2014年2月17日月曜日

ありがたい、をそのままに

こちらインドは青空です。気温は20度くらいでしょうか。

なんと贅沢な気候なんだろうとしみじみ思います。



インド伝統のヴェーダ(知識)を学び、体験している日々ですが、

これもまたなんて贅沢な時間なんだろうと、毎回思います。

学生の時には勉強することの贅沢さなんてものは、考えませんでした。

あのときもっと勉強していれば....(泣)

時間とはもっとも貴重なもの、贅沢品です。

贅沢品を英語で言えばLuxury ラグジュアリーといいます。

Luxとは光を意味しますね。

光は太陽が与えてくれています。


太陽といえば、

「最近曇りとか雪ばかりで、もっと晴れてくれないと洗濯物が乾かない」

とか、「太陽光発電で、エコに」

などなど、ついつい損得、経済に結びつけて考えてしまうかもしれませんね。


昔の人はきっと違っていたように思います。

太陽といえば、ありがたいなあ、と感じていたので、お天道さまに手を合わせる、

ということは日常にあったのではないでしょうか。

日本昔ばなしの世界です。

太陽、光はありがたいもの、つまり贅沢品だったのです。Luxury、ラグジュアリーです。

お天道さまという言葉も、そこには太陽と空、その道、太陽の動き、季節、という意味が含まれています。

自然は贅沢品で、全てを与えてくれるもの、植物を育て、動物を育てる、ありがたいもの。

そして、時には台風や嵐や大雪、災害をおこして、命も全てを奪うもの、そして新しい命を与えるものでもありました。

私たちはこのような贅沢品をいただいたとき、

その時だけは感謝します。

自転車が初めて家に来た時。

なんて素敵なモノが内に来てくれたのだろうと大喜びしました。

でも、いつの間にか当たり前になっていきます。いつの間にか必需品へと変わります。

なければ困る。と言います。

車が初めて家に来た時、大喜びです。パパもママも子供も。

でも、いつの間にかそれは必需品へと変わります。

車が故障でもしようものならば、メンテナンスを怠ったパパに非難が集まります。

携帯電話が来た時、なんと贅沢なものだろうと思ったものです。

でも、いまや無い人は社会から外れている、というくらい必需品へと変わりました。

スマートフォンを持つこと。贅沢品だったのが、きっと今年中には必需品へと変わります。

彼氏ができたとき、大喜びして、結婚して旦那になってしばらくすると

どうなっていますか??.......(笑)


私たちは贅沢品、LuxuryをLuxuryとしておくことが、なかなかできません。

贅沢品 Luxuryを必需品 Necessitiesに変えてしまいます。

モノは必ず壊れたり、失われたり、ふるくなったりしていきます。

ですから必需品はいつも新しくする必要が出てきます。

必需品が壊れたりすれば、必ずストレスになります。

やがて必需品に振り回されるようになります。

必需品のために、稼ぎを増やさなければいけません。

老後のために貯金も必需品です。ですから貯金を増やさなけばいけません。

こうして必需品のために人生の大半は費やされることになります。


わたしたちは自分の人生をもっと自分自身のために費やす「必要」があるのではないでしょうか?

その必需品は本当に必需品ですか?

そこから気づいていくことがたくさんあります。

この必需品は実は贅沢品ではなかったでしょうか?

ありがたい、と感謝すべきものではなかったでしょうか?



私たちは自然の絶妙なバランスの中でしか生きることのできない、命です。

貴重な命、それを育む自然、エネルギーを頂いておきながら、

これらを無尽蔵にあると勘違いしていきます。

地球や宇宙を使い果たしていこうとしています。

ニュースの続報を見ていると、日本の大雪は大災害になりそうな勢いだとか。

一方で、インドでは場所にもよるでしょうが、雨が降るときに降らず、

この地でも今月は2回しか雨がない、といいます。

水道から出る水は日本のように出ることはなく、

チョロチョロと出てくるだけ。

蛇口をひねると水が出ることは贅沢なことなのだなぁとしみじみと気づきます。


Luxury 贅沢品を必需品 Necessitiesとして受け取るのではなく、

Luxury、贅沢品というのはなかなか得がたいこと、つまり「有り難い」こと、

有り難いものを有り難いものとして受け取ること。

あるがままのものを、あるがまま受け取ること。

この感性と考えにいたる過程こそが、心の成長だと思うのです。



と、ここまで読んでいただいて、

ありがとうございます(笑)

