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2016年1月6日水曜日

瞑想とチャクラWS 感想2

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。
瞑想WS感想のつづきです。
ここ山手台にも申です……

瞑想とチャクラWSまとめ

全7回を終えてその回々は理解していたつもりだったのに後半からは結局瞑想とは何ぞやという考えが浮かぶようになり、そのままチャクラの回に入って怒涛の情報量に触れ、全ての回が終わった時には何が何だかわからないようになっていました。武先生の作ったノートをもう一度始めのページからおさらいして整理してみましたが改めてみても本当にたくさんの情報量で、これを7回でお勉強したのかと思うといっぺんに理解できないのは当然の事(自己肯定・笑)これだけのノートを作ってくださった武先生の仕事量とそれを支えた熱意に心底敬意を払いたいと思います。

WSのなかで得たものをあげると、知識はその分野に於いて自由にしてくれるということ。前々から持っていた、知識は自分を助けてくれるという考えをヨーガの観点からも肯定することができました。だけど忘れてはいけないのは知識にも限界があること。そして瞑想は座ってするものばかりではないということ。自転車に乗りながらでも、子育てしながらでも、できる。祈りも瞑想のひとつ。そこに意識を宿すことで毎日どこでも何をしてても瞑想になることを知りました。

それからWSに参加する度にいうことですが今回も例外なくシェアリングの大切さを実感しました。シェアリングでは自分の考えの軌道修正や自分の持ち得なかった価値観を知れました。モチベーションを高めることにも役立ちました。付き合いが長くなってきたメンバーとはお互いの成長も自分のことのように喜び感動することができました。全部ひとりで勉強していては得られない宝物です。


相変わらず3歩進んで2歩下がるヨギーニ生活ですが、今回落とし込めなかった知識も次に3歩進んだ時にはすっと入ってくることを期待して、とにかく少しずつでも学んでいきたいです。大目標(モクシャ)と中目標(好き嫌い、怒りに振り回されないきれいな心づくり、思いやり・慈悲のこころを持つ、ダルマとアダルマの存在、全ては神で私も神だということ、チャクラへの意識など)をいつも忘れないように行動に意識を宿していきたいです。

質問
  1. ノートに記載された瞑想方法が10個あります。静座瞑想①~④は座ってしかできない瞑想と理解しますが、「存在感の瞑想」「慈悲の瞑想①②」「リスペクト」「思考のラベリング」「感情と自己受容の瞑想」は必ずしも座らなくても、たとえば仕事中や料理してる時、何かのきっかけでそういうことを考えた時にもできることだと理解しても良いですか。
  2. 呼吸に意識を向ける瞑想をしようと決めて始めてもあまりに雑念が多い場合、途中でラベリングの瞑想に切り替えて続けてもいいですか。それともそういう時は一旦止めてしまったほうがいいですか。

宮平みちよ

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今回のWSも皆さんのシェアリングとともに成長していった内容となりました。
講座の中ではあまり情報過多にならないように、話す内容を厳選していたと思います。編集時間がなかったノートの方では予定していた内容ではきっと未消化になってしまうと考えて、多くの注釈が入ることになり、結果的に情報量が多くなってしまいました。あくまでの講師自身のメモということで、ご了承ください。もう一度講座を開くときには2倍の時間が欲しいです。。

*感想の中にありました「知識に限界がある」、というのは少し注釈が必要かもしれません。
その世界についての知識は、世界に限界があるために知識にも限界があります。私たちの脳の能力にも限界があるでしょう。けれども、ヨーガやヴェーダーンタが扱っている真実=知識=存在という意味での知識には限界がありません。このあたりの話はとても重要ですが、今回のテーマではなかったので深くはお話ししませんでした。


一つ目の質問について:

