界で体験するものはすべて血に染まったものになるでしょう。

わたしが私はあなたの生徒です。どうか私に教えてください」、と

がっくりと膝をつき、武器を落とし、戦意を喪失してしまいます。



♪……左の人 右の人 ……きっと繋がってるから



(チェータナ先生は……全世界の人が見ているメジャーリーグの野球中継で、

だれもが固唾を飲んで、ピッチャーの投げる第一球を見守っている中、

「あ、いま、ピッチャーががっくりと膝を落として涙を流しました!」 と

実況中継されている場面と例えています)




ここから、クリシュナとして現れているバガヴァーンはヴェーダーンタを教えはじめます。

ここからのクリシュナの言葉は怒涛のようです。

その教えこそ……

あなたは移り変わっていく体ではありません、移り変わっていく心ではありません。

それを見ている意識です。

永遠の存在です。悲しみも苦しみも見ているわたし、その意識こそ本当のわたしです。

悲しみや苦しみ、喜びに対して冷静になりなさい。しっかりとした分析と判断をしなさい。

ただしい知識を身に着けなさい。

どんな不幸であっても、あなたはそれを見ている意識であり、

不滅で、永遠で、喜びである意識です。





ちなみにバガヴァーンという言葉を赤塚不二夫氏に教えたのが、

交友のあったインド哲学者、宗教学者の中村元(はじめ)先生だとか、

なので、バカボンの弟は「はじめちゃん」。

でも、ふと考えたのです。

バカボンがバガヴァーンであれば、

バカボンのパパはバガヴァーンを生み出した意識、

ブラフマンなのかな?

バカボンのママはマーヤー(宇宙を生み出したチカラ=シャクティ)で、

はじめちゃんは、物質宇宙?ということになります。


「これでいいのだ」とバカボンのパパ=ブラフマンが言ったならば、その意味は、

すべてはありのままであり、そのありのままこそ、あなたであり、

意識であり、永遠で、変化もしない、満たされている愛そのものです。


という意味になります。



ナンセンス漫画である、元祖天才バカボンですが、

センスたっぷりですよね。




2012年7月8日日曜日

ヒッグス粒子とヴェーダーンタ


いきなりですが、ヒッグス粒子が発見かと言われてますね。

昔から宇宙のこととか、それを知るための量子力学とか、大好きなんです。

子供の頃、宇宙の始まりとか、その前とか、時間のこととか、タイムマシンのこととか、

そんな本をよく読んでいました。


いま宇宙物理学はこれ以上分けられないものを必死になって見つけようとしています。

ヒッグス粒子もそのひとつです。

それが見つかれば、どうなるか?

この宇宙がわかり、この自分がわかり、この世界の不思議が分かるといいます。

宇宙の不思議、って、たくさんあるのですが、

たとえば、この宇宙の星々を全部集めたところで、全宇宙の重さの0.5%にしかなりません。

あとわかっているのは、漂っている原子などで、それを合わせても5%だとか。

理論的に予想されているのが、暗黒物質で、やっと25%近くだそうです。

暗黒物質は、発見されていないだけで、物質のようなものらしいのですが、

残りの75%を占めているという暗黒エネルギーはかなり不思議だそうです。

(暗黒だからといって、悪の帝国というわけでも、お化け屋敷のようなこわいものではないとおもいます)

宇宙が今、変化して、広がっています。広がると星々の間には空間ができます。

星の濃度が薄まっている、ということです。

例えば、風船を膨らましていけば、ゴムに書いてある絵とかは伸びてその色は薄まっていきますが、

暗黒エネルギーは、その濃度とか、なにも変化しなくて、

偏在、どこにも平均してあるものらしいですよ。

つまり、ゴム風船の絵の色が薄まらないのですって。

いまここにもわたしの中に暗黒エネルギーはあるのかもしれませんよ。



ところで、原子のことをアトムといいますよね。

鉄腕アトムのネーミングの元になったものです。

Atomonと書くらしいです。


Atomonはこれ以上分けられないという意味で、古代ギリシャのデモクリトスが名付けたそうです。



いま、こうしてヴェーダーンタを勉強していて、このことが

なんと!

と驚くことになるとは。



古代インドのヴェーダ(古代の知識体)の世界で、これ以上分けられないもの、

をAtoman アートマンと言います。

Atomonとそっくり、というか、一緒ですよね。


ヴェーダで、アートマンとはこの「わたし」のことを指します。

ヴェーダーンタの最重要課題です。

このわたしが分かれば、世界がわかるのです。


ヴェーダンタと宇宙物理学は、これ以上分けられないものを探している、

という点で、一致しています。名前まで一致しています。

物理学はアトムは最後ではなくて、さらに原子核があって、量子があって、素粒子があったり

なので、アトムの発見が最終ではなくなりました。

素粒子だって、最後じゃなさそうですしね。



ヴェーダーンタのほうは、いち早く、結論を見つけているということでは、大先輩ですね。

2012年6月8日金曜日

ココロのチカラ

昨年から指圧の勉強をしています。

いつしか、もうすぐ一年が経つんです。


タオ指圧というのですけれども、

これがまさにヴェーダであり、

ヴェーダーンタです。



普通、「指圧」といえば、体にツボがあって、そのツボを親指で押す。

そうですよね?