2013年11月15日金曜日

スピリチュアリティ

いま、講師のためのトレーニングを行っているのですが、真ん中に差し掛かっています。

奥深く、広がるヨーガは本当に面白く展開していき、自分たちの成長を助けてくれます。

来年に変えて、私たちはどのように成長していけるでしょうか?

ポストカード、できました。

さて、さて、

ヨーガにおいてわたしたちは二つの手段を使ってスピリチュアリティの道を進みます。

二つの手段とは①クリア(行為)②ブッディ(知性)です。

しかし、まず、そもそもこのスピリチュアリティとは何でしょうか?

スピリチュアル、というときっと3つの反応があると思います。

1つ目は、ハリーポッターのような、魔法のようなイメージです。
運命が開けて、運命の人に出会い、キラキラとした人生が始まる。
なんだか理屈はわからないけれど、すぐに効果がある呪文のようなもの。

2つ目は、あやしい科学とか、宗教のイメージです。
自分はなにかいけないものがくっついているので、
それを浄化しなくてはいけない。
自分には罪があるので、それを償わなくてはいけない。

3つ目はとにかく、こういったことは近づかない方がいい。
無視して、見ないようにしている。
でも姓名判断で、子供の名前はつける。。。。

いずれも、魔法のようなイメージですね。

ヨーガ、ヴェーダーンタではこう考えます。

スピリチュアリティとは、正しい理解、わたしとはどういう存在か、

わたしの目の前の世界、この世界の創造について、創造をしたものは何かを学び理解すること。

これがスピリチュアルということです。

科学だってスピリチュアルに入ってくるし、

さらにそれを超えたヨーガやアーユルベーダやヴェーダーンタも

やはり真実とは何かを追求している意味で、スピリチュアルです。



スピリチュアルを追求するためには、

愛、慈悲、思いやりなどの考えやこころの美しさ、健康さが必要になります。

この考えの健康さを育てるのが、ヨーガです。

本当のこと言えば、健康を育てるというより、

不健康な考え方を避ける、というのがヨーガです。


ヨーガという言葉は、Yuj=結びつける、というサンスクリット語の語源から成り立ちます。

何かを結びつけるとき、他の何かとは引き離します。

たとえば、靴のひもを結ぶときは、反対のことを引き離しています。

ん? 意味が不明?

靴のひもを結ぶときは、ひもがだらしなく垂れ下がっている状態、を引き離します。

あるいはひもがこんがらがって、隣の靴と引っかかっている状態を引き離しています。

そうではないでしょうか?

Yogaで何かと何かを結んでいく時、別の何かを引き離します。

では、考え・こころがだらしなく垂れ下がっている状態とは……

怒りや悲しみ、嫉妬、憎しみ、怨み、悲しみ、無感動…

そういった感情です。

小さいものから、大きい物まで、イライラはどこにでもあふれていて、

無関心もあふれていて、どうしたらこれらの感情から逃れられるのか、

と思うほどですが、

Yogaはどんなところにいても、どんなときでも、平安なこころを取り戻すツールになります。

ヨーガにおいてわたしたちは二つの手段を使ってスピリチュアリティの道を進みます、と

最初に書きました。

その1つ目、①クリア行為としてのツールが、

ヨーガアーサナ、クラスで行っているポーズですね。

それからプラーナーヤーマ、調気法、呼吸法なのです。

2013年10月12日土曜日

デイパックのヨーガ的持ち方

普段の姿勢が肩こりや偏頭痛、腰痛、膝痛につながります。

いまパソコンや、スマートフォンを見ている姿勢はどうなっているでしょう?

あごと肩が前にでて、背中が丸くなっていませんか?

腰が後ろに丸くなっていて、骨盤が後傾している?