瞑想は座って行うのが最も安定していて、程よい緊張を保ちながらリラックスできます。
ですが、必ずしも座って行うことでなければならないわけではありません。
瞑想は大きく2つの段階があります。まずはあちらこちらに飛んでしまう考えを静かにさせていくこと。心をきれいにすること。
その先に、大切な考えに集中し熟考し、理解し、定着させていくこと
最初の段階では、無意識に忙しい心身を休めて、呼吸や行動、感覚や考えに気づいていくことによって、心と体は穏やかになってきます。ここまでのためにヨーガではヤマ(正しくないこと=アダルマをやめる)とニヤマ(正しいこと=ダルマを行う)**、そして体を動かすアーサナがあり、呼吸法があります。アーサナと呼吸法が定着しているならば、第一段階の瞑想、考えを静かにしてくことは、座っているときのほうが断然やりやすいかと思います。
質問にあった「存在感の瞑想」「慈悲の瞑想」「リスペクト」「思考のラベリング」「感情と自己受容の瞑想」などは、穏やかになった心という条件のもと、その上である特定の考えに集中し、熟考し、理解し、定着させていくこと、つまり第2段階に当てはまってきます。
第2段階においても、まずは静かに一人で座って瞑想するようなことがなければ熟考するチャンスがないかもしれません。
けれどもやがて普段の仕事や料理などでふと沸き起こる考えのなかに、これらの大切な特定の考えが浮かんでくることが自動的におきます。
この自動的にうかんでくる正しい考え、その瞬間にとどまること、これも大切な瞑想です。

*今回のWSでの瞑想法はヨーガ・ヴェーダーンタを基礎にしています。慈悲、思考のラベリングの瞑想はヴィパッサナー瞑想を参考に、リスペクト、感情と自己受容の瞑想は認知行動療法、対人関係療法、アドラー心理学などを参考にしました。
**ヤマ・ニヤマは今回のWSではお話しできませんでした。ヨーガ・スートラ第2章にある重要な瞑想のステップです。

2つ目の質問についての考え:
あまりに雑念が多い場合はラベリングするのはとても効果的だと思います。落ち着いてきたら、また呼吸に戻ってくるといいでしょう。
瞑想をすっぱりやめて、やりたい仕事、やるべき仕事を1時間ほどでさっと済ませてしまえば、その後集中しやすくなるときもあります。
正しい方法は自分の心と体に無理が起きていないかどうか、です。
無理が起きているときには呼吸が浅くなります。
正しければ必ず呼吸が深くなりますので、自分の呼吸に聞いてみるともっとも無理のない方法でできると思います。呼吸が浅いか深いかを見分けようと思ったら、普段から呼吸を観察する必要が出てきますね。これこそ瞑想かもしれません。

2015年11月23日月曜日

ワークショップと育児

いのちというのはいつも変化し続けているから生きています。

このブログは変化していなかったので、生きてはいなかったことになります。

ブログはいつもいろいろと更新していることが大切です。

ブログの方は生きてはいませんでしたが、

ブログの書き手の方は、日々の変化でした。

あまりの変化についていくのが精一杯。

このように文章にすることができるのはうれしいかぎりです。


さて、2月に子どもが誕生し、

しばらくして(無茶なことに)

6月からこの11月までチャクラ&瞑想ワークショップをおこなっていました。

ひと月に一度のペースでした。

教えようとすると、気づくことが多く、

結果、学ぶことが多いのです。

ですから、ワークショップが開催できた事自体が、感謝でいっぱいです。


今回、子どもの誕生、成長を見て、人について理解したことがたくさんありました。

全くの純粋で無垢な基本的土台となる人間、それが赤ん坊です。

自然そのままの人は、プログラミングだけで成長していきます。

それらの成長にはネコなどの動物とはまた違う知性の成長があり、

その成長はとても興味深いものです。

すさまじい速度での成長が起きていますが、

あたりまえ、ではない、驚異的な成長です。

例えば、指を刺して対象を見て声を出す、といったこと。

これらは積み重ねてきた観察、興味、想像、他者との関わり、それらの喜びから、突如として表現に変わります。

その表現の方法は、教えなくとも、模倣から始まっているようです。

模倣することも教えたわけではありません。

プログラミングは本能ともいえますが、その本能=自然がもつ力を元にして、

人はさらに自我という能力を身につけていきます。

この自我の始まりがさらにおもしろいのではないか、といまからとても期待しているのです。

「好き」「嫌い」
「良い」「悪い」
そして喜怒哀楽の感情。

これらの人間らしい表現、考えがどのように発生し、

何を目的としているのか。

役に立っていること、その反面の苦しみや悲しみを生む過程を見ていきたいです。

さらにどのように自我を調整していくのか。

また、このブログで報告できればいいな、と思います。

せっかく育児をしているのですから。

(ある時イクメンと言われ、なんだそりゃ?と思ったら、育児をする男性(メンズ)の事を言うのですよね。ジョン・レノンのように、素敵な曲などを作りながら育児してみたいものです)

2011年7月27日水曜日

調和する生き方……ダルマで成長!

