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2012年6月8日金曜日

ココロのチカラ

昨年から指圧の勉強をしています。

いつしか、もうすぐ一年が経つんです。


タオ指圧というのですけれども、

これがまさにヴェーダであり、

ヴェーダーンタです。



普通、「指圧」といえば、体にツボがあって、そのツボを親指で押す。

そうですよね?

けれども、タオ指圧では違います。

ツボは固定されたものではないといいます。

だからツボはその場所を物理的に見ても位置がわかりません。

ツボは身体上にはないからです。

ツボがあるけれど、目には見えない、五感ではとらえられない気の体にあり、

それが施術者の気に反応して、肉体の場所として「現れます」。



なんですと!というのがまず最初の驚き。


京都・小塩山の谷筋ルート。プラーナ充満中


しかも肉体的チカラで押すのではなく、

①気と②精神的チカラと③瞑想的チカラで圧します。

①気はヨーガではプラーナといいます。

体の動きと気持ちの動きをシンクロさせて、

気を充満させます。

②精神的、というのはイメージ、心のことです。

相手の痛みを知るということ。

それを癒したいと望むこと。

思いやりを持つということです。

③瞑想的というのは、

自分自身が本当は肉体でもなく、

気の体でもないということ。

本当の自分というのは宇宙の根源であるということを理解するということです。


ひゃあ~、まさにヴェーダーンタですよね。すごい。


肉体を通して、エネルギーの体(気の体、元気とかです)

そして微かな体(感覚や考え、記憶など=スークシュマシャリーラ)に対して圧します。

しかも、圧すときには、

肉体的なチカラを10とすると、

90は「タオ心」あるいは「如来」と呼んでいる瞑想状態の心で圧すのです。

ヨーガで言えば、イーシュワラと繋がったココロのチカラとプラーナで圧します。


言うは易しで、これが難しい!!

何度も試行錯誤して、できなくて疲れてきます。

そうしていると、いつしかスッと入るときがあります。入神、入心というのかな。

瞑想的になって、気が充満して、肩の力が抜けたとき。

そうしたら、受け手の方が

「いま、すごい来てます!」と反応してくれます。

力で圧すよりも受け手は深く深く、強く感じるといいます。

つまり、自然と同化しているとき、自然の力が現れる、と言えばイメージしやすいでしょうか?


ヨーガ的に言えば、

肉体的エネルギーはそれほど強いものではなく、

ブラフマン(宇宙の根本・意識)を知っている人は、

根源的エネルギー、イーシュワラのチカラを

肉体を通して、プラーナ、そして微かな体、スークスマシャリーラに直接届けることができる、

ということです。あ、難しい表現?

届けられたら相手も自分も「うれしい!しあわせ!」が現れます。


その時、疲労感はありません。施術者は疲れず、逆に充実します。



ほんとうです。

2011年11月9日水曜日

かすかな体に耳をすませば3_考えの始まり


私とは誰か、という疑問ですが、まだまだ続いています。

「わたし」というのはいつも大問題ですから……(笑)



この体は、道具として利用しているけれど、

「私」はこの体ではないという話をしました。

この体は、もともとは、親からのDNAが受け継がれているものです。

私が創ったわけではありません。

そして、外から入ってくる空気や食べ物がこの体を作り出しています。

私がこの材料を集めているわけでもないのです。

私の臓器や器官や、細胞は自分の意志とは関係なく、毎日、毎瞬間にさまざまな働きをしてくれて、

この体を維持してくれています。

私は、少しは意思を働かせて、ガンバレこの体!と奮起したりしますが、

「私」には関係なく、この体はうまくデザインされ、驚異的な機能を、有機的につながりを持って

恒常性を持ちながら、自動的にうまく働かせてくれています。


外界と体は交流し、代謝し、巡っています。

これは、動物や植物とも同じ、自然界のシステムそのものです。

体は、ひとつの個、「私」では収まりきりません。

生命は、生態系の中に組み込まれているのです。


それはそれで不思議な話ですが、

ここでは、「私」というアイデアにこそ焦点を当てていきます。


私がこの体ではなかったら、私の「考え」こそ、「私」なのでしょうか?