けれども、タオ指圧では違います。

ツボは固定されたものではないといいます。

だからツボはその場所を物理的に見ても位置がわかりません。

ツボは身体上にはないからです。

ツボがあるけれど、目には見えない、五感ではとらえられない気の体にあり、

それが施術者の気に反応して、肉体の場所として「現れます」。



なんですと!というのがまず最初の驚き。


京都・小塩山の谷筋ルート。プラーナ充満中


しかも肉体的チカラで押すのではなく、

①気と②精神的チカラと③瞑想的チカラで圧します。

①気はヨーガではプラーナといいます。

体の動きと気持ちの動きをシンクロさせて、

気を充満させます。

②精神的、というのはイメージ、心のことです。

相手の痛みを知るということ。

それを癒したいと望むこと。

思いやりを持つということです。

③瞑想的というのは、

自分自身が本当は肉体でもなく、

気の体でもないということ。

本当の自分というのは宇宙の根源であるということを理解するということです。


ひゃあ~、まさにヴェーダーンタですよね。すごい。


肉体を通して、エネルギーの体(気の体、元気とかです)

そして微かな体(感覚や考え、記憶など=スークシュマシャリーラ)に対して圧します。

しかも、圧すときには、

肉体的なチカラを10とすると、

90は「タオ心」あるいは「如来」と呼んでいる瞑想状態の心で圧すのです。

ヨーガで言えば、イーシュワラと繋がったココロのチカラとプラーナで圧します。


言うは易しで、これが難しい!!

何度も試行錯誤して、できなくて疲れてきます。

そうしていると、いつしかスッと入るときがあります。入神、入心というのかな。

瞑想的になって、気が充満して、肩の力が抜けたとき。

そうしたら、受け手の方が

「いま、すごい来てます!」と反応してくれます。

力で圧すよりも受け手は深く深く、強く感じるといいます。

つまり、自然と同化しているとき、自然の力が現れる、と言えばイメージしやすいでしょうか?


ヨーガ的に言えば、

肉体的エネルギーはそれほど強いものではなく、

ブラフマン(宇宙の根本・意識)を知っている人は、

根源的エネルギー、イーシュワラのチカラを

肉体を通して、プラーナ、そして微かな体、スークスマシャリーラに直接届けることができる、

ということです。あ、難しい表現?

届けられたら相手も自分も「うれしい!しあわせ!」が現れます。


その時、疲労感はありません。施術者は疲れず、逆に充実します。



ほんとうです。

2012年5月27日日曜日

帰って来ました

インド、Ootyのバラ園です
インドから帰って来てちょうどひと月経ちました。

ブログはなんと2ヶ月ぶりぐらいですか..........

投げっぱなしの内容ですいません。

スワミジ・ダヤナンダジの講座はその後大団円を向かえ、

もしかすると、そのままヴェーダンタ一年コースに参加してしまうか!

という勢いまでありましたが、

アーユルヴェーダのトリートメントを受けたりしながら

少し考えた結果、今まで溜め込んだ教えをみなさんとシェアしていくことに決めました。

それが今日のヨーガ堂・土-tsuchi-での半日講習・講座の、Yoga Days。

スワミジたちの素敵な言葉の数々、自分たちの胸の中に響いている教えを

曲げることなく届けられているといいです。

2012年3月21日水曜日

幸せってなんだっけ

私は誰なのか、と問いかけた時、
私は幸せになりたい人です。
と答えることができるかもしれません。

すべての人は、幸せを望んでいます。

苦しみを望んでいる人はいるでしょうか。
仕事や勉強は苦しいけれど、楽しい、ということもあります。苦痛を望む人も中にはいるかもしれませんが、その人だって、なにか苦痛のようなものを得ることで、幸せを感じるのだとおもいます。
誰でも苦しみは望んではいないことは明らかです。

さらに、苦しみでいつづけることはできるでしょうか。
誰にもできません。

なぜなら、苦しみは、自然の性質、法則とは異なっているからです。
苦しみは人にとっても、動物にとっても、植物にとっても、望まれない不自然なことなのです。

昨日、リシケシの川沿いのお寺で、おばあさんが寝転がっている牛に対して布を何度も何度も振り回しているのをみました。
最初、それは何かの儀式なのかとおもいましたが、よく見てみると、その牛の後脚をギブスのように石膏が覆っていました。
その牛は後脚が折れていたのです。
牛にはハエがたくさんたかっていました。
おばあさんはそのハエを追い払おうとしていたのです。
布を振り回すとハエが逃げていきます。けれどもすぐにまた牛のところにハエがたかります。
なので、おばあさんはまたショールを振るのです。
牛は苦しんでいました。
誰だって苦しいのがいやです。
それが不自然だからです。
だから、おばあさんはその苦しみを取り除きたいとおもいました。

その姿を見ていて、胸が詰まって涙がでそうになりました。
見ているぼくも苦しいのが不自然なのです。


さて、さて、
幸せはどこにあるのでしょうか。
幸せを探して見ましょう。

たとえば、美味しいごはんを食べると幸せです。
そして満足します。
わたしは、このごはんに幸せがあった、と思いました。

そこで、もっと幸せになりたいとおもいました。
さらに食べようとします。

そうすると、お腹を空かせていないので、さっきのような幸せはありません。

なぜでしょう。

ごはんに幸せがあったと思ったのですが、ごはんには幸せはなかったのです!