前回、ダルマの説明が中途半端でしたー。

今回は、さらに、ダルマを望むということは、成長である、というお話です


いろいろなひとが、安全や喜びを求めています。
さらに、ダルマ、自然の法則を見つけていくことに、喜びを感じ始めます。


カメラマン・写真家の例で言えば、
写真家と被写体とは関係性があることをまず知ります。
そして、写真家は被写体が自分の意図を超えたものであることであると知ります。

写真を取るときには、その場所・被写体への敬意を払って、
自分が撮らせていただくという立場を忘れずに、
その時、瞬間の贈り物を正しく受け取るようになります。
自然のメッセージをそこに見ることになるのです。
ダルマを感じた写真家は、その瞬間、人智を超えた自然の神秘、正しさ、美しさ、繊細さ、ダイナミックさを写真に込めます。正しく多くの人に伝わるように、技術を尽くして。

受け取った人たちは、自然に敬意、尊重、感動を知ることになるのです。


これが、ネイチャーカメラマンのダルマと言えます。


ダルマ=自然や宇宙の法則を見つけて
自然の法則、宇宙の法則に従って
その関係性、秩序の中で、
その世界に対して役に立つことを見つけていくこと。
これに対して喜びを見つけていくのは、探究心があるカメラマンの資質の最高のものです。
この資質は成長への喜びへとつながります。


数学者は、数学の中に正しい自然のダルマを見つけていくことに喜びを感じています。

物理学者は物理の中に壮大な自然のダルマを見つけていくことに喜びを感じています。

作家は物語の中に人間のエネルギーのダルマを見つけていくことに喜びを感じています。

絵かきは筆と絵の具でキャンバスに自分を超えたダルマを見つけては筆を取ります

医者はお金儲けを度外視してまでも多くの人が救われるようにダルマを見つけては日々働きます。

料理人は、愛情に満ちた食材を目の前にして、食する人の顔を浮かべながら、そのように調理すれば様々な人の自然の食材との接点が結べるかを探ります。

百姓は、太陽と月と水と大地と風の中で、植物の持つエネルギーを最大限活かして、おいしいと思ってもらえるような作品を探っています。

法則は何なのかを確かめていくこと、確認していくこと、
わたしたちがその法則の中に生かされていることを発見していくのです。
これまでは、安全や喜びに生きてきた私たちは、その奥に、宇宙の法則があることを
見つけていきます。

これら、眼に見えるものから、眼に見えないものまで、宇宙の法則、ダルマ
を見つけていくことは、わたしたちの第3番目の望みになります。

逆にダルマに沿わない生き方は可能でしょうか。
私たちは大きなこの宇宙の法則に逆らう、という自由選択があります。
それも人間は可能です。
人間だけは、ダルマに沿わない生き方があるのです。
ダルマをコントロールしようというのが、現代の社会における基本になっているかもしれません。
近代、現代科学、経済、哲学も、ダルマを人間の都合の良いように解釈して、変更を加えています。




アルタ=安全、カーマ=喜びを目的にする生き方をダルマにも応用しているのです。


ニュースを眺めていると、人々のほとんどの生き方が、そのように見えます。
そして、ダルマに沿っていないものが、たくさんあるようです。



さて、もともとの話の発端ですが、
ヨーガとこのダルマはつながるでしょうか。

答えは、はい、つながります。

このダルマとつながっていく生き方はヨーガの生き方のまず第一歩です。

2011年7月18日月曜日

ヨーガって何? 私たちの望み…3

さて、前回、ヨーガとは結ぶ、という語源からきているという話で始まりました。
何を結ぶのか、というと、まず、「私」があります。
もう一方に何があるのか、が問題でしたね。

一つの候補としては「安全」(サンスクリット語ではアルタ अर्थ artha)です。
つまり、生きていくことの基礎ですね。
もうひとつは「喜び」=カーマ (काम kaama)  です。
これだけでも、わたしたちが生きている意味をたくさん感じられると思います。

しかし、ヨーガのもっとも重要な教え、ヴェーダンタでは、3つめがあるといいます。
この3つ目の私たちの望みとはなんでしょう?

3つ目はダルマ (धर्म dharma )といいます。
簡単にいえば法則、とでもいうのでしょうか。
ダルマ、法則は人間の決めていった「法律」ではなく、
この自然や宇宙の法則のことになります。

はたして、この自然、宇宙の法則ってどのようなことでしょうか。
こんなものをみんなが求めているのでしょうか?