考えは、「かすかな体」=スークシュマ・シャリーラとヨーガでは言います。


このかすかな体、考えの始まりを見て行きましょう。

私たちは、生まれるまではすべての世界がひとつでした。

お母さんのお腹の中では「おかあさんといっしょ」でした。

世界が一つであるという知識はありませんでしたが、

ただ一つでありました。

考えはあまりにも繊細で、はかなく、生まれては散っていきます。

記憶に残ることも少なく、潜在意識の奥底に沈んでいきます。



考えがおこるためには、そのもとがあります。

考えが起こるためには、情報をキャッチする能力が必要です。

まったくの刺激がなければ、考えも起きないのです。

光もない、音もない、温度もない、味もない、匂いもない所に一人ぼっちで取り残された時、

変化もないので、時間もなければ、空間もなくなるでしょう。

自分が目を開けているかもわからなければ、

自分の体を触っても何も感じなければ、自分はいません。考えもないのです。

インプットされる情報がないところには、思考もなく、存在もない。

私たちは今、存在しています。

存在している所に輝いているのが、この私たちの優れたセンサーである五感覚器官です。

耳で聴覚がおこります。

肌で触感がおこります。

舌で味覚がおこります。

鼻で嗅覚がおこり、

目で視覚が起こります。


その五感が働くので、手足などの運動器官も働きます。

見えている何かに向かって手を動かしてみて、触ってみて、

匂いを嗅いだりして、情報をキャッチします。


太陽の光に熱を感じ、風に香りを見つけて、

自然の恩恵を思考によって見つけることができて、微笑むのです。


お母さんのお腹の中から生まれてきた赤ちゃんは、

一つの世界から、感覚器官を使って分離をはじめます。

痛みがある、痛みがない。

心地よさを与えてくれる人がいる、。

高い声の優しい感じがお母さんとこのわたし。

低い声のどっしりしたお父さんとこのわたし。

おじいちゃんとおばあちゃん。

この部屋。隣の部屋。

私のうちと、おとなりの家。


このようにして、分別、モノゴトを分けていく力

つまり分別、物事を分けるチカラ、知識が生まれました。


赤ちゃんはその情報について、最初は何かはわかりません。

暖かさと柔らかさと、ミルクがあり、目の前で動いているものと声が、

自分を守ってくれるもので、安心を与えてくれるもの。

それがお母さんだということを五感で知ります。

五感を使って、と普通に言いますが、

そこにある質感は、目や耳や肌や鼻、

舌を顕微鏡で徹底的に分解しても見つかりません。

脳を分解しても見つかりません。

ある種の電気信号や神経伝達物質は見つけることはできますが、

そこには車が走った後のタイヤの跡が残っているだけのように、

飛行機が飛んだ後の飛行機雲が残るように、

思考の影があるだけで、実体は見つからないでしょう。


見つからない、けれどもしっかりと存在している。これがかすかな体ということです。

ヨーガでは、この五感も、考え、思考の一つとして分類されます。



さて、これらの五感があることによって、考える器官が活性化するところを見ます。


生まれたての赤ちゃんには、新鮮な感覚があります。それこそが生命感です。

赤ちゃんには深い考えはないけれど、感覚、生命に満ちあふれています。

生命は出来る限り生き抜いていこうというエネルギーです。

そこで、生命が維持できないと知ると信号が発せられます。

痛みが起こります。

そこで生命のひとつであるお母さんは、まったくの自然に赤ちゃんを救おうとするのです。

おなかがすいたと泣くと、お母さんは授乳します。

そうするとお腹が満たされて心地よい感覚になります。

うんちをしておしりが気持ちが悪いと泣くと、お母さんはオムツを変えます。

そこで、赤ちゃんには自分には心地よい感覚と、苦しみという感覚があることを知ります。


ここまでは感覚の世界です。

植物や動物にも通じる生命感です。


そして様々な感覚の出来事を通じて、様々な記憶を刻むようになります。