肩こりがひどい人はこの姿勢になっているかもしれません。

……と、先日、そんな話をクラスでしていたのです。

そして帰り際にデイパックを背負っている人の姿勢を見ていて、

??

と思いました。

というのも、デイパックには荷物が入っています。重さがあるので、背中に引っ張られます。

ですから、上半身は前に倒れないとバランスが取れません。

背中は丸くなってしまい、肩も、頭も前に倒してしまいます。

つまり、デイパックを背負って歩いていると、

前傾になっているので、背中側の筋肉はあまり使わない。

筋肉は使わないので、背筋を伸ばしていくための力が出ないのです。

それではいけませんよね。

で、考えました。

デイパックは前に持つのがよいのではないか。

外国では後ろからの窃盗を避けるためにも、前にカバンを持つようにします。

デイパック、あるいはそれ以上のバックでさえ前に持つようにします。

そうすると、身体は前に倒れようとするので、

それに負けないように腰から上を後ろに逸らすことになります。

その時に意識的に後ろの肩甲骨を引き寄せて、胸を開いて、

あごを後ろに引いて首の後を伸ばすようにする。

で、やってみています。

今のところ、いい感じがします。

荷物も後ろから取られる心配もなくなるし(笑)

京都だと、外国人がそうして持っていることも多いので、

変な風にはみられませんしね(笑)

……と前回のクラスで話しをした方に提案してみました。

そうしたらけっこう受けてくれたので、

「これはブログに書かせていただきます」と宣言しました。

で、今回のブログは、

ヨーガの話し、普段の姿勢の話ということでした。

あ、ただし、腰が反っている方、

普段背筋が伸びている方、妊婦の方は

腰に負担がかかりますので、ご注意ください。


2013年7月17日水曜日

目には見えない大切なこと

烏丸教室オープンしましたー

が、まだ準備中のところもあり、ばたばたしています。

もう少し、もう少し、と思いながら、進んでいってます。

皆さまからお花と鉢をいただきました。うれしかったです。ありがとうございました!
さて、さて、前回のブログは

五感をさしおいて大切なこととはなにか、でした。



大切なことは目には見えない、

は非常に逆説的だとは思いませんか?