たとえ話を考えてみました。

今、ここで、わたしは、写真家です。ネイチャーカメラマンです。
まず、写真家は、何かの状況を説明しようとカメラを持って、被写体に迫り、シャッターを切ります。
私は世界的にも有名な、奈良の吉野山の桜の風景を撮ります。

写真を撮って、現像して、その写真が一定のクオリティを持っていることが、売り物になり、お金になり、自分の生計を満たしてくれます。つまり、私の望みの一つである「安全=アルタ अर्थ」が写真によって満たされます。

一つ目が満たされましたが、私は写真家ですから、それだけでは満足しません。

すてきな写真を撮ることで、それが掲載されて、
それを見た誰かが「ああ、こんなところにいってみたいなぁ」なんて感想をもらって、
あるいは、何かの賞をもらったりして、
自分の写真を認めてもらうことができたら、
これは私の望みの一つである「喜び=カーマ」を得ることが出来ます。
私は、誰かに認められることで、自分を確かめることができるからです。
仕事で自分を認めてもらうことは、自分の存在を確認できることになるのです。


まだその上に、写真家は追求するべきものがあります。
いよいよ、ダルマを見つけるのです

それまでは、写真家にとって被写体は「私」が狙ってコントロールしている対象でした。
「私がそのサクラを撮ってやろう」と思っていたのです。

ところが、ダルマを見つけようとしている写真家にとって、
被写体と「私」とは共同作業者の関係になります。
この関係性の中で、写真を撮るということは、「私」が「写真を撮る」というのではなくなります。
なぜならば、被写体は「私」の思い通りになることはないからです。

サクラは、その時何百年もの生命をつないで、毎年訪れてくる季節の移り変わりを感じて、
いまここに花開いています。
今年はいつもよりも寒い冬だったかもしれません。
いつもよりも雪が多かったかもしれません。
つぼみは固く、でも確実に春に向けて膨らんでいきます。
そしていよいよこの春を迎えました。
サクラの咲き具合は、場所場所によって、違っています。
日当たりのいいところは早めに咲き始めますし、日陰になりがちなところは遅いのです。
また木一本一本によって、その性格も枝ぶりも違っています。
花には裏年、表年といって、咲き具合は年ごとに違いを見せます。
裏年の次の年だからといって、その年にたくさん花をつける、ということでもありません。

撮影のその日、狙っていた青空ではないかもしれません。
人通りは少ないほうがいいと思っていたところで、早めに団体客が来ているかもしれませんし、
あるいは観光客がたくさん来ているところを撮ろうと思っていても、その日はなぜか少ない時にあたってしまうかもしれません。


ダルマを理解している写真家であれば、
その時に出会うサクラや空や風や太陽、霧や朝もやも、雲も雨も、花見客の様子も、店先の賑わいも、観察しています。そして、その時の様々な条件の組み合わせでしかありえない、たった一枚の写真を撮ります。

これは、写真家が観察しているだけで、撮れるのではなく、
世界がそのようにあるから、そして写真家がその存在を観察しているときに成り立ちます。

写真を撮る(世界を自分の思うようにコントロールしようとする)、のではなく
写真を撮るチャンスを与えられる(世界を知り、自分がその世界との関係の中で生きている)ことを知ります。
その写真家は自分と世界の関係性を知るのです。

自分を含めた世界や宇宙には、目に見える関係性があります。
また、目に見えない関係性もあります。

関係性は、空間や時間の中で一つの秩序を持ちます。

サクラと季節には関係性があります。

季節は地球の回転と関係性があります。
地球の回転は宇宙と関係性があります。
宇宙は時間と空間の関係性があり、

時間と空間は、別別のものではなく、一つのエネルギーであることを
物理学の法則によって明らかになり、

このエネルギーはこの私の身体にも、
サクラの花びらにも、
バクテリアにも、
細胞にも、
DNAにも、
アミノ酸にも、
原子にも、
素粒子にもあることを知るようになりました。

これらの関係性、秩序、自然・宇宙の法則をダルマというのです。

私たちが生きているということは、
ここに存在しているということは、
宇宙的なエネルギーが、それぞればらばらではなく、
ひとつの調和と秩序を持って、
さまざまな関係性の中でのバランスを保つことで、

たとえ、そんなバランスを保つ力はどこからきて、どこへ去っていくのかを知らなくとも、

素晴らしい法則があることによって、
ここにこうしていることができます。

ヨーガを行う人、ヨーギーやヨギーニは、このダルマをまず見つけようとして、
このダルマに沿って生きることを一つの目標とします。



ところで、今日はヨーガ堂・山部が山登りに行こうとしていた日でした。
台風が来たから中止になったのです。

「あー山に行きたかったー」
とガッカリしていますか?

