2011年8月26日金曜日

讃岐うどんヨーガ2 : モークシャについて

前々回に讃岐うどんヨーガと題して書いてみましたが。
そのうどんの中身については、なにもお伝えしてませんでした。

讃岐うどんがヨーガなわけはないでしょ!
というツッコミ。そこが大事です。

讃岐うどんやさんにあったキャッチフレーズこそ大事です。

セルフって、気軽。

セルフって、自由。

セルフって、本場。


このことについて、勝手な説をいろいろと展開してみようと思います。

さて、ヨーガとは   (アタ ヨーガ-……ヨーガスートラの始まりですね)
何だったでしょうか。

ヨーガはyuj、繋げるというのが語源でした。
何と何を繋げるのかというと、
まずは、片方に自分があります。
そして、自分は①安全であること。
自分は生き延びていきたいという存在であることは間違いありません。

そして、次の目標があります。
②喜び
私は喜びが欲しいのです。生きているだけではモノ足りません。
楽しいことが大事です。

その次に出てくるのは、③ダルマ=周りの人や環境とのつながり、関係性の中での豊かさです。
すべての環境との調和がとれた行き方、ダルマ(自然の法則、義務)の行き方です。
人を傷つけたり、環境を汚したりせず、他人を救ったり、環境の豊かさの手助けになるような生き方です。

安全や喜びを求めていく行き方は、子供でも、動物でも、ひょっとすると植物にもある生き方です。
けれども、ダルマ=調和を生きて行く選択、これは人が成長してきた先にやっとのこと出てくる生き方です。

ダルマは宇宙の法則や宇宙の義務という言葉に訳されることが多いのですが、もし最小限な言葉で言ってしまえば「慈しみ」ということかもしれません。
自分への思いやりと、他のものに対する共感性をもって自分と他とを大切にするということです。
このダルマについてどのように勉強すればいいでしょうか。

人間の脳の研究において発見されたことは、
人は、共感する能力がある、そういう機能を持つ脳の機能があるということです。

つまり、人は幸いなことにこのダルマを自然にプログラミングされて知っているということです。

誰もが、どんな悪人であろうと、どんな争いをしていても、人の痛みを自分の痛みとして感じる力があります。慈しみの心を持っているのです。だから、犯罪者であろうと、本当は知っているのです。自分が人を傷つけたこと。そしてそのことで自分が傷ついていることを。
そうでなければ、その人は病んでいるということになります。
共感性を失ってしまった病にかかってしまったということです。


さて、最後に出てくるヨーガの目標はなんだったでしょうか。

私は④完全なる自由(モークシャ)である。
これが人間の最終目標である、とヨーガの哲学で教えてくれました。

例えば、私はお金持ちになりたい、ということは、
私はお金で不自由になることから自由になりたい、と言い換えることが出来ます。

例えば、私は幸せになりたい、ということは、
私は、辛いな、苦しいなと思うようなことから自由になりたい、
ということです。
つまり、様々な限界が私たちにはあるということ。
いつまでも若々しくありたいけれども、生まれて死ぬという限界。
この空間に押し込められている自分たちの物理的限界。
たくさん勉強して、いろんなことを覚えていきたいけれど、記憶力には限界があり、
いっぱい働きたくても、体力にも限界があります。
放射能に打ち勝つ体を持ちたくても、日本人がみんな福島原発に負けない精神と体を持ちたくても、やっぱり限界はあります。


これらのたくさんの限界から自分を自由にしたいということが、自分たちの目標なのです。

この完全な自由を求めているという目標は、
ダルマ、他との協調性、調和を求めて、その先にこの考え方が出てきます。
自分はたった一人の存在ではなく、多くの他との関係性を学んでいった先に出てくる結論です。

つづく

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