前回のブログであったように、私たちは五感に感じていることから、情報を得ています。

情報はすべて五感が土台となり、五感を元に、すべての考えが成り立ちます。

炎があれば、熱を感じ、光を感じ、煙の匂いを感じます。

次に煙を見ただけで、そこには炎があるという推測が生まれます。

また、火の気がないところからの煙であれば、雷が落ちたのか、電気がショートしたのか、

誰か火の不始末をしたのか、という推論も生まれます。

推論を重ねたもの、それらが確認されてきたものが、学問であり、

正論、正解、と言われます。

そこにも五感が土台となった考え、推理、推論があります。

どの分野の研究においても、たとえ量子力学の研究においても、

最初は研究者の五感に届く範囲のところから、考えが始まります。

1+1は目に見えて触れる範囲です。この算数から、複雑な数学もちゃんと理解されていくのです。

ですから、五感は非常に大切なのです。



にも関わらず、大切なことは目には見えない、のです。

これは、どういうことなのでしょうか。

一つの感覚はひとつの分野においての知識をもたらします。

目は光においての知識をもたらします。

逆に言えば、目は光以外の知識のおいては、知識をもたらしません。

例えば、目で匂いをかぐことはできません。

舌で光を感じることができないように。

五感は五感以外の知識をもたらすことはありません。

五感から様々な考えを生み出すことになりましたが、

それらの考えは、五感の範疇を越えていくことは非常に難しいのです。

つまり、考えやイメージは五感の範囲内に入っていて、そのイメージを超えることがあったとき、

その人は、「想像がつかない」、ということになります。

例えば、私たちは宇宙の始まりをイメージすることはできません。

その時、光もなければ、時間もなく、空間もなかったといいます。

時間や空間がなければ、音も、光も、匂いも、味も、触感もありません。

音も光も匂いも味も触感も、すべて空間と時間によって成り立っています。

ですから、空間や時間がない宇宙の始まりはイメージ出来ません。

イメージ出来ないけれど、宇宙の始まりは私たちのこの宇宙の土台となっています。

その土台があることで、この五感に届く宇宙が存在できます。


ヨーガではマントラを唱えたりします。

マントラには意味があり、音があります。

そこには祈りがあり、真実があり、効果、結果が生まれます。

どうしてそんな結果が生まれるのか、原因と結果の結びつきは目には見えません。

宇宙の始まりも目には見えないけれど、マントラの力も目には見えません。

ですが盲目的にそれを信じているわけではありません。

疑いを持つことも許されます。

けれども、過去の賢者たち、先生たちが教え継いできた伝統について、否定せず、

疑いを少し棚上げして、真似してみることはできます。

もし私が五感に届く範疇のことしか知らないのだ、

イメージを超えたことは考えることもできない、ということを知っていれば、

謙虚になって伝統を尊重することができます。



先日、とある仕事中に、

口の中でボソボソとマントラを唱えていました。

ヨーガの講師をしていたわけではなく、接客やパソコン業務などの裏方です。

誰にも聞こえるはずもない小声だったのですが、

前に座っていた中国人通訳のスタッフが、ガバっと振り返って、

「山口さん、いまお経を唱えているでしょ!」とニッコリしながら言うのです。

驚くと、ねえ、やっぱり、と答えて、

「彼女もわかってるよ」と隣の中国人通訳のスタッフを指さしたのです。

その人は霊感が強いのだそう。


よく話を聞いてみれば、二人は中国系仏教を信仰しているとのことで、

人を傷つけないこと、人のために良いことをすること、お経を唱えること、

などを実践しているのだそうです。


中国人の方と仕事をする機会が多いのですが、

たいていは、自分が傷つかないようにすること、

自分のためになることをすること、

お金のためになんでもすること、

が当たり前になっている事が多いのです。


「私の宗教が良くて、他の宗教を信じているのだめ、といって人を攻撃することはいけません」

と言うので、ますますびっくりしました。

中国はチベットをはじめとする少数民族を弾圧する政策を何十年も続けています。

彼女たちの考えと今の中国政府はまるっきり逆かもしれません。



かつて仏教が栄えた中国。

老子・荘子、道教、孔子の儒教を生んだ中国。

  老荘思想はこの宇宙・自然には目には見えない法則があるということ、

  その法則のもとに人間にも法則がある、という考えです。

  儒教はWikipediaによれば、仁、つまり心=考えを大事にしており、

  「人の財産は家柄、財産、コネよりもむしろ教育と徳性によって決められるべきだ」

  という考えだそうです。これらも目には見えない心が大切だという教えです。



今回であった中国のスタッフたち、

かつての中国はみなこのようだったのかもしれませんね。


ニュースではあまりいい話題がない最近ですが、

どの国でも目には見えないものの大切さがもっと理解されていったならば、

この地球はもっと素敵だろうな、と思うのです。

2013年7月8日月曜日

目には見えないけれど

サン=テグジュペリの『星の王子さま』は何度読んでも、不思議な魅力のある本でした。

