2011年8月27日土曜日

讃岐うどん3 : 私はこの肉体ではない

讃岐うどんヨーガと題して
なんだか、話がどんどんとすすみます。
饂飩ですから、話も太く伸びます。
腰もあって、うまい。はず。笑
さて、さて、


セルフって、気軽。
セルフって、自由。
セルフって、本場。


この讃岐うどんのキャッチコピーの言葉によって、遠いところまでやって来ました。

自分たちの行き方は①安全②喜び③ダルマ=宇宙の法則、他との協調性④モークシャ=完全な自由を求めていくということがわかってきました。

モークシャ:完全な自由を求めていくとき、
この時、自分という定義自体が、今までの考え方とは異なります。



いままでは、
「自分」はこの「体」でした。
そして、この自分という「気持ち」があります、気分があり、元となる気、エネルギー、つまり元気があります。
自分というエネルギーです。
そして、自分という「意識」があります。
「体」と「エネルギー」と「意識」が、
「この私こそ、私である」、と宣言していますが、
この私の定義は果たして、本当に私なのでしょうか。

まず物質的な自分を見てみましょう。

この体は私です。
そうではないでしょうか。

私の体は、私である。という定義がありますが、

このことは全くの勝手な思い込みである。

そんなことを今回は見ていきますね。




まず、肉体はどのようにして生まれてきたでしょうか。

学校では、私たちはお母さんの卵子にお父さんの精子がくっついて、受精したいことによって始まったと学びました。二人分のDNAがひとつに組み合わさったのです。
DNAレベルでは私は受精によって始まったということです。

お父さんお母さんを、私は選択できたのか……という謎があります。
私にも、たぶん、みなさんにもわからないですね。
だからこの私の体の始まりは、「私」が始めたのかどうかは謎だということが解りました。

そして、DNAの情報量は30億対塩基、75メガバイトと言われます。
頭が痛くなるような数字です。どえらい複雑さです。
1か0かのデジタルデータみたいな組み合わせて30億の数があるということです。


そこからタンパク質ができたりする情報が必要らしく、情報はもっともっと必要になるようです。
DNAだけでは、人間はできないらしいです。

これらの肉体の「私」はこの設計にたずさわりましたか?
正直言って、この私の体のDNAの設計については私は知らないです。
みなさんも、自分のDNAの設計をしてきた、という人は一人もいないと思います。
つまり、私の体の設計は、私以外のなにかが始めたということが解りました。

さらに、時間が過ぎていくと自分の起源がわかるでしょうか。

お母さんの胎盤に張り付いた受精卵。細胞はまだひとつから2つ、4つ、8つとわかれたひとつの生命の卵のようなものです。

この細胞たちは増えていきます。
そして人間の形となります。

私の始まりは、なんだかまだよくわかりません。

ところで、細胞たちが増えていくためのエネルギー、栄養などはどこから来ましたか?

栄養は母の胎盤から注ぎ込まれました。
へその緒を通じて、外とつながって、エネルギーが来たのです。
そのエネルギーは私でしょうか。
元は母のエネルギーです。
母のエネルギーは、その元は、食べ物でした。
その食べ物のエネルギーはどこから来たでしょうか。
大地と水と太陽から来ました。

生まれてきてからは、私たちは食べ物を通じて、エネルギーを補給して細胞分裂を繰り返して大きく成長してきました。
エネルギーをいただいて、自分は成長してきました。


最終的には外界に出てくるようになります。
おぎゃあと泣いて、どうでしょうか、「私」は始まりましたか?

生まれてきてからの、別の側面を見てみましょう。

私は食べ物を補給します。

食べ物を口に入れた途端に、その食べ物は自分になるのでしょうか。
町で昇華されて吸収して血液に流れた時でしょうか?
息を吸い入れたとき、どこから自分の酸素と言うのでしょう?
血液に入ってから? 肺に入ってから? 口に入ってから? 眼の前の植物から酸素が出てきた時から?

私にとって一番重要な栄養素である酸素がどこから自分の酸素ということになるのでしょう。



あるいは、物質が出ていくところを見てみます。

排泄した瞬間にどこからその自分は自分でなくなるのでしょうか。

口から出た二酸化炭素はもはや自分ではないですか?
あるいは自分の尿はもはや自分ではない?
自分が出した二酸化炭素はもはや自分ではない?


肉体の始まりにおいては、決して自分独自では設計もできなければ、
設計変更もないし、父でもなければ、母でもない設計者がいるようです。
自分の考えではひとつも成り立たないことがわかりました。

その設計を考えたのが私でなければ、誰が作ったのでしょうか。
わたしが作ってもいないのに、このわたしはあるのでしょうか?
不思議なことです。

映画をつくるときには監督がいます。
その映画はやっぱり、その監督の作品だといいます。

この体という作品は、
監督が自分ではないということがわかっています。
そうすると、この体は自分の作品ではありません。


肉体の成長において、酸素や水、食物などの栄養やエネルギーなどが自分の中に取り込まれていきますが、どこからが自分のエネルギーと言えるかもはっきりしていません。出ていくときも自分から自分でなくなる瞬間はわかりません。
今現在においても物質的なこの体は、どこから自分で、どこから外界となるのか、あるいは、自分の内部にある大量の菌、乳酸菌とかいろんな菌が腸内にはいます。細胞ひとつひとつの中には、ミトコンドリアという共生者がいるのですが、これらは自分なのでしょうか。あるいは、自分とは違うのでしょうか。


私は、私が作ったのでもなければ、私がコントロールできるものでもない
私という境界線すら曖昧なのです。


このことは、つまり、
自分の肉体は、自分ではない、と言えます。
仮に「自分の体」と名付けて、勝手に使っているだけだと言えます。

この肉体を自分が所有しているかもしれませんが、
自分が車を所有しているように、
自分の乗り物として、この肉体があるのです。
つまり、
私はこの肉体ではありません。
私はこの肉体の所有者ではあるけれど、私はこの肉体ではないのです。

話は続きます……

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