ごはんに幸せがあったらば、いつでもどんな時でも、幸せなはずです。でも、それは状況によるようです。
みんな外側に幸せを見つけようとします。
素敵な服を買った時は幸せです。
でも、同じ服を2枚買っても嬉しくないし、同じ服を友達が着ていて、かぶったばあいは、なんだか最悪になったりします。
あるいはお金を得て、幸せ探しの旅にでます。彼氏を見つけるかもしれません。そのときは最高に幸せです。
そして喧嘩をしてなんでこんな人にあってしまったんだ、と運命を嘆きます。

あるいは、インドに行けば、グルがいて幸せを運んでくれるはず、と出かけます。
そこで、瞑想をして、スピリチュアル体験を得て幸せを感じますが、体験は過ぎ去ってしまうので、またもや不幸になるのです。

そんな風に、なにか自分の外側にある、何かの対象Objectには幸せがあるように見えていますが、そこにはありません。

では、逆のことも考えて見ましょう。
お腹が空いていて、
でも先ほどのようにごはんは手に入らないとします。
お腹が空いているので、わたしは幸せではありません。
苦しみでいっぱいになるかもしれません。
でもぼくはふと思い出しました。
あるメロディです。
「♬シャーンター カーラン、ガ、ガ、ナ、サドリ、シャーン♬」
スワミジのお得意なキュートな歌です。サドリ、シャーンというときに手先が斜め45度の角度で天へと向かいます(笑)

思い出して笑ったとき、その時、幸せでした。
お腹が空いているにもかかわらず、外側の状況は何ひとつ変わらないのに、
幸せはありました。

このとき、スワミジの歌がきっかけということは、心に残る記憶が幸せの源だったのでしょうか。

そう見えてしまうので、
幸せは心の状態である、
と言いたくなります。

これは、ほんとうでしょうか。
Yesであり、NOです。

こころをよく見てみると、こころはいつも移り変わる波のようです。
あるときは喜び、あるときは悲しみ、あるときは怒ります。
記憶からも感情が起こります。
このように移り変わるものをどうやって自分は見ることができるのでしょうか。
変わって行くものをみるときは定点観測が必要です。
スカイツリーの建設中はいつまでも同じように見えました。けれども、ある場所、一点を決めて、そこから同じ時間に写真を撮影していけば、スカイツリーが成長してく姿がわかります。
そのような映像を見たことがありますよね。

同じように、移り変わらないしっかりとした土台に自分がいないと、動き回る心を見ることはできません。

別の例えがあります。
川に流されている人が、助かるためには、動いていない岸に捕まる必要があります。しがみついたものが同じく流され溺れかかっているクマさんだったら、ちょっと助かりません。

動き回るココロObjectを見る土台、流されるココロがつかまる岸が必要です。

その土台こそ、私=Subject=I am=存在=意識です。


さきほどの幸せはどこからやってきたのでしょうか?

お腹が空いているという状況は言い換えると、私には限界があるということです。

わたしたちにはいつでも限界があります。
この限界があるわたしを受け入れたとき、
あるいはその限界のあるわたしを忘れているとき、
自分の本質である、存在=意識そのものが現れるのです。
どこから現れるのでしょう。
もともとあったのです!

I am Happy.
といいます。が、
Food is Happy.
Music is Happy.
とはいいません。
食べ物や音楽に幸せがあるわけではないからです。

こころがどのような形であろうとも、I am=存在=意識はいつでも輝いています。

意識がこころに輝いていないとき、人は眠くなったりします。寝てしまうと人は自分と世界を分ける限界を失って、幸せでいます。
寝るのが嫌いな人がいないのはそういうわけです。

逆に意識は、こころに反射して喜びとして光るときがあります。

これが幸せなときです。

わたしたちはその反射する光がどこからきたのか見えていないので、ごはんからやってきた、とか歌からやってきた、とか、映画からやってきた、とか考えます。


つまり、
こころは、私の意識によって、輝いて、幸せそのものになっていたのです。


では、私の意識から幸せがやってきたみたいですが、本当は私の意識と幸せは二つと別れていはいません。

意識と幸せはひとつです。
わたしたちの本質は意識であり、そして幸せなのです。
このことをヴェーダーンタでは、
私というのは、
sat=cit=ananda
である。
といいます。
存在=意識=限りなく満ち足りている
という意味です。
限りがないので、
幸せなのです。


すべての人はその本質において、限りはありません。
限りがあるのは、カラダやココロなど形あるもの、名前と意味です。
限りがある記憶力とか、判断力とか、性格とか、経済力や権力。わたしの美貌や体力、年齢にも限界があります。

幸せは歩いてこない、
だから歩いてゆくんだよ。
といいます。

けれども、見てきたように、
このとき、
私は誰、というところで見間違っているです。
なにを見間違っているか、わたしは、ココロやカラダではないということです。わたしは社会的位置や状況ではありません。