ガッカリですよね。

そんなときはめいいっぱいガッカリ気分を観察して、
そのあと、お茶を淹れて、
今日のダルマを発見してみませんか?


写真家が雨の日でも、いろんな発見をして、その時にしか出来ない仕事をするように、

ヨーギーは台風のときに、
台風でしか見られないダルマを見つけようとするのです。

2011年7月1日金曜日

Sivananda Yoga WS スワミ・マハデヴァナンダ 講演

Sivananda Yoga Tokyo Center高円寺オープンを記念して
大阪WSが無事終わりました!!


世界的には大きな組織になっているシヴァナンダヨーガ。
日本ではまだまだ知られていないのですが、今回6月27日の大阪WSでは、予想をはるかに上回る参加をいただきありがとうございました。
こんなに関西にシヴァナンダヨーガをされている人達がいることに驚きました。
そしてみなさんにお会いできたことが嬉しかったです。
それからタイTTCでお世話になった紀子さん、マリオ、イシャンに再会できたこと、
今回のことで、新しくシヴァナンダの友人、ファミリーになった人たちに出会えて、幸せでした。

これを機会に……
ある友人に早く書きなさいとお尻を叩かれてやっとのこと…
ヨーガ堂・土-tsuchi-(大阪茨木市で小さなヨーガ教室をしています)
のブログを開設したいと思いました!
自分でパチパチ!
ブログ・日記が非常に苦手なのですが、トライしてみます。

ヨーガ(サンスクリット語ではヨーガと発音したほうがより近いので、ここではヨーガと書きます。ヨガでも間違いじゃないです)は、コマーシャルでも、ヨーガのイメージが使われるようになり、本当に誰にでも知られるようになってきました。
ヨーガを教えていて感じることは、多くの人が、健康とか自然な生活とか、たくさんの人の志向が自分自身へと、そして自分と環境とのかかわりへと向かうようになっていることだと思います。

そんな中、今回初めての関西でのスワミ・マハデヴァナンダの講演では「祈りの力」というテーマでお話ししていただきました。
祈りも自分自身や環境とのかかわりを感じる、とっても内面的な作業です。
実は、スワミ・マハデヴァナンダジを始め、世界中の人達は今回の震災、原発の事件に関してたくさんの祈りをしていただいていました。

それにしてもヨーガと祈り、ってなかなか難しいテーマでしたよね。
いや難しいのです。特に現代人、日本人にとっては。
祈り…って現代の日本人にとっては、もっとも遠い存在かもしれません。


Sivaram(このブログを書いている本人です)が10年前、アジアからアフリカ、中東を1年と7ヶ月旅したとき感じたことは、
「祈りは生活、人が生きることそのもの」
でした。

チベットの荒野ではなーんにもない大高原にいきなり石が積んであって、カラフルな旗がぽかんとした青空にたなびいていて、どんなところにも祈りが込められていました。
そんな荒野を何百キロも自分の体を地面に倒して進んで(五体投地で)、
聖地を目指して巡礼する人たち…。
「そーなんだよなー…これがチベットだー」としみじみ感動したものです。
インドでは毎日ガンジス川で沐浴している人がいて、
葉っぱの上に花と小さな灯火を川に流していて…。
プージャ、儀式があって。
アフリカ・エチオピアでは、古代のキリスト教が残っていて、それこそなーんにもない岩だらけの荒野に現れる岩山の上に洞穴を作って、ずっと、ずっと、お祈りをしているのです。

トルコ・カッパドキアも、お祈りの場所でした。

スーダンやエジプトの街中にはモスクの祈りの声が流れていて、

ケニアやタンザニア、ウガンダには、大地を素足で歩いている人たちの生きる姿が、
そのもの自然と融け合っていて、プリミティブな祈りがあったような気がします。

日本に帰って10年くらい経つと、世界はそうだったなぁくらいになってしまいました。

日本の生活は祈りが本当に少ないのです。
でもきっと、50年も経たない昔ならば、日本でも当たり前だったと思うです。
いまだって少しは痕跡があります。
田舎にいくと、田んぼの脇の道祖神なんかありますよね。
千と千尋の神隠しの最初のシーンにありますよね。
うちの近く、安威にはちゃんと田んぼの横にあります。