こどものほうが素直に読めるかもしれませんが、出会ったのが大学生だったので、

なんだろう、これは、と困惑しながら読んだ気がします。

そのなかで、

大切なことは、目には見えないんだよ

Le plus important est invisible

という言葉がありました。

フランス語を直訳すれば、「最も大事なことは目に見えない」となります。

あ、直訳もほとんど変わらないですね。



そう、大事なことは目に見えるものではない、とサン=テグジュペリは作品の中で言います。

目には見えないもの、の反対は、「目に見えるもの」。ですね。

では逆に言えば、目に見えることは大事ではないのか。

そういう意味がふくまれていたのでしょうか。


ここで目に見えるものとは、目だけではありません、

触覚や味覚や聴覚や嗅覚など五感に届くもの、ということです。

私たちにとって五感に届くものは、すべての情報の基礎になります。

五感から得た情報が土台となって、そこから「考え」が始まります。


すべての「考え」は五感によって得られた情報からしか、始まりません。

たとえば、私は親に食べ物を食べさせてもらっている赤ん坊であるとします。

目の前に白い色を視覚的に知ります。

触れると弾力があり、ある程度の固形のものであることを知ります。

口に含むと味があり、食べられるものであることを知ります。

香りが、さらに体にとって必要なものであることを知らせてくれます。

弾力のある固形物で味と香りがありという情報が五感によって知られます。

そこに名前があることを知ります。「うどん」といいます。

「うどん」は「そば」や「パスタ」と同じ仲間で、食べられるものであること、を知ります。

そのうちに「うどん」という音だけで、自分の頭のなかには、ある程度の具体性を持った

考え、感情や欲望が生まれます。

五感がすべての情報を与えてくれたおかげで、考えが生まれました。

ですから、五感がなければ、考えすら生まれません。

目に見える、ということはとても大事ですよね。


ではそんな大事な五感をさしおいて、それを超える大事なことがある、

というのがサン=テグジュペリの言葉です。

それは一体どういうことなんでしょうか?


続きはまた次回に。


さて、昨日は烏丸教室のプレ・オープンクラス初日でした。

ありがたいことに初めての方がいらしてくれて、無事に第一回目のクラスをさせて頂きました。

というか、Nana先生のクラスに参加させてもらって、久しぶりにヨーガクラスを

受けることができました。

最後のリラクゼーションポーズ=シャバーサナは、くまモン畳さんのお陰で、意識がなく、

久しぶりに、いったい私は誰、ここはどこ?

Who Am I 瞑想でした(笑)

ようやく、少しずつ準備ができてきて、本当に感謝です。


シュリーと書かれている砂マンダラです
インドにて

2013年5月31日金曜日

結婚はヨーガ?

明日は親戚の結婚式があります。
6月ですからジューン・ブライドですね。
6月の花嫁、です。

ヨーロッパでは6月の花嫁は幸せになれるといういくつかの伝説があるそうです。
なかでも素敵な伝説では、6月Juneはローマ神話で結婚をつかさどる女神である「JUNO」に由来し、結婚や女性の権利を守護することから、6月の花嫁は幸せになれるんだそうですよ。

インドではお月様は、チャンドラという女神です。チャンドラはまた、ヴァルナともいい、月は神々のお酒の杯といわれます。
お酒、神酒ソーマも月の神様。
ソーマとはアムリタ、不死の飲み物のことを指しますね。

このソーマはお酒に似たものではなかったか、といわれますが、特定することは困難だそうです。考えられるのは、日本でも神社での神事や、天皇家の祭り事では大麻を使ったりしていますが、そのような神聖な薬草やきのこだったかもしれません。


なんにせよ、霊薬であり、神様と交流するための道具だったのでしょう。

さて、昔はこのソーマやアムルタ、アムリタのことを、一回飲んでみたいなぁ、なんて考えたりしたものでした。

不死、というところに惹かれていたのではなく、神様と交流することができるんじゃないのか?というところが興味深かったのです。


そういった薬草の話は世界中の古い文明にはたくさんあって、直接神様と交流していた人々がいて、きっと現代人には及びもつかない智慧を得ていたんだろうと想像するのです。
大阪万博記念公園には民族学博物館がありますが、たくさんの展示物を見ればその豊かな智慧が溢れかえっているのが理解出来ます。
個人的には現代美術を見ているよりも、深い智慧が感じられると思うのですが、どうでしょうか……。


さて、アムリタとはなにか……。

アムリタってどこかに生えているすっごいキノコだったり、
洞窟の奥につながっている地下都市の中の秘宝だったり、
そんなことを想像していたのですけれど、そうじゃなかったんです(笑)

ヴェーダーンタを学ぶと、明白になります。
アムリタは不死です。
死なないということは、生まれもしない、ということです。

生まれることなく、死ぬことでもない、
この自分の身体や考えからは自由なものです。それこそアムリタです。

この自分の体や考えは生まれて来ました。
成長し、一瞬たりとも止まることなく変化し続けて、やがで衰えて、
そして死んでしまいます。
生まれてきたものは、必ず死にます。
生まれてきたんだけれども、死なないもの、死ななくなったもの、
というものはあるでしょうか?

そんなものは、この宇宙を探してみてもどこにもありません。

いやいや、私の身体を構成している原子は死なないでしょう?
エネルギーは形を変えるけれど、ずっとありつつけるのでは……?

自分たちの最小単位である素粒子、これはエネルギーですが、素粒子だって宇宙の始まりに生まれてきました。
ですから、素粒子だって、この宇宙だって始まりがあります。

でも原子や素粒子にも終わりがあります。宇宙は最後は一つの収縮をむかえてなくなるか、
泡が次から次へとはじけるようになるのか、わかりませんが、
宇宙も素粒子も始まりがあり、終わりがあります。

ですから、アムリタではないのです。

であれば、アムリタはどこにもないかもしれません。
生まれず、死なないもの、そんなものない!?


ここからは科学の世界を超えてしまいます。
ヴェーダ、ヴェーダーンタの世界です。

この宇宙は何も無いところから、突然生まれたのでしょうか?
何も無いところから100万円を出してみることはできるでしょうか?
できないですよね。出してみたい気持ちはありますが(笑)
なにかがなければ、生まれることはできません。

100万円を出してみたい気持ちは「あった」りしたように、
このなにか「ある」があるので、そこから生まれることができます。

この「ある」こそアムリタです。

ある、とは存在のことです。

非存在から、存在は生まれません。

存在=ある、が無ければ、宇宙は始まりません。
そして、この「ある」は誰がそれを言うのでしょうか?
ある、というとき意識があります。
意識があるから、「ある」といいます。
意識って何?
意識って誰?
この意識こそ、「わたし」です。
わたしがわたしである、という意識がありますよね。
ないですか?
なければ、このブログを読んではいないですよね。
あるいは、読もうとしているのに、目が閉じていってしまっていたとか(笑)

意識は、考えの元にあるものです。
このわたしは身体でもなく、考えでもない、わたし=意識です。

このわたし=意識は生まれもしなければ、死ぬこともありません。

え?

わたしは死なないの?
だって生まれてきたし、わたしのおばあちゃんだって死んでいったじゃないですか?

そう。
わたしのことを身体だと考えている時、
このわたしは生まれますし、死にます。

けれども、わたしが体だと考えていない時でも、このわたしはあります。
例えば、夢のなかのように。

夢のなかではわたしはこの身体から自由です。
職業からも自由です。役割からも自由です。


けれども、夢のなかでは自分の記憶から生み出した世界の中にいて、
そしてそこに自分自身を置きます。
夢の中では夢の体を持ちます。
そして、その自分自身で創りだした環境に縛られて、夢の中の役割に縛られます。

わたしは、夢のなかにいる時、自分は夢の登場人物を装っていることを忘れて、夢そのものの中に閉じ込められます。
起きている世界では会社員をしていても、
夢の中では学生だったりします。
そしてなぜか学校ではなく、会社に遅れそうになって電車に飛び乗って、走っていきます。
もうだめだー、テストもゼロ点だー
と思ったら、はっと気が付きます。
これは夢だったのだと。わたしは夢の世界、夢の体から自由であることを知ります。

それに似て、起きている時、自分は仕事、つまり役割を自分だと思い、身体を自分だと思います。

仕事のあいだであったり、学校であったり、地域の中であったり、
人と人とのつながりにおける役割は、私自身でしょうか?

いいえ。


役割も、私自身ではなく、自分が所有し、使うことができる道具です。
あるいは、一つの自分の一部であり、一つの表現です。
自分自身と役割とは別物です。
舞台で演じている役者は、役を大事に演じていますが、役そのものになりきっていますが、自分自身を忘れることはありません。
「オーロミオ、おージュリエット」
もし自分が役であることを忘れてしまったら、舞台が終わっても、「おージュリエット」
と言ってしまいます。
そうしたら、
ジュリエット役の人には、バシッとどつかれます。
そこでロミオは バタッと倒れるしかない
監督には役を下ろされるでしょう。
あまりにも役を自分だと勘違いしたら、問題なのです(笑)


結婚は大切な役割を持つことです。
男であり、女であります。
夫であり、妻です。
父であり、母です。
役割の中で大切な義務が生まれます。
この役割にはいいも悪いもありません。

いいも悪いも無いけれど、
役割には正しい行い、と正しくない行いがあります。
正しいとは、すべての関係の中で、環境の中で他を傷つけず、自分を大切にするという行いをするということです。正しくない行いとは、環境の中で他を傷つけ、自分をだめにする、卑下することです。
正しい行いをすること、正しい役割を演じていくためには、この身体も考えも、周りの人の考えも、身体も、この環境も、世界も、地球も、意識を持っている、生命であることを理解することが必要です。生命はわたし個人の小さな考えで生まれるものではありません。
無秩序に、ばらばらにあるものが、たまたまデザインされて、機能を持って生まれることはありません。その背後には作者が必ずいます。
この身体を創りだした作者がいます。

作者とはだれ?
お父さんやお母さんが作者でしょうか?
いいえ、その父や母もまた、創りだされたものです。
私たちがこの背後にある作者を理解していくこと。
生命を大切に観察していくこと。
そこには作者がいます。
その作者のことを昔の人は、たくさんの尊敬の言葉で言いました。
チャンドラ、ヴァルナ、ソーマ、お月様。
ヴァーユー、風の神様。スーリア、太陽の神様。プルティヴィ、ガイア、地球の神様……

すべての世界、すべてのこの私の身体も心も、尊敬されるべき作者の現れです。
この見え方、理解が、結婚によってよりリアルになってきます。
最終的に、自分は夢のなかに閉じ込められているのではなく、
自分は夢から自由であることを知る、
つまり、私自身は生まれもしない、死にもしない、意識、不死のアムリタである、と理解するための大切な生き方。
この生き方こそ、本当の結婚であり、ヨーガです。

結婚には、ですから、まずは相手を傷つけないこと。
自分を尊重すること。そのような正しい役を演じていくことがとても大事です。
そして、お互いが尊重、尊敬の気持ちをはぐくんでいくこと。

さらに、社会に対しても同じようにしていくこと。
環境こそ自分たちを生かしてくれていることを知ること。
木が生きているから、森があるのではなく。
森があるから、木が生きていける、という見え方を理解していくこと。
この大きな森は、さらに大きなこの大地であり、大船原であり、空であり、風であり、
太陽であり、星々であり、空間であり、それらが私たちをはぐくんでくれていることに
感謝をささげる気持ちを育てること。
仕事、役割は大きな作者、存在、生きる宇宙に対して行う、捧げものです。
結果は、その宇宙からのプレゼント、いただいた贈り物です。
どんな結果も、つらいことも。贈り物。
自分のこの小さな考えでは、狭い視野では、贈り物には見えていないかもしれないけれど。
いつかそれがプレゼントだと見えるようになりますように。
あれ?お祈りになってますね。


もちろん、結婚していなくても、ヨーガは可能です。
 あれ?いままでの話をひっくり返しているみたいですね(笑)


2013年4月17日水曜日

輝きと喜び

リシケシにいます。

一カ月以上になりました。そして、明日の飛行機で帰る今になって、

ブログを書いてみます。パッキングしなきゃいけないのに。

まず、チェータナ先生、

スワミになられた、チェータナンダジに感謝しています。

チェータナンダジのお陰で、わたしたちがここで勉強出来ました。

そしてスワミ・ダヤナンダジに感謝しています。

何百人もの人を笑いの渦に巻き込む力と、

思いやりに溢れた優しさと

多くの人を自然=イーシュワラに戻してくれる偉大な智慧。

感謝しています。

「アスティ、バーティ、プリヤン!」

スワミジの声が響きます。プリヤンの時は1オクターブ高く(笑)

私たちは、すべての源である存在意識=アスティであり、

すべての認識を輝かせる光=バーティであり、

すべてのかぎりのない喜び=プリヤ

であることを、本当に気づかせてくれます。

いつまでも、いつまでも教えが学び継がれますように


アシュラムの天使、われらのてーちゃん