なので、どこか外に幸せがあって、そこからやってくる、とかそこへ歩いて行くわけのではないのです。自分の外側には幸せはありません。
幸せは自分の中にあるのです。
どのような状況のもとにも幸せは自分の中にあります。

苦しみは自分にとって不自然でしたが、幸せであることはいつでもいつまでもそうであり続けることができます。そのことは、わたしたちにとって最も自然なことです。

でも、そうはいっても、
いまわたしは幸せではないです。
というかもしれません。

私が属性を持つ自分であるとき、
I am a student.
I am a woman.
I am a office waker.
……
わたしはこの時、後ろのいろいろ変わる属性=名前と意味になっています。
ひとつの属性=名前と意味を持つと、別の属性=名前と意味とは区別されています。限界が現れます。
わたしが学生であるとき、先生ではありません。休みは日曜日だけになったりします。これも限界です。
この時、I am を忘れています。
わたしはこれらの名前の限界を忘れている時、
わたしの存在そのものに戻っています。
I am は最初からあったのに、
忘れていたのです。
わたしが学生であるとか、先生であるとか、子供であるとか、女性であるとか、借金があるとか、病気があるとか、悩んでいるとか、そういった限界を忘れている時、

大笑いしている時、
音楽に感動しているとき、
大自然の中で、大地や空や星と一緒になっているとき、
みんなで苦しみを乗り越えたとき、
自分の名前と意味、属性の限界はそこにはなくなります。
そのとき、自分は自分の存在そのものに戻っています。

自分が自分の存在そのもののであることは、
いつでも、
いまも、
どこでも、
ここでも、
離れることはできないはずです。

つまり、
わたしたちは
いつも存在=意識=幸せ
なのです。

すごいですね。
そして、すごい長い文章ですね(笑)

2012年3月20日火曜日

自分を再発見する Aham asmi

ヴェーダーンタは自分を再発見させてくれる教えです。

その教えは物理学や生物学や心理学など科学的な分野も、哲学的分野も含んでいますが、それらを超えてしまうので、科学的には確かめようがなくなります。

だから、ヨーガやヴェーダーンタは科学ではありませんとプージャー・スワミ・ダヤーナンダは言います。

ぼくはヨーガは科学です、と聞いていましたし、そういう風に人にも言っていたこともあります。

けれどもスワミジが言うように、よく見てみれば

「科学はすべてこの世界を理解できる」というのは幻想です。

科学はいつも変化し続けています。昨日の答えは、今日の答えとは違います。
かつては肉と魚をたくさん食べないと健康にはなれないよ、と言われました。いまでは穀物と野菜、でも今の野菜は栄養価が低くなってきたので、時にはサプリメントをとりなさいといいます。バナナがいいよとか、カカオが、いいよとか。テレビでも言ってますよね。でも、次の日には変わるのです。

かつては空間と時間は絶対的でした。

しかし、アインシュタインは空間も時間も物質もエネルギーも相対的であることを見つけました。
光の速度で移動すれば、空間はゆがんで、移動している人は時間の進み具合が遅くなるのです。
もし、自分の子供を地球に置いて、
光の速度で移動して地球に帰ってくれば、
なんと、その子供がお年寄りになって自分より年上になっていて、ひ孫と同じ歳ということが起こるのです。

さらに、現在の科学者は、科学が世界を理解したくてもほとんどわからないことを、よく理解しています。
この宇宙は理解できないことばかりであることを。

ダークマターとかダークなんとかとか、宇宙の物質のほとんどは、説明しようとしても、わけが分からないことが、わかってきています。
そして、これを書いている私も、読んでいる人も、わけが分からなくなっています(笑)

さて、話を戻したいです(笑)


私自身がわかればどんなことがあるのでしょうか。

その教えを理解出来れば、とてもメリットがあります。
そうでなければ、
学ぶ理由が、なくなります。
勉強して、落ち込んだなら、インドにくることはありません。

ヴェーダーンタを本当の意味で理解できれば、メリットがあるのです。

私は私自身とともにいて、
自由でリラックスできるのです。
いつでも、いつまでも。

では、この私について観察してみる旅にでます。
普通の旅は距離と時間があって、目的地にエネルギーをつかって到達しますが、
自分への旅は距離も時間も必要ありません。
さらに目的地は一番近いところ、一歩も動かない、ここです。
つまり、いま、ここに答えはあるので、なにもインドに行く必要はありません。
ぼくは別ですが(笑)

普段、私たちは、自分の中心を観察することはありません。
観察することなしに、自分は自分だとわかっています。

自分は自分を見失いません。
よく考えてみれば、
これはすごいことです。

中には、
私は、自分を見失ってばかりです

という10年くらい前のぼくみたいな人もいます(笑)

しかし、その人はどうして「私」とわかるのでしょう。
記憶喪失の人でも、
「私は記憶を失った」という「私」がいます。

誰に教えられなくても、
「私は存在する」のです。

私は存在する、ということをヴェーダーンタではひとつの公式としてサンスクリット語で、こういいます。
Aham Asmi
英語でいえば、
I am
です。

ところで、あなたは誰ですか? Who are you?
と聞かれたら、なんと答えますか?

