2011年11月9日水曜日

かすかな体に耳をすませば3_考えの始まり


私とは誰か、という疑問ですが、まだまだ続いています。

「わたし」というのはいつも大問題ですから……(笑)



この体は、道具として利用しているけれど、

「私」はこの体ではないという話をしました。

この体は、もともとは、親からのDNAが受け継がれているものです。

私が創ったわけではありません。

そして、外から入ってくる空気や食べ物がこの体を作り出しています。

私がこの材料を集めているわけでもないのです。

私の臓器や器官や、細胞は自分の意志とは関係なく、毎日、毎瞬間にさまざまな働きをしてくれて、

この体を維持してくれています。

私は、少しは意思を働かせて、ガンバレこの体!と奮起したりしますが、

「私」には関係なく、この体はうまくデザインされ、驚異的な機能を、有機的につながりを持って

恒常性を持ちながら、自動的にうまく働かせてくれています。


外界と体は交流し、代謝し、巡っています。

これは、動物や植物とも同じ、自然界のシステムそのものです。

体は、ひとつの個、「私」では収まりきりません。

生命は、生態系の中に組み込まれているのです。


それはそれで不思議な話ですが、

ここでは、「私」というアイデアにこそ焦点を当てていきます。


私がこの体ではなかったら、私の「考え」こそ、「私」なのでしょうか?

考えは、「かすかな体」=スークシュマ・シャリーラとヨーガでは言います。


このかすかな体、考えの始まりを見て行きましょう。

私たちは、生まれるまではすべての世界がひとつでした。

お母さんのお腹の中では「おかあさんといっしょ」でした。

世界が一つであるという知識はありませんでしたが、

ただ一つでありました。

考えはあまりにも繊細で、はかなく、生まれては散っていきます。

記憶に残ることも少なく、潜在意識の奥底に沈んでいきます。



考えがおこるためには、そのもとがあります。

考えが起こるためには、情報をキャッチする能力が必要です。

まったくの刺激がなければ、考えも起きないのです。

光もない、音もない、温度もない、味もない、匂いもない所に一人ぼっちで取り残された時、

変化もないので、時間もなければ、空間もなくなるでしょう。

自分が目を開けているかもわからなければ、

自分の体を触っても何も感じなければ、自分はいません。考えもないのです。

インプットされる情報がないところには、思考もなく、存在もない。

私たちは今、存在しています。

存在している所に輝いているのが、この私たちの優れたセンサーである五感覚器官です。

耳で聴覚がおこります。

肌で触感がおこります。

舌で味覚がおこります。

鼻で嗅覚がおこり、

目で視覚が起こります。


その五感が働くので、手足などの運動器官も働きます。

見えている何かに向かって手を動かしてみて、触ってみて、

匂いを嗅いだりして、情報をキャッチします。


太陽の光に熱を感じ、風に香りを見つけて、

自然の恩恵を思考によって見つけることができて、微笑むのです。


お母さんのお腹の中から生まれてきた赤ちゃんは、

一つの世界から、感覚器官を使って分離をはじめます。

痛みがある、痛みがない。

心地よさを与えてくれる人がいる、。

高い声の優しい感じがお母さんとこのわたし。

低い声のどっしりしたお父さんとこのわたし。

おじいちゃんとおばあちゃん。

この部屋。隣の部屋。

私のうちと、おとなりの家。


このようにして、分別、モノゴトを分けていく力

つまり分別、物事を分けるチカラ、知識が生まれました。


赤ちゃんはその情報について、最初は何かはわかりません。

暖かさと柔らかさと、ミルクがあり、目の前で動いているものと声が、

自分を守ってくれるもので、安心を与えてくれるもの。

それがお母さんだということを五感で知ります。

五感を使って、と普通に言いますが、

そこにある質感は、目や耳や肌や鼻、

舌を顕微鏡で徹底的に分解しても見つかりません。

脳を分解しても見つかりません。

ある種の電気信号や神経伝達物質は見つけることはできますが、

そこには車が走った後のタイヤの跡が残っているだけのように、

飛行機が飛んだ後の飛行機雲が残るように、

思考の影があるだけで、実体は見つからないでしょう。


見つからない、けれどもしっかりと存在している。これがかすかな体ということです。

ヨーガでは、この五感も、考え、思考の一つとして分類されます。



さて、これらの五感があることによって、考える器官が活性化するところを見ます。


生まれたての赤ちゃんには、新鮮な感覚があります。それこそが生命感です。

赤ちゃんには深い考えはないけれど、感覚、生命に満ちあふれています。

生命は出来る限り生き抜いていこうというエネルギーです。

そこで、生命が維持できないと知ると信号が発せられます。

痛みが起こります。

そこで生命のひとつであるお母さんは、まったくの自然に赤ちゃんを救おうとするのです。

おなかがすいたと泣くと、お母さんは授乳します。

そうするとお腹が満たされて心地よい感覚になります。

うんちをしておしりが気持ちが悪いと泣くと、お母さんはオムツを変えます。

そこで、赤ちゃんには自分には心地よい感覚と、苦しみという感覚があることを知ります。


ここまでは感覚の世界です。

植物や動物にも通じる生命感です。


そして様々な感覚の出来事を通じて、様々な記憶を刻むようになります。

さらにかすかな考えの始まり。考えの元素です。

赤ちゃんはまだまだ記憶の量が少ないですよね。

記憶という考えの元素は少ないのですが、

それが一定以上増えてくると、思い出すことをはじめます。

これが心地よかった。前にもあったな、と気づきます。

これが気持ち悪かった。これも前にもあったな、と分かってきます。

そうして、ここから「過去」が始まるのです。



過去の記憶が始まると、その過去の中での結果も思い出されます。

とっても苦しいからとっても泣いていたら、

あのここち良いことを与えてくれる人=お母さんがやってきて、

この苦しみを取り除いてくれた。

という過去があれば、今お腹空いていることも、

泣くことで、この苦しみを取り除けるに違いない、という「未来」の予測もはじまります。

つまり、過去が始まれば、予測が起こり、未来も始まります。

時間の始まりです。

時間が始まって、そして「私」が始まるのでしょうか……つづきます