2011年10月2日日曜日

かすかな体に、耳をすませば

ライフっていう映画を見てきました。
驚きと感動が満載の映画でしたが、とくにすごかったのが、
アリさんの農業。
ハキリアリというアリさんは、自分たちは食べもしない草を切ってせっせと巣に運ぶのです。
そこで行われているのが、地下での大規模キノコ農業。
葉っぱを発酵させて、キノコを育てているのです。
しかも立体構造の巣は、キノコから出る二酸化炭素を排出させる煙突まで用意していて、
だれがいったいぜんたい、彼らのライフスタイルを設計したのか……!
面白かったです!

やっとお久しぶりのヨーガの話。

本当は、「さぬきうどんヨーガ」の続きになりますが、
インターバルが長すぎて、麺が完全に伸びてしまってます(笑)




私は完全な自由(モクシャ)であるということを理解することが自分たちの最終目標である。
そんなことが、ヴェーダンタによって教えられました。

私とは一体何か。
この私の肉体を私と思っているけれども、
この肉体を設計した覚えもなければ、この肉体を維持している機能に携わることもできない、
実は私はこの体ではない、ということが前回までの結論です。

この体を使用するオーナーだけれど、
私自身は私の体ではないんですね。

例えば、車のように。
私sivaramは車を持っていません。使いたいときはレンタカーを借りています。
もし、持っていたとしても、それは私の道具です。
私は車を使ったりするけれども、そのエンジンや駆動関係やボディを設計したわけでもないです。
ガソリンと二酸化炭素、ひとつひとつ交換していく部品、それぞれを分解したところで、私はいないし、
あるいは、その全体の機能を見た時でも、この車にはこの私らしさは見つからないのです。


では物理的ではない体、なにか、もやもやしたものが私なんでしょうか。

ヨーガでは「かすかな体」というのを教えます。
目に見えない体です。


人の体にはプラーナというかすかな体、エネルギーがあるといいます。
「気」という言葉に置き換えられることもあります。
元気、雰囲気などの「気」です。
よく言われるオーラも普通の人には見えません。
私も見たことはありません。


見えないというのは、車に例えて言えば、電気系統のようなものです。
ガソリンと違って、電気は目には見えないのだけれど、確かに何かを動かすチカラを持っています。
メーターを使えばその数値は測ることは出来ますが、電気そのものを見ることは出来ません。
電気が光に変わることはありますが、それは光に変わったときに見えるのであって、
電気そのものではありません。
離れていると存在を感じることは難しいです。
しかし、ビリビリと感電した時、触感があります。
目には見えないのだけれど、たしかに存在しています。

ではこのかすかな体が自分なのでしょうか。


雰囲気は感情によって、心の動きによって変わります。
たしかに見えないけれど、人の持つ「気」は伝わってきます。
「考え」というのもかすかな体です。
考えこそ、この私にとって一番私らしい気がしてきます。
そうすると、この私の考えが私なのでしょうか……

つづきます

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