私は会社員です。
とか、ヨーガの先生です。とか、
私は日本人です。とか、
私は主婦です。とか、
そんなふうに生物学的属性とか、社会的属性とか、何に属しているか、ということを答えます。

私は会社員です。と答えたあなたは会社員なのでしょうか?
もしあなたが上司に聞けば私は部下です。夫に聞けば私は妻です。
子供に聞けばお母さんです。
友達に聞けば、大学の友人です。
家の隣の人に聞けば、お隣さんです。
あなたのお母さんにあった時、私は誰?と聞いてみたら、
「あなたは、私の娘だよ」という前に、
いよいよ「なにをいい出したんだろうね。仕事のしすぎでおかしくなったのかしら」

と病院に連れていかれて、そこで、もう大丈夫ですよ、あなたは患者です、と言われるかもしれませんね。

本当に私とはいったい誰でしょう。
私はそれらのたくさんの名前を持つ人なのでしょうか?

わたしはそれらのたくさんの名前を持つ人も含んでいて、それらを超えています。

I am a woman.

I am a student.

I am a worker.

I am wife.

I am your mother.

に共通するものは、

I amです。

つまり、
私はある。
私は存在
です。

私はある、というとき、
そこには私=意識があります。
そしてI amのうしろに付いている student, mother, workerなどの名前はなにかに属しているということ、つまり属性です。述語です。
たとえば、私は子供です。ということはありますが、子供といえばあなたのことを指すわけではありません。
あなたは属性を持つことはありますが、その属性はあなたではないのです。
本当のあなたは
I am
私はある。
私はある、というとき、
そこには私=意識があります。
この意識があなたの本質です。

そのうしろにつく言葉は、わたしの意識によって輝いている、ひとつの言葉と意味です。

その名前と意味は私=意識によって輝いていますが、
時間が経てば移り変わるような波のようなものです。

私はこの身体です。というとき、
私=意識はこの身体を輝かせています。そして時間と空間のなかでうつりかわっていきます。
意識はいつもその身体を輝かせて、存在を支えていますが、
カラダも生態系の一部で、循環し、代謝して移り変わっています。

身体中の細胞は7年で入れ替わってしまうと言います。毎日水分を2リットル以上とって、排出して、酸素を取り入れて二酸化炭素を排出しています。

さらに、長い期間で見れば、身体は親から受け継いで、いただいたものであり、親もさらにその親にもらったものです。

子供が生まれたら、自分のカラダはその子供に受け継がれていくのです。

このカラダは、まるで流れる川の波の一つのようです。


たとえば、わたしは学生ですが、
学生はわたしである、と言えないように、
わたしはこの身体を持ちますが、
一瞬一瞬移り変わるこの身体は、私の意識が宿る場所であり、わたしではないのです。

わたしのカラダはこの瞬間に現れた一つの波なのです。

 

さらに、話は続きますが、また今度です。

 

2012年3月12日月曜日

バンダーラ……プンニャ、徳を積む

スワミ・ダヤーナンダがいらっしゃっている期間は、バンダーラ、サドゥ(修行者)のための施しがよくおこなわれます。

 

サドゥはだいたいがオレンジ色の布をまとっていて、髪の毛がちぢれてうず高くもりあげている人がいたり、中にはドラゴンボールの亀仙人のようにかっこいいサングラスをかけた爺ちゃんもいたりします。

足が不自由な人もいれば、バイクで二人乗りで乗り付けるサドゥも、携帯電話を持つヒトもいます。一人ひとりがかなりキャラクターが濃い。


さて、これらのサドゥが150〜250人一堂に、庭に数列になった敷物に座ります。

時間がくるといっせいに男の人たちがご飯や野菜炒め、豆スープ、水などを入れたバケツと、

おたまを片手に、前に置かれた皿にそのごはんを入れていきます。
その時、おたまは決して皿に触れないというのがルールで、

ぼくも一度、触れてしまって注意されました。
しかしこれが難しい! 片手のバケツは重いし、上から落とすと汁が飛び散って、

ほらほらこぼれるじゃん、的な舌打ちされたりして(笑)


それから一人ひとりにお布施が配られます。

100〜300ルピー(日本でいえば1000円から3000円くらいの価値は充分あります)が

渡されていきますから、全体で相当なお金です。

 


ご飯を食べ終わると、なんというか感謝の歌のような、

それぞれ神の歌をうたいます。そして、掛け声と共にエイサーっと立ち上がって帰っていきます。

 


これらのご飯やお布施は全部寄付で成り立っています。最低限10万円くらいからでできます。

先日はパラヴィッディヤー・ケンドラムと日本人の生徒たちとで合わせて、バンダーラを行いました。

なんだかうれしかったです。


スワミジがおられる時は、寄付が多いので、バンダーラが多いといいます。


サドゥに寄付するというのは、最高に得を積むことになるそうです。

 

それは、サドゥたちが大事な叡智を社会のために残しているからです。


プンニャ、日本でいえば「徳を積む」ことになるという考え方は、

日本よりもずっと多い気がするのです。


たとえば、アシュラム(修行のお寺)はすべてが寄付によって運営されています。


たとえば食事はホワイトボードに「本日 昼ごはん、チェンナイのだれだれさん寄付」と書いてあります。


団地のように並んでいる宿泊施設も寄付によって造られ、

講義を受けているホールも寄付です。

 

