桜が咲き始めました。
普通、桜といえば、「お花見」、「宴会」、「楽しいもの」ですよね?
僕にとっては桜はいつも苦しいものでした。
どうして桜が苦しいのでしょう?
実は昔はカメラマンをしていたのです。そういえば。笑
この時期は桜前線にそって中国地方や四国、関西を車で走り回っていました。
海岸線から都市部にかけては気温が高いので、そちらの方から撮影が始まります。
場所で言えば高知市内、高知城から始まるでしょうか。
そして広島市内。岡山市内です。
でも山手の方にも良い桜がポツポツあったりします。
津山城の桜は何度も通った場所でした。
桜カメラマン、というのは素晴らしい仕事です。
いつも最高の桜の時期に、最高の場所で、そのサクラを見ることができるのですから。
まだ固い、紅色のつぼみ。
山の中の一本桜。
全体が桜色にうめつくされる山や河川の土手。
ライトアップされるお城の石垣。
提灯がたくさん吊り下げられて、屋台が並んで、ブルーシートの上で盛り上がるサラリーマンたち。
お城のお堀に吹雪く桜の花びら。
雨上がりの水たまりにぎっしりとうめつくされていて。
あっという間に一番いい時期は去っていきます。
あっという間に一番いい時期は去っていきます。
寂しいというのもありました。
みんな花見している中、一人で朝から夜桜まで撮影していたりしているのですから。
夜遅くまで撮影して、朝早くから移動し、どの場所で終わるか読めないことも多く、
車の中で寝泊まりすることがほとんどです。
そうして日本中の桜を見たような気分になります。
今年、数年ぶりの日本の桜を見ます。
撮影もすることなしに。
純粋に桜を見ることができます。
何ものからも自由に見る、ということはほんとうに難しいことです。
カメラマンであるという自分から自由で、いろいろな思い出から自由に見る。
それはつまり、思い込みや偏見から自由になるということです。
普通みなさんが花見をしているとき、仕事や立場、状況から開放されています。
すべての思い込みから自由に桜を見ることができます。
全てから自由であるとき、実は桜が美しいのではなく、その人自身が美しいのです。
その人は桜と一つになって、なにかの必要だとか、欲望とか、不安から自由になります。
肩書や、容姿、才能、罪や、悩み、そんないろいろな自分から自由な自分になります。
ただ美しさと一体になっています。
その瞬間に居続けることができるとき、その人は美しいのです。
サクラが咲きはじめの時も、五分咲きの時でも、満開の時でも、散り始め、
肩書や、容姿、才能、罪や、悩み、そんないろいろな自分から自由な自分になります。
ただ美しさと一体になっています。
その瞬間に居続けることができるとき、その人は美しいのです。
桜だけではありません。
何かを見るとき、自分自身の欲や不満から自由になって、開放されてモノを見る。
そのとき、世界は素晴らしいということが見えてきます。
サクラが咲きはじめの時も、五分咲きの時でも、満開の時でも、散り始め、
散り終わりを迎えて、葉桜であっても、
自由にモノを見ることができれば、それはいつでもすばらしい。
そのとき、自分が美しく、そして世界は本来美しいのです。
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