2016年9月14日水曜日

感謝って何だろう

このところ、感謝とは何かをいろいろと考えていました。


スピリチュアル本では「感謝」は最終的なキーワードとして必ず顕れるシークレットワードのようなものです。
しかし、感謝をたくさん書いてある本をみると、なぜかつまらなく感じてしまう。
あまのじゃくですね。

そこで、感謝とは何かを分解してみたくなったのです。


赤ん坊にとって手にモノを持つことは楽しみの一つです。

しばらくすると、その楽しみであるモノを誰かに渡したり、渡されたりすることが楽しみになります。
その時、そばにいる大人は必ずモノを渡したり、渡されたりするときに
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
の声をかけます。

言葉が出るようになれば、
この
「どーぞ」
「あーとう」(ありがとう)
が楽しくなります。

このありがとうの始まりを見ていると感謝についてなにかがわかってくるような気がします。
感謝があるとき、何があるのか。

感謝があるとき、

 ①他者や対象がある

 ②そこから渡されたモノやココロがある

 ③そしてわき上がる喜びがある


感謝はこの喜びの表現です。渡されたモノやココロに対する反応であり、
キャッチボールのようなコミュニケーションです。

けれどもコミュニケーションの道具とは少し違うところがあるかもしれません。

感謝の言葉をもらえない、「こんなにしてあげたのに、感謝されない」、といった状況があるとします。
コミュニケーションのルールとしては、何か一言が必要とされます。
でなければ、投げたボールを認識していないかもしれないからです。

しかし感謝かどうかは受け手に完全に頼っています。

ボールを受けた側に喜びがあるかどうか。
喜びが無い場合に感謝が出てくることはないのです。

喜びを強制することはできません。

喜びは自発的なモノだからです。

喜びは自然なモノです。

ですから誰か相手に感謝を求めることは全くの無駄であり、無意味です。



ところが、この無意味なことを私たちはいろんな場面で求めがちです。

あるいは感謝を道具として使ってしまいます。

なぜ人は感謝を求めたり、評価を求めたり、感謝の言葉によって人を動かそうとするのでしょうか?

それは、自分自身に自発的な喜びがないからでしょう。

なぜ自分に自発的な喜びがないのか。

感謝の反対



それは.......話が堂々巡りのようですが、きっと感謝がないからなのではないでしょうか。

感謝のあるときの反対のことが起きているかもしれません。
それは、

 ①他者と対象が見えない、自己中心的な状態である

 ②渡されたモノやココロがない、あるいはあるにもかかわらず、認識できていない

 ③わき上がる喜びがない、あるいは喜びを覆い隠すほどのもの(不安と怒り、孤独、不信、自己評価の低さ)がある


しかし、この3つのうち最初の二つはこの世界と自分を正しく認識すればありえない、と僕は思うのです。


 ①私たちはありがたいことに必ず他者や対象がある世界に生まれ出てきています。

 ②この瞬間もいつもどこからかのモノやココロを渡されています。
衣食住、仕事は私一人で成り立つモノではなく、他者、世界との関連の中で受け渡されています。

自分たちの体を見れば体内には40兆の細菌が手伝って食物を分解し、代謝し、酸素や二酸化炭素、水などが受け渡され、30兆の細胞(「体内細菌は細胞数の10倍」はウソだった」ナショナルジオグラフィック)が分解され再生されています。

自分の考えや性格はこの世界の中で受け渡された情報、体験などの繰り返しの中で生まれたモノであり、自分一人で成り立つモノではない。



では3つめの喜びはどうなのでしょう。

赤ん坊に戻れば、手に持つモノすべては喜びでした。

目に見えるモノすべてが喜びです。

感じられるモノはすべて楽しいのです。

赤ん坊にとってみれば、喜びを与えないモノ、そのようなモノはないのではないか。

赤ん坊からすれば、喜びを波のように感じているかもしれません。

波は海の中で必ずあります。

波のピークは波ですが、波の底も波です。

低いときも高いときもあるけれども、すべて喜びです。

痛みとか悲しみとか、それはどうなのでしょう。

生まれたばかりの赤ん坊にとってみれば、

痛みすら驚きという刺激です。

悲しみも一つの刺激です。

刺激であるとき、喜びの一つだと思うのです。


赤ん坊にとって、喜びの反対は、痛みや悲しみ、怒りではなく、

退屈です。

退屈こそが喜びの反対。

痛みや悲しみが続いたとき、その刺激に対しては退屈が起きます。

この退屈な痛みや悲しみこそ、喜びの対極であり、その本質には退屈がある。


喜びがないときで、退屈があるとき、それは感謝が起きません。

問題は怒りや悲しみ、自己評価の低さではなく、退屈です。


退屈は、変わらない、と認識し、判断するココロです。

あるいは「変えられない」と認識し、判断するココロ。

自分が無力である、「変えられない」と認識し判断するとき、自分に対する退屈があるかもしれません。

「感謝の反対は、あたりまえ」といいますが、

この「あたりまえ」の言葉の奥には同じことの繰り返しという(間違った)認識があり、そして、「退屈」があるんだと思うのです。


大人になっている私たちには物事には喜びばかりではありません。

諍いや羨望や裏切りや悲しみ、戦争や災害は喜びではありません。

赤ん坊との違いは過去の経験から立ち上がる予測、未来があることです。

大人にとって、戦争や災害は痛みや悲しみの連続がある、という予測がある。

この連続にはあきらめがあり、退屈が潜んでいます。

ですから大人にとってはこれらは喜びではあり得ないのです。


子供は違います。

空襲の光は美しかったという子供の頃の体験を語る人がいます。

台風を楽しみにしていた頃があった人も多いのではないでしょうか。

子供にとってはいつもこの瞬間が新鮮で驚きで、喜びなのです。

戦争や災害を肯定するわけではなく、

私たちはどのようにそれを受け止め感じられるかで、喜びを感じることも、

退屈を感じることも可能だと言うことです。




先ほどの感謝の考察にあった

①他者、世界の認識

②変化、コミュニケーションの認識

が正しくできているとき、あたりまえ、とか退屈は感じられません。



つまり、いつも③喜びがある。

ヴェーダーンタでも、

「私とは喜びである」、

と教えてくれています。

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