さらにかすかな考えの始まり。考えの元素です。

赤ちゃんはまだまだ記憶の量が少ないですよね。

記憶という考えの元素は少ないのですが、

それが一定以上増えてくると、思い出すことをはじめます。

これが心地よかった。前にもあったな、と気づきます。

これが気持ち悪かった。これも前にもあったな、と分かってきます。

そうして、ここから「過去」が始まるのです。



過去の記憶が始まると、その過去の中での結果も思い出されます。

とっても苦しいからとっても泣いていたら、

あのここち良いことを与えてくれる人=お母さんがやってきて、

この苦しみを取り除いてくれた。

という過去があれば、今お腹空いていることも、

泣くことで、この苦しみを取り除けるに違いない、という「未来」の予測もはじまります。

つまり、過去が始まれば、予測が起こり、未来も始まります。

時間の始まりです。

時間が始まって、そして「私」が始まるのでしょうか……つづきます

2011年10月2日日曜日

かすかな体に、耳をすませば

ライフっていう映画を見てきました。
驚きと感動が満載の映画でしたが、とくにすごかったのが、
アリさんの農業。
ハキリアリというアリさんは、自分たちは食べもしない草を切ってせっせと巣に運ぶのです。
そこで行われているのが、地下での大規模キノコ農業。
葉っぱを発酵させて、キノコを育てているのです。
しかも立体構造の巣は、キノコから出る二酸化炭素を排出させる煙突まで用意していて、
だれがいったいぜんたい、彼らのライフスタイルを設計したのか……!
面白かったです!

やっとお久しぶりのヨーガの話。

本当は、「さぬきうどんヨーガ」の続きになりますが、
インターバルが長すぎて、麺が完全に伸びてしまってます(笑)




私は完全な自由(モクシャ)であるということを理解することが自分たちの最終目標である。
そんなことが、ヴェーダンタによって教えられました。

私とは一体何か。
この私の肉体を私と思っているけれども、
この肉体を設計した覚えもなければ、この肉体を維持している機能に携わることもできない、
実は私はこの体ではない、ということが前回までの結論です。

この体を使用するオーナーだけれど、
私自身は私の体ではないんですね。

例えば、車のように。
私sivaramは車を持っていません。使いたいときはレンタカーを借りています。
もし、持っていたとしても、それは私の道具です。
私は車を使ったりするけれども、そのエンジンや駆動関係やボディを設計したわけでもないです。
ガソリンと二酸化炭素、ひとつひとつ交換していく部品、それぞれを分解したところで、私はいないし、
あるいは、その全体の機能を見た時でも、この車にはこの私らしさは見つからないのです。


では物理的ではない体、なにか、もやもやしたものが私なんでしょうか。

ヨーガでは「かすかな体」というのを教えます。
目に見えない体です。


人の体にはプラーナというかすかな体、エネルギーがあるといいます。
「気」という言葉に置き換えられることもあります。
元気、雰囲気などの「気」です。
よく言われるオーラも普通の人には見えません。
私も見たことはありません。


見えないというのは、車に例えて言えば、電気系統のようなものです。
ガソリンと違って、電気は目には見えないのだけれど、確かに何かを動かすチカラを持っています。
メーターを使えばその数値は測ることは出来ますが、電気そのものを見ることは出来ません。
電気が光に変わることはありますが、それは光に変わったときに見えるのであって、
電気そのものではありません。
離れていると存在を感じることは難しいです。
しかし、ビリビリと感電した時、触感があります。
目には見えないのだけれど、たしかに存在しています。

ではこのかすかな体が自分なのでしょうか。


雰囲気は感情によって、心の動きによって変わります。
たしかに見えないけれど、人の持つ「気」は伝わってきます。
「考え」というのもかすかな体です。
考えこそ、この私にとって一番私らしい気がしてきます。
そうすると、この私の考えが私なのでしょうか……

つづきます