2011年10月16日日曜日

かすかな体に、耳をすませば2_脳は私?

耳をすませば、という映画、先日はじめてみました。
ジブリの映画で近藤喜文監督の作品です。

wikipediaによると、

高畑(勲)が『火垂るの墓』、宮崎(駿)が『となりのトトロ』と、長編映画を同時に制作した時期は2人の間で近藤の争奪戦が起こった。高畑は「他は何もいらないから近ちゃんだけ欲しい」、宮崎は「近ちゃんが入ってくれないなら僕も降板する」と言ったという逸話が残っている

なんだそうです。
主人公の繊細で活き活きとした感性が細部にわたって生きていて、映画には風や匂い、寒さや、人の息まで感じられるようなステキな映画でした。
近藤監督は、残念なことに、この作品を最後に亡くなってしまいました。
もし、今でもジブリにいたら……。
でもきっと、近藤さんのチカラは今のジブリにも生きていますよね。


さてさて、
私たちは自分の中へと耳をすませてみましょう。



ヨーガの教え、ヴェーダンタの教えの中に、私たちは目に見える物理的な体以外にも、プラーナとか、雰囲気とか、元気とか、そういった目には見えない「かすかな体」というものがある、といいます。
この、かすかな体のもっとも代表的なものが、考え=思考です。

現在の科学者は「思考」は脳の機能だと考えている学者は多いようです。
脳という臓器=思考なのかどうかを見て行きましょう。


脳研究者たちは脳の中の血流の動きなどを研究していけば見つかるんじゃないか、と調べているところです。
脳の場所によっての働きの違いまでは分かるようになりました。
そのなかの部分が、体の働きや考えと連動していることがわかっています。

例えば、脳のある部分が事故か何かで損傷したら、
その場所と連動している機能は失われます。
脳の細胞は大人になってから増えることはないといわれていますので、
その脳の場所は復活することはありません。
ところが、損傷の大きさにもよりますが、
リハビリなどを通じて、他の部分が補ってくれて助けてくれて、機能は回復していくといいます。
つまり、失われた部分をカバーするという能力があるのです。

これは、全体を見通している監督がいるということです。
部分が集まってチームになるのか、というとそうではなく、全体を見渡せる視点がないと、そうできません。



野球だったら、監督がいるので、故障した選手の交代ができます。
機械はそうはいきません。
ここに「カメラくん」がいて、彼のパートナーのレンズちゃんが病気で倒れてしまったとします。
そこでカメラ君は
「あ、ぼく代わりに仕事しておくからレンズさん休んでおいていいよ」
なんて優しく声をかけることは、あったらいいのですが、
カメラ君は機械なので、ないですよね。
同じように、脳の部品を交換、あるいは、どこかでカバーするためには、脳以外のところが働く必要があります。
つまり、脳は監督ではないのでは?と思うのです。

脳は「思考」に関係してはいるけれど、
脳=思考とは考えにくいのです。

また、考えはそれが言葉などに現れているときには解りますが、
それを物理的な脳の中に探して行っても、ご主人である「考え」は見つかりません。
やはり、考えは、脳などの部品などに還元することはできないと思うのです。


では、かすかな体、考え、思考がいろいろと科学的には見つからなかったり、
たとえ見つかっていったとしても
このかすかな体、考えの中に「私」はあるのでしょうか。



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