2012年3月20日火曜日

自分を再発見する Aham asmi

ヴェーダーンタは自分を再発見させてくれる教えです。

その教えは物理学や生物学や心理学など科学的な分野も、哲学的分野も含んでいますが、それらを超えてしまうので、科学的には確かめようがなくなります。

だから、ヨーガやヴェーダーンタは科学ではありませんとプージャー・スワミ・ダヤーナンダは言います。

ぼくはヨーガは科学です、と聞いていましたし、そういう風に人にも言っていたこともあります。

けれどもスワミジが言うように、よく見てみれば

「科学はすべてこの世界を理解できる」というのは幻想です。

科学はいつも変化し続けています。昨日の答えは、今日の答えとは違います。
かつては肉と魚をたくさん食べないと健康にはなれないよ、と言われました。いまでは穀物と野菜、でも今の野菜は栄養価が低くなってきたので、時にはサプリメントをとりなさいといいます。バナナがいいよとか、カカオが、いいよとか。テレビでも言ってますよね。でも、次の日には変わるのです。

かつては空間と時間は絶対的でした。

しかし、アインシュタインは空間も時間も物質もエネルギーも相対的であることを見つけました。
光の速度で移動すれば、空間はゆがんで、移動している人は時間の進み具合が遅くなるのです。
もし、自分の子供を地球に置いて、
光の速度で移動して地球に帰ってくれば、
なんと、その子供がお年寄りになって自分より年上になっていて、ひ孫と同じ歳ということが起こるのです。

さらに、現在の科学者は、科学が世界を理解したくてもほとんどわからないことを、よく理解しています。
この宇宙は理解できないことばかりであることを。

ダークマターとかダークなんとかとか、宇宙の物質のほとんどは、説明しようとしても、わけが分からないことが、わかってきています。
そして、これを書いている私も、読んでいる人も、わけが分からなくなっています(笑)

さて、話を戻したいです(笑)


私自身がわかればどんなことがあるのでしょうか。

その教えを理解出来れば、とてもメリットがあります。
そうでなければ、
学ぶ理由が、なくなります。
勉強して、落ち込んだなら、インドにくることはありません。

ヴェーダーンタを本当の意味で理解できれば、メリットがあるのです。

私は私自身とともにいて、
自由でリラックスできるのです。
いつでも、いつまでも。

では、この私について観察してみる旅にでます。
普通の旅は距離と時間があって、目的地にエネルギーをつかって到達しますが、
自分への旅は距離も時間も必要ありません。
さらに目的地は一番近いところ、一歩も動かない、ここです。
つまり、いま、ここに答えはあるので、なにもインドに行く必要はありません。
ぼくは別ですが(笑)

普段、私たちは、自分の中心を観察することはありません。
観察することなしに、自分は自分だとわかっています。

自分は自分を見失いません。
よく考えてみれば、
これはすごいことです。

中には、
私は、自分を見失ってばかりです

という10年くらい前のぼくみたいな人もいます(笑)

しかし、その人はどうして「私」とわかるのでしょう。
記憶喪失の人でも、
「私は記憶を失った」という「私」がいます。

誰に教えられなくても、
「私は存在する」のです。

私は存在する、ということをヴェーダーンタではひとつの公式としてサンスクリット語で、こういいます。
Aham Asmi
英語でいえば、
I am
です。

ところで、あなたは誰ですか? Who are you?
と聞かれたら、なんと答えますか?

私は会社員です。
とか、ヨーガの先生です。とか、
私は日本人です。とか、
私は主婦です。とか、
そんなふうに生物学的属性とか、社会的属性とか、何に属しているか、ということを答えます。

私は会社員です。と答えたあなたは会社員なのでしょうか?
もしあなたが上司に聞けば私は部下です。夫に聞けば私は妻です。
子供に聞けばお母さんです。
友達に聞けば、大学の友人です。
家の隣の人に聞けば、お隣さんです。
あなたのお母さんにあった時、私は誰?と聞いてみたら、
「あなたは、私の娘だよ」という前に、
いよいよ「なにをいい出したんだろうね。仕事のしすぎでおかしくなったのかしら」

と病院に連れていかれて、そこで、もう大丈夫ですよ、あなたは患者です、と言われるかもしれませんね。

本当に私とはいったい誰でしょう。
私はそれらのたくさんの名前を持つ人なのでしょうか?

わたしはそれらのたくさんの名前を持つ人も含んでいて、それらを超えています。

I am a woman.

I am a student.

I am a worker.

I am wife.

I am your mother.

に共通するものは、

I amです。

つまり、
私はある。
私は存在
です。

私はある、というとき、
そこには私=意識があります。
そしてI amのうしろに付いている student, mother, workerなどの名前はなにかに属しているということ、つまり属性です。述語です。
たとえば、私は子供です。ということはありますが、子供といえばあなたのことを指すわけではありません。
あなたは属性を持つことはありますが、その属性はあなたではないのです。
本当のあなたは
I am
私はある。
私はある、というとき、
そこには私=意識があります。
この意識があなたの本質です。

そのうしろにつく言葉は、わたしの意識によって輝いている、ひとつの言葉と意味です。

その名前と意味は私=意識によって輝いていますが、
時間が経てば移り変わるような波のようなものです。

私はこの身体です。というとき、
私=意識はこの身体を輝かせています。そして時間と空間のなかでうつりかわっていきます。
意識はいつもその身体を輝かせて、存在を支えていますが、
カラダも生態系の一部で、循環し、代謝して移り変わっています。

身体中の細胞は7年で入れ替わってしまうと言います。毎日水分を2リットル以上とって、排出して、酸素を取り入れて二酸化炭素を排出しています。

さらに、長い期間で見れば、身体は親から受け継いで、いただいたものであり、親もさらにその親にもらったものです。

子供が生まれたら、自分のカラダはその子供に受け継がれていくのです。

このカラダは、まるで流れる川の波の一つのようです。


たとえば、わたしは学生ですが、
学生はわたしである、と言えないように、
わたしはこの身体を持ちますが、
一瞬一瞬移り変わるこの身体は、私の意識が宿る場所であり、わたしではないのです。

わたしのカラダはこの瞬間に現れた一つの波なのです。

 

さらに、話は続きますが、また今度です。

 

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