2011年8月13日土曜日

讃岐うどんヨーガ

以前、香川県に行ったときに、
ここはおいしいよ、という評判の讃岐うどん店を回ったことがあります。
有名店ばかりでしたが、どこもおいしい。
素人でも少しずつ麺とかの違いが分かったりして、おもしろかったです。

あまり知られていないようなところ、麺工場でそのままセルフサービスで出してくれるようなところとか、いろいろあるみたいなのですが、ぜひまた行ってみたいです。


ちなみに、
その時に、一番美味しいうどん!と思ったのが、
香川県ではなく、高知県で立ち寄ったお店。
黒潮町のいろりやでした。

店主さんにお話を聞いてみたら、
国産小麦を使って時間をかけた発酵をさせているとか。
ちょうど1週間低温熟成発酵の自家製パンに凝っていたので、
お話が面白かった!

麺はむっちりしていて旨みがありました。ツユもいい。
天ぷらの野菜も最高においしかったのです。

こんなことを書いていると、
本場の讃岐うどんが食べたい!ですよね。

最近は大阪にもいくつか讃岐うどん店はあります。
「はなまるうどん」はチェーンのセルフうどん店では、
今のところダントツにおいしいと思っているところです。


で、ここからいきなりヨーガの話になります。
はなまるうどんには、テーブルにパンフレットが置いてあるのですが、
このなかに衝撃的コピーがあるのを発見したのです。

うどんを食べる箸が思わず止まってしまいました。

そこにあった言葉は……

セルフって、気軽。
セルフって、自由。
セルフって、本場。


セルフというのは普通一般的はセルフサービスのことですから、
なんてことはないかもしれません。

ところが、ヨーガ、ヴェーダンタを勉強するものには、ガガガーーん、
とうなるほどのキャッチコピー!

これは、すごい。
ぜひ使わせていただきたい言葉なのです。

で、どうして?

となるのですが、スイマセン、説明不足ですが、またの機会に!
なんのことかわからないままですが、讃岐うどんはヨーガだったということで。
ごめんなさい(笑)

2011年8月4日木曜日

私という大問題



私とは誰か?

という大疑問に一生を費やした人がインドの聖者にいます。
南インドのアルナーチャラという山麓にいらした、ラマナ・マハルシ師です。

1896年、16歳だったラマナ少年は、それまで普通の男の子だったといいます。
6月17日、なんの前触れもなく突然家でバッタリ倒れて、死の恐怖に取りつかれてしまいます。
そして、次の瞬間には、自分の本質が何かを突き止めることに至りました。

普通の学校生活を送ることができなくなったラマナ少年は
とうとう家出してしまいました。
そしてシヴァの神がいらっしゃると聞いていたアルナーチャラ山に向かいます。
たった一人、神殿の奥で、誰とも会話をせず(マウナ:黙想)、
食べ物も食べず、時々心配した村人からの差し入れを無理やり口に入れてもらって、
足は虫に食われて傷だらけになりながらも、瞑想を続けたのです。

この時、ラマナ・マハルシは、
どこに行ったのでしょうか。




実は……どこにも行かなかったのです。
いままでも、いまも、これからも、
ほとんどの人が探さない場所、
自我を超えた、
本当の自分自身の本質、
いま、ここにいたのです。


少年はこのとき、自分の内側で、心の内側に平和を見ていました。
その平和があまりに素晴らしかったので、肉体や外側への興味を失ってしまったのです。
もしかすると、ここで肉体を捨てることもありえたかもしれません。
けれども、少年はこの世界に戻ってくることになりました。
多くの人が、少年におこっていることが、普通の体験ではないことに気づいて、
それを教えて欲しいと請うようになったからです。

最初、ラマナ少年にはその体験について伝える言葉はありませんでした。
言葉にならなかったのだと思います。
それは、言葉を超えた体験だったからです。
多くの信者が彼に問い掛けました。
賢者も少年に語りかけました。
その言葉が、少年の心から何かを引き出したのだと思います。
そして、彼はヴェーダンタの聖典の中に現れる言葉こそが、
自分の体験を語る道具として、ぴったりだということを発見したのです。