なぜ人は祈るのでしょう。

逆に言うと、

人は、人だから祈ります。
動物は祈るでしょうか?
うちには黒猫の秋さんがいますが、見ていてもどうも祈っていないようです。
動物は、祈らないですよね。


農業をしている人は特にわかるとおもうのです。



苗を育てるところから、土と水の力を知って、温度が季節によって変わって、どのくらいの日にちだったら、作付けするのに適していて……、虫がいて、病気があって
大風や大雨や低温や日照り…
自然力を知っていてもなお、コントロール出来ないことがあります。

自然の力は自分たちの考えをはるかに超えています。

この時、人は自分を越えている大きな法則があることがわかります。
これをヨーガではダルマと言ってます。
私たちは、成長を経て、
このダルマ、自然の法則に逆らわないことを学びます。
どれだけ、豊かな人でもダルマに逆らうことは叶わないです。
たとえばアメリカの大統領だって、アップルのスティーブ・ジョブズだってダルマに逆らうことは出来ません。
政府がどれだけ政策を考えても、
ダルマ、自然の法則に勝てっこないのです。

人は必ず死ぬ、というのも大きなダルマです。大統領だって変えることは出来ません。

原発でも、部分的に人の力を使っていますが、
もともとは、自然・宇宙の本来持っている莫大なエネルギーです。

燃料がメルトダウンして、
格納器を飛び出してメルトスルーしているか、
巨大なエネルギーを出している放射線があまりにも危なっかしくて、
人間ではカメラとか装置を設置することもできなくなっていて、
少し離れた環境の変化から、きっとこうなんじゃないかなーという曖昧な推測でしか、自然のエネルギーを測ることが出来ない状態です。
誰も直接見に行くことができないのです。

こんなふうに、小さなことでも、大きなことでも、環境を、きっと人をも、
コントロールする、ということは出来ない、といこともダルマです。

だからまず、自分たちは自然の法則を謙虚に学ぶ姿勢が必要です。

そして、自分たちは思い通りに自然を、何かをコントロール出来ないことを知らなければ行けないのです。

では、いったい「祈り」とはどういうことなんでしょう。
コントロール出来ないことを祈るのは無意味じゃないでしょうか?

祈りは個人の心を使って、ダルマ、自然の法則に直接アクセスしようとする試みです。

自然の法則にアクセスすればダルマは変わるでしょうか?
きっとダルマは、祈ったところでダルマ、自然の法則のとおり働くでしょう。
(ダルマに沿った祈りは、もちろん行為=祈りに対する答え=リアクションがあります)

では祈りで変わるのは、何でしょう。

まず、個人の心が変わります。

祈りによってダルマにアクセスすると、自分の心がダルマに沿ったものへと変化します。
わたしたちは台風で風に飛ばされるかもしれない稲穂に対して祈ることによって、
自分たちの力でのみ生きていると思い込んでいることを間違いだなーと悟ります。

原発の話で言えば、私たちのからだは、強い放射能に耐えることは出来ないなーということ、
こういったアタリマエのことを祈りによって実感するはずです。

祈りによって理解されることは、
生きていることそのものが祝福なんだな、
ありがたいなぁなんて感じること。
そして他の生き物のためにも、
自然、ダルマに逆らわないでおこうよ、

という選択がわたしたちの中で生まれてきます。
そういう考え、選択が普通に、自然に生まれてきます。

祈りによっておこることは、それ以外にもまだまだあります。

でも今日はこの辺で。

ダルマの説明は難しいよねーっとシヴァナンダヨーガ東京センターのマリオに話をしたら、
(マリオはとってもピュアな眼をもったフランス系のカナダ人で、間違いなく世界でトップクラスのヨーガの修行を積んでいる素敵なヨギーです。)

みんなダルマを「法」って言うから、自由を縛り付けるモノと解釈しがちで、
これはなんだかしたいことを止められるような嫌な感じするよね。
でも、ダルマは「自然な流れのこと」だよ、
と教えてくれました。
流れに逆らうと、大変だよね。
流れに乗っていると、ほら、楽に泳げるじゃない。
と。
マリオが言うと、魔法にかかったように「そうだそうだ、うーん納得するー」と感動してしまいます。

あ、僕のリスニング能力ではそう聞こえました。まちがっていたらごめんなさい。

長い文章になりました!
息切れしないように続けていきますね。

Hari Om Tat Sat