その教えは物理学や生物学や心理学など科学的な分野も、哲学的分野も含んでいますが、それらを超えてしまうので、科学的には確かめようがなくなります。
だから、ヨーガやヴェーダーンタは科学ではありませんとプージャー・スワミ・ダヤーナンダは言います。
ぼくはヨーガは科学です、と聞いていましたし、そういう風に人にも言っていたこともあります。
けれどもスワミジが言うように、よく見てみれば
「科学はすべてこの世界を理解できる」というのは幻想です。
科学はいつも変化し続けています。昨日の答えは、今日の答えとは違います。
かつては肉と魚をたくさん食べないと健康にはなれないよ、と言われました。いまでは穀物と野菜、でも今の野菜は栄養価が低くなってきたので、時にはサプリメントをとりなさいといいます。バナナがいいよとか、カカオが、いいよとか。テレビでも言ってますよね。でも、次の日には変わるのです。
かつては空間と時間は絶対的でした。
しかし、アインシュタインは空間も時間も物質もエネルギーも相対的であることを見つけました。
光の速度で移動すれば、空間はゆがんで、移動している人は時間の進み具合が遅くなるのです。
もし、自分の子供を地球に置いて、
光の速度で移動して地球に帰ってくれば、
なんと、その子供がお年寄りになって自分より年上になっていて、ひ孫と同じ歳ということが起こるのです。
さらに、現在の科学者は、科学が世界を理解したくてもほとんどわからないことを、よく理解しています。
この宇宙は理解できないことばかりであることを。
ダークマターとかダークなんとかとか、宇宙の物質のほとんどは、説明しようとしても、わけが分からないことが、わかってきています。
そして、これを書いている私も、読んでいる人も、わけが分からなくなっています(笑)
さて、話を戻したいです(笑)
私自身がわかればどんなことがあるのでしょうか。
その教えを理解出来れば、とてもメリットがあります。
そうでなければ、
学ぶ理由が、なくなります。
勉強して、落ち込んだなら、インドにくることはありません。
ヴェーダーンタを本当の意味で理解できれば、メリットがあるのです。
私は私自身とともにいて、
自由でリラックスできるのです。
いつでも、いつまでも。
では、この私について観察してみる旅にでます。
普通の旅は距離と時間があって、目的地にエネルギーをつかって到達しますが、
自分への旅は距離も時間も必要ありません。
さらに目的地は一番近いところ、一歩も動かない、ここです。
つまり、いま、ここに答えはあるので、なにもインドに行く必要はありません。
ぼくは別ですが(笑)
普段、私たちは、自分の中心を観察することはありません。
観察することなしに、自分は自分だとわかっています。
自分は自分を見失いません。
よく考えてみれば、
これはすごいことです。
中には、
私は、自分を見失ってばかりです
、
という10年くらい前のぼくみたいな人もいます(笑)
しかし、その人はどうして「私」とわかるのでしょう。
記憶喪失の人でも、
「私は記憶を失った」という「私」がいます。
誰に教えられなくても、
「私は存在する」のです。
私は存在する、ということをヴェーダーンタではひとつの公式としてサンスクリット語で、こういいます。
Aham Asmi
英語でいえば、
I am
です。
ところで、あなたは誰ですか? Who are you?
と聞かれたら、なんと答えますか?
私は会社員です。
とか、ヨーガの先生です。とか、
私は日本人です。とか、
私は主婦です。とか、
そんなふうに生物学的属性とか、社会的属性とか、何に属しているか、ということを答えます。
私は会社員です。と答えたあなたは会社員なのでしょうか?
もしあなたが上司に聞けば私は部下です。夫に聞けば私は妻です。
子供に聞けばお母さんです。
友達に聞けば、大学の友人です。
家の隣の人に聞けば、お隣さんです。
あなたのお母さんにあった時、私は誰?と聞いてみたら、
「あなたは、私の娘だよ」という前に、
いよいよ「なにをいい出したんだろうね。仕事のしすぎでおかしくなったのかしら」
と病院に連れていかれて、そこで、もう大丈夫ですよ、あなたは患者です、と言われるかもしれませんね。
本当に私とはいったい誰でしょう。
私はそれらのたくさんの名前を持つ人なのでしょうか?
わたしはそれらのたくさんの名前を持つ人も含んでいて、それらを超えています。
I am a woman.
I am a student.
I am a worker.
I am wife.
I am your mother.
に共通するものは、
I amです。
つまり、
私はある。
私は存在
です。
私はある、というとき、
そこには私=意識があります。
そしてI amのうしろに付いている student, mother, workerなどの名前はなにかに属しているということ、つまり属性です。述語です。
たとえば、私は子供です。ということはありますが、子供といえばあなたのことを指すわけではありません。
あなたは属性を持つことはありますが、その属性はあなたではないのです。
本当のあなたは
I am
私はある。
私はある、というとき、
そこには私=意識があります。
この意識があなたの本質です。
そのうしろにつく言葉は、わたしの意識によって輝いている、ひとつの言葉と意味です。
その名前と意味は私=意識によって輝いていますが、
時間が経てば移り変わるような波のようなものです。
私はこの身体です。というとき、
私=意識はこの身体を輝かせています。そして時間と空間のなかでうつりかわっていきます。
意識はいつもその身体を輝かせて、存在を支えていますが、
カラダも生態系の一部で、循環し、代謝して移り変わっています。
身体中の細胞は7年で入れ替わってしまうと言います。毎日水分を2リットル以上とって、排出して、酸素を取り入れて二酸化炭素を排出しています。
さらに、長い期間で見れば、身体は親から受け継いで、いただいたものであり、親もさらにその親にもらったものです。
子供が生まれたら、自分のカラダはその子供に受け継がれていくのです。
このカラダは、まるで流れる川の波の一つのようです。
たとえば、わたしは学生ですが、
学生はわたしである、と言えないように、
わたしはこの身体を持ちますが、
一瞬一瞬移り変わるこの身体は、私の意識が宿る場所であり、わたしではないのです。
わたしのカラダはこの瞬間に現れた一つの波なのです。
さらに、話は続きますが、また今度です。
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