ヴェーダンタとは、その昔、太古の人々が神々から伝えてきた聖典です。
ブッダが現れ、その後に聖者シャンカラチャリアが解説を加えて、
確立させたインド最高の哲学です。


何年も経ってから、その体験を語るようになりました。

ラマナ・マハルシはこう言います。
「私とは誰か」
を私自身に問いかけていくことが、本当の私に到達する道のひとつですよ、と。

暗闇の海原に灯されて道を照らしてくれる灯台のように、
ラマナ・マハルシが体験したことをひとつの希望の星として、
そしてヴェーダンタの聖典に記された海図を読み解くことで、
自分たちにもこの世界の波を漕ぎ出す勇気を持てるのです。

ところで、今年2月からインドに行って、ヨーガ修行してきたのですが、
3月にこのアルナーチャラの山とラマナアシュラムに滞在してきました。
ラマナ・マハルシがいらっしゃった洞窟で瞑想をして、
夕方に宿に戻ってきたら、宿のおばさんが、
「たいへんだよ、日本がtsunamiだって!」
というから、インターネットを見たら…
そう3月11日の大地震がおきていたのです。





それでも、ぼくたちの生きているこの世界と、
そしてラマナ・マハルシが指し示した私と、
それは、本当は同じなんだよ。
ということを、ラマナ・マハルシは語っているように感じました。

はい、おじいちゃん(爺ちゃんの顔にちょっと似ている)がんばって修行します!

2011年8月1日月曜日

瞑想ワークショップ終了

昨日、瞑想ワークショップでした。
来ていただいた方、ありがとうございました。
sivanandaでの瞑想ステップと、ヴェーダンタで学んできたこと、モクシャについてなど、
内容の非常に濃い講義と、少しずつの実践に挑戦して頂きました。

3時間にも及ぶ長時間でしたが、みなさん真剣に参加していただき、とてもうれしかったです。


……3時間は長いですよね。


終わって、すこし話をしていたら、
「次はいつやりますか?」と聞かれました。

すごいです。その熱心さがすばらしい。


もっともっとわかりやすく伝えていきたいと思いました。

今回のワークショップの振り返りクラス+実践がしたいなぁと思ったのですが、
どうでしょう……?

2011年7月31日日曜日

フカヒレを食べながら、最後の私たちの願い

今日は普段行かない一流高級ホテルへ。
丸坊主姿。着ていく服がない…。
でも、ヨギーですので、気にしないで、インド製の綿シャツです。
そこで、カーマ喜びがたくさんの中華料理をいただきました。
およばれで、あれこれ自分では注文しなかったので、
鶏もあったし、フカヒレなんぞもいただいて、
普段ベジタリアンのヨギーとしては、美味しくも、胸が痛む、いやおいしい、
とろぉり、ねっとり、濃厚なスープ。そしてネギとなぜか安価なモヤシ…
ああ、こんなものを食ったら、千と千尋のお父さんになってしまう…、
えーい今日は気にするな、
ビールがおいしい!
という夕食でした。


そんなアダルマでラジャシックな私で、なんですが、前回の続きです。
(アダルマ=自然の法則に従っていない。ヨギーは動物性のものを食べることを避けているため。ラジャシック=激しい調子)

ここまでで、私たちが生きている間で望んでいることをひとつひとつ明らかにしてきました。

一つは、長生きができて(アルタ:安全)、
そして、楽しみ(カーマ)もたくさんあって、
その先に、
自然とか世界の人たちとの関係性の中で、
できるだけの自分の役割を果たして、
何かの役に立って(ダルマ:宇宙の法則を求めて)、


さて、最後の望みです。
私たち、自分の本当の望みとはなになのか……

最後の望みは、

わたしとは、いったい、誰なのか?
私はナニモノか!?

を知りたい!ということではないでしょうか。

ここは、哲学です。
この件に関しては、誰もあまり触れたがらない。
昔、お父さんに尋ねたような気がします。
自分とは何なのか。
でもね、大人はずるいので、誰も答えてくれないのです。
きっと答えがないからです。


ところが、そこのところをヨーガは教えてくれます。

生まれてきた理由は何なのか。
ここに私がいる理由は。
長生きをする私は誰なのか。
楽しんでいる私は誰なのか。
嘘をつく私は誰で、
人を騙す私は誰で、
悲しみにくれる私は誰なのか。
自然に親しむ私は誰で、
だれかのために一肌脱いでいる私は誰なのか。
そして、この死にゆく私は誰なのか。



ヨーガは人々の最後の願いは何なのかも明らかにします。

私とは、本来は、完全な自由、モークシャである。
というのが、ヨーガ、ヴェーダンタの答えです。

この時、ヴェーダンタでいう「自由」という言葉自体が、
一般の言葉からはかけ離れています。

完全な自由、ということなので、さらに難しい。

完全ということは、不完全ではない、限りがないということです。

いやいや、いやいや
限りということでは、自分たちは「限り」ばかりに日々気づいています。


朝起きるときは、もっと眠りたい、時間という限りに気づくことから始まります。
出来るだけ駅まで早く着きたい、それは距離という限りに気づいていることです。
速く走るにも肉体に限界があり、
多く仕事をこなそうとしても、頭の限界があります。
財布の中身には限界があり、
わたしの美しさにも限界があり(笑)
過去を、高学歴に変えるわけにも行かず、
バイリンガルが良かったなーといっても親を変えるわけにも行きません。
だから外国に行けば、言葉の壁があり、
職業を変えてみようかな、といってもなかなか簡単にはいかないのです。

そんな限りばかり、限界ばかりの私たち

そんな私の本質は、
本当は「完全な自由」、モークシャ
である、とヨーガは教えてくれます。

すばらしい結論!
あるいは、
ほんとなの? ぶっとんでいませんか?
なんだか甘い香りのする言葉?
そう思うのはあたりまえだと思います。

だから、だまされないようにしましょう(笑)、
自分たちが一つ一つ確かめながら、
学んでいく事がらです。

ですので、まずは、ヨーガは、健康ではなく、美容ではなく、
最後はモクシャを求めているんだなぁ
ということが、なんとなく理解できればそれでいいと思うです。

2011年7月27日水曜日

調和する生き方……ダルマで成長!

前回、ダルマの説明が中途半端でしたー。

今回は、さらに、ダルマを望むということは、成長である、というお話です


いろいろなひとが、安全や喜びを求めています。
さらに、ダルマ、自然の法則を見つけていくことに、喜びを感じ始めます。


カメラマン・写真家の例で言えば、
写真家と被写体とは関係性があることをまず知ります。
そして、写真家は被写体が自分の意図を超えたものであることであると知ります。

写真を取るときには、その場所・被写体への敬意を払って、
自分が撮らせていただくという立場を忘れずに、
その時、瞬間の贈り物を正しく受け取るようになります。
自然のメッセージをそこに見ることになるのです。
ダルマを感じた写真家は、その瞬間、人智を超えた自然の神秘、正しさ、美しさ、繊細さ、ダイナミックさを写真に込めます。正しく多くの人に伝わるように、技術を尽くして。

受け取った人たちは、自然に敬意、尊重、感動を知ることになるのです。


これが、ネイチャーカメラマンのダルマと言えます。


ダルマ=自然や宇宙の法則を見つけて
自然の法則、宇宙の法則に従って
その関係性、秩序の中で、
その世界に対して役に立つことを見つけていくこと。
これに対して喜びを見つけていくのは、探究心があるカメラマンの資質の最高のものです。
この資質は成長への喜びへとつながります。


数学者は、数学の中に正しい自然のダルマを見つけていくことに喜びを感じています。

物理学者は物理の中に壮大な自然のダルマを見つけていくことに喜びを