ここにやってくる人たちは、自分の懐具合に合わせて、

寄付をして、宿泊したり、授業に参加します。

 

3年コースの勉強もありますが、これも寄付です。

 

お金がなければ、なしでいいし、あればあるだけ出せばいいのです。


そこにはプレッシャーはありません。

 


寄付にプレッシャーがあったら、それは「支払い」です。

 

忘れていた頃やってくるカードの支払いの請求書を見た時の額の汗、

そのような汗はアシュラムでは不要です(笑)


また、アシュラムで、なにか商売をしているようなそんなことは見たことはありません。

 

本とか写真とかは売っていますが、

日本のお寺のように、

たくさんのお守りがあったり、

 

戒名いくらとか、

葬儀宗教なんてことは言われないのです。

お墓もないのです。

 


本当は、これはとても自然な感じがしませんか?

 

 

 

2012年3月4日日曜日

スワミ・ダヤーナンダ 2


スワミジの今回のキャンプは、申し込みが、とくに今年は多くて入りきりませんでした。

もっとも多いインドの人たちはだいたいはリタイヤしているような熟年層だとおもいます。
その次に多いのは、はっきりわかりませんが、ブラジル人かな? 海外からのひとたちは、30台前後のヨーガの先生たちもいます。

スワミジの講義は難しい話を、ごくごくシンプルに話ししてくれます。
時には、いえ、いつもですが、笑いあり涙あり感動もあります。
乗ってくると歌も歌います。

先日は歌の掛け合いになりましたが、メロディの複雑さと絶妙さは、
「日本の歌手で言ったら…」
ぼくは、桑田佳祐だと思いましたが、nanaさんは、「北島三郎と思った」(笑)

たとえ話は物語であったり、
スワミジの経験であったり、
スワミジの勝手な作り話であったりします。
伏線を引っ張ってあったり、
最後にオチがあるところなどは、大阪人としては「う〜ん」と唸って、
たまらないものがあります。

ぼくたちは、
「国宝の落語家やね」と言ってます。
本当は国を超えて、地球の宝です。
落語家ならば、
桂米朝さんというよりは(前回のブログでも米朝さんがでてきましたね(^_-)、
桂枝雀さんで、
テンポはじゃじゃ丸(とnanaさんは言いますが、わかりません。笑)、
動物でいえばクマさんのような感じですか、
余計わかりませんね。

ぼくたちは、このようなスワミジ、先生を持つことができて、
とても幸せな時代だとおもいます。

ヴェーダーンタを教えてくれている先生なのですが、
さて、このヴェーダーンタってなに?
と思いますよね。このブログでもあまり説明してなかったかもしれません。

ひょっとすると、世界のあるひとつの国インドの、
そのまた、古いお話しのひとつであって、
好きな人だけが学ぶような、
あるいはヨーガを勉強する人だけが必要な、
遠い哲学話だと思うかもしれません。

けれども、ヴェーダーンタはインドのお話ではない、といいます。
かつては古い文明があって、地球上ではその教えを共有していたといいます。
ヴェーダーンタを、英語で、しかも混乱や間違いなく、教えてくれる先生は、スワミ・ダヤーナンダしかいないと聞きました。

現在はそのお弟子さんがたくさんいますが、すごいことです。
その世界への貢献は、シャンカラチャリアに匹敵するといいます。
シャンカラチャリアは誰に匹敵するかは、難しいですが、
桂米朝さんに匹敵するといってはちょっと違うような気がします。
でも米朝さんあって上方落語が復興したことを思えば、日本ではすごいお方ですよね。

そのヴェーダーンタとはなんでしょうか?
スワミ・ダヤーナンダはこう言います。
ヴェーダーンタとはセルフ・ナリッジ、
自分自身への理解であると。
さらにこういう風にも言います。
ヴェーダーンタは「なにであるか」である、と。
この自分とは何であるか!?(・_・;?、
この世界とは何であるか( ? _ ? )。
この二つの理解であると。
そして、面白いことに、ヴェーダーンタは哲学ではないといいます。
哲学はたとえ話(客体)を使って、証明をしようとするけれども、
たとえ話(客体)には必ず、その逆のたとえ話が出てくるので、覆されてしまう。(議論のための議論ができてしまいますよね)

ヴェーダーンタは自分自身についての理解であるから、
最終的には例えることができない、自分自身を見つめること。つまり、主体そのものを直接知ることになる。
そのため、議論ではなく、瞑想が必要になることを言っています。

実は、
このヴェーダーンタ。
インドでも風前の灯火、
といってもいいかもしれません。
どこの国でもそうですが、
頭の良い若者は、今の主流である方向
コンピューターとか、
金融とか
スマートな生き方に行きますから、
伝統は廃れて行く一方です。

ましてや日本では
チェータナ先生が2009年にダヤーナンダジを日本に連れてきて頂いてから、
始まったといっても良いのです。

大学でも、ヴェーダーンタを教えてくれるのですが、
それは混乱した状態の、学術的研究としての内容になっていて、
スッキリと整理されていないといいます。

ダヤーナンダジのヴェーダーンタは、
伝統そのものです。
しかも、現代人の教育に合わせて、言葉を選んで語ってくれます。
科学となんの矛盾も起こさず、
逆に最先端の科学こそ、ヴェーダーンタを学ぶ方が
この世界の理解につながる知恵のかたまりといえます。
なので隣に座っている人が、
ハーバード大学教授であったり、
脳科学の先生であったり、
とある国の大統領であったり、
はたまた流れ着いた旅人であったり、
もともとは食べ物を恵んでもらうためだけにやってきたニセモノ修行者であったりします。
チェータナ先生の同級生は、
3年コースの後、国連に就職しています。
先日のスカイプクラスでは、ヴェーダーンタの大切な聖典である
バガヴァッドギーター(ガンジーの愛読書でもありましたね)
には、世界の問題の解決があることを教えて頂きました。
いや本当、とっても地味な静かなアシュラムなのですが、
この地球の未来にまで広がる
とっても素晴らしい教え、
Vedanta
がここにあるのです。

2012年2月26日日曜日

スワミ・ダヤーナンダ

24日からスワミ・ダヤーナンダジによるヴェーダーンタの英語キャンプが全4回1ヶ月強にわたって行われています。

今年は特に多く、世界中から250人(休み期間になると、450人になるとか)がこられるそうで、
比較的小さめなこのアシュラムが人で溢れかえってきます。

ダヤーナンダジといえば、インドでは国賓です。

インド伝統のなかの伝統であるヴェーダの、さらに最高の教えとなるヴェーダーンタを、

英語でしっかりと世界にまで伝えることができる第一人者であり、世界各国でクラスを開催してきました。

日本でいえば人間国宝でしょうか。

落語界でいえば桂米朝さんのようなものです(^o^)。

米朝さんは年に何回も講演会が行われることはなく、桂一門で支え合っての講演会がありますが、
こちらの人間国宝は、3年半のヴェーダーンタコースを開催して、そのうちの
7割ほどの講義はスワミ直々だそうです。

スワミは82歳の御歳、
持病も抱えているにもかかわらず、
毎日、3時間以上もの講義をされるのですね。さらに、夜にはサットサンガ、質疑応答などが1時間。

ありえない。
すごい。

そんなスワミに、日本人のみんなで直接お会いすることができました。
チェータナ先生のおかげです。

ヴェーダーンタは世界中に広まっているとおもいますか?と質問したら、

広まっているよ、
特に日本人にね、とおっしゃっていました。

日本人は真面目で成績優秀で、仏教の下地があるからヴェーダーンタが浸透しやすいとのこと。

ヴェーダーンタでは人はそして個人は本質的には完全である、と教えていますが、

キリスト強やイスラム教では罪人である、つまり不完全であると教えている部分があるので(それも神秘主義になると逆転しますが)、

ヴェーダーンタやヨーガはなかなか掴んでもらいにくいのです。

他の人の質問で、
日本が津波にあって、放射能にまみれて、そんな中、どうすれば人々を助けることができるでしょうか?
という質問が僕たちの仲間から出たのですが、
だれかを助けようとした時には、自分が小さければ、助けられない。
自分が溺れてしまっては、相手も死んでしまう。
大きければ、助けられます。
自分が大きくなりたければ、成長しなければならない。
勉強しなさい、ヴェーダーンタがあなたの力に、
そして世界中のチカラになります。

といったことをおっしゃってくれました。(ちょっとうろ覚え。間違っていたら、すいません)

存在感に圧倒された~、青いオーラが見えた~といってた人がいました。

ぼくにはオーラは見えなかったけれど、ダライ・ラマ師と似た印象がしました。

真実のみを語る人は、大自然と同じだな。と思ったのです。

今日も夕方、ダヤーナンダジの近くに座ったのですが、ぼくの眉間と頭のてっぺんがポワーンと暖かくなって、しかも明らかにスワミから暖かいものがやってきました(=^ェ^=)

2012年2月18日土曜日

リシケシ

インドに着いてからインターネットをつなげる時間がなく、始めてのブログになります。
今はリシケシ、ヨーガを学ぶ人にとっては聖地というべきところです。今いる寺院からガンジス川の対岸に石で組んだかまくらのようなものがあって、そこでビートルズが瞑想したんだよ、と聞きました。何度も来ているリシケシですが、知らないことが多いです。
さて、この場所、ダヤナンダアシュラムはリシケシの中心、ラムジュラ橋より南に数キロのところにある、市街地に近いアシュラム(寺院)です。目の前にガンジス川の流れがあって、最高のロケーション。ガンジス川って、インド三大神シヴァの髪の毛から流れ出す神の川です。水も今の時期は青くて雪解け水で冷たくて気持ちいいです。あ、今のこちらの気温は朝5時で10度くらいかな?日中は20〜25度くらい。太陽のしたにいると汗ばみますが、早朝のプージャ(お祈り)はフリースとか、ダウンジャケットが欲しくなります。
さて、昨日でチェータナ先生によるバガヴァッドギーター第6章の瞑想クラスが終わりました。昨年の広島キャンプでスワミに教えていただいたことをまた深く勉強させていただきました。
深い深い、クリシュナによるヨーガの教え。そしてそれをしっかり勉強して始めてヨーガスートラが分かってくるんです。サマーディも本当によく理解できました。なんだか遠くて自分には関係のないような到達地点としてサマーディを見ていたのですが、順番に理解して、自分の考えに定着させていくことでヨーガはどんな人にも成長を与えてくれるのだとおもいました。
ヨーガによって考えの整理がついた時、ヴェーダーンタが始まるといいます。むかしむかし、でもブッダよりもあとの時代にシャンカラチャーリアという聖者がガンジス川のほとりで弟子たちにヴェーダーンタを教え、その伝統がいまここにつながっています。
一度だけでしたが、いつものクラスをガンジス川を眺める屋上で行いました。あまりのすてきさに涙が出そうでした。

2012年1月13日金曜日

The power of yoga

新年のご挨拶をしていませんでした。

この年が素晴らしい年になるようにという願いを込めて、


どうか、すべての苦しみがなくなりますように。

すべてが満たされていることに気づきますように。

平和でありますように。






先日、闘病でやせ細った義理の叔父に気功的なマッサージをしました。

まだまだぼくには誰かを癒すほどの訓練ができていないのですが、

それでもエネルギーが回りだすのを本人も、まわりも驚いていました。

ヨーガをしていてよかったです。


そして、今日、ヨーガ堂・土の講師、nanaがインドへと無事旅立ちました。

出発する今日も二人で、命について深く感じていたこのごろなのですが、

この日の夕方、縁のある人が若くして突然亡くなったことを聞きました。

助けになれなかったこと、

どうすればよかったのかを考えています。



私達の限りある時間、どのように生きていくかについて、

どうすれば、私たちは生きることを意味あるものにできるのか、について、

あるいは、私たちが生きることには意味があるのか、

私たちの本当に望んでいること、

について、今、考えるのです。




むかし、

本当の私ってなんだろうか?

そんなことを実際にあちこち探してまわったことがあります。

もう、何年も昔のことなのですが、

その時は、

「私らしいってなんだろうか」「私らしい写真を撮りたい」

と思って1年7ヶ月海外を放浪したのです。


今から思えば、、「自分探しの旅」ってやつですか。

なんだか恥ずかしい!



思い返せば

小学生1年ですでに、私自身というものが、

どうやら社会との折り合いをつけるのが大変だということに気づいていました。

高校生になると、自分自身が発している毒のようなものに

やられそうになって、タバコとお酒を飲むことを覚えました。


そういうものがあれば、自分のことを考えなくて済んだからです。

そのころになると、自分自身が大嫌いでした。

社会人になってからは、とにかく仕事に追われていることで、

そして結婚をして、誰かに頼られる存在であることを目指していました。


仕事はある程度できるようになりました。

結婚生活でもいい旦那を演じることもできるようになったのです。


けれども根本的には、ずっと自分は世界から必要とされている実感がなかったのです。

いつも自分は大切なものではありませんでした。

しかし、あるとき「機が熟した」のでしょう。

人や仕事の出会いの中で

自分と、自分の周りにある世界が嘘だということに気づいてしまいました。

真実を知ってしまうと、ガラガラと音を立てて自分と世界が崩れていったのです。


リアルな世界を知りたくて

出かけて行きました。




2001年の6月、ぼくは香港から中国:雲南を経由して

外国人立入禁止区域を友達とかいくぐってチベットへ向かいました。

ラサから西チベットのカイラス山へと出発する数日前に、911のテロがあり、

ジェット機と戦車がパキスタン国境へと向かう姿を見ました。

カイラス山を断念してネパール行きへと変更。

インドからはアフリカへ飛んで、ケニア、ウガンダ、タンザニア、

エチオピア、スーダン、エジプト、

中東、ヨルダン、シリアからトルコ、そしてふたたびインドへ。

「私らしい」ということはいったい何なのか探してみました。

アフリカの灼熱のエチオピアの奥地で見つけたものは、

自分の命のはかなさであったり、

身体感覚の境界線の違い(また機会があれば書いてみます)に驚いたりしました。

インドでダライ・ラマ法皇のそばで読経三昧に明け暮れていた時に見つけたものは、

私は何も知らない、ということであったり、

とにかく、私以外の、私の外側にある世界の素晴らしさに圧倒され続けていました。

本当に「私」はあるのか。



旅の途中でであった友人が浜辺でしていたアーサナが素晴らしく印象的だったから、

旅の最後にインドに舞い戻ってヨーガをはじめました。

そして、ヨーガは考えていた以上に答え、真実を見せてくれました。

この素晴らしい世界と、

素晴らしくないこの私は、決して離れていないこと。

ヨーガの力は、感覚を通じて、カラダに入り込んできました。


もし、誰かがくるしんでいたならば、

ぼくはまずヨーガをおすすめします。

僕自身がヨーガによって救われたから。

ヨーガは身体を使います。

そして思考を見つめていきます。

さらに世界を見つけていきます。


ブログでは次回こそ「セルフ」、

自分自身の発見について書きたいと思います。



ところで、今年はすべてが変わる年、となんだか思っています。

物質的な世界から、かすかな世界へと価値が転換する年だと思っています。



どうか、すべての苦しみがなくなりますように。

すべての暗闇が真実の光に照らされますように。

すべてが満たされている。そのことが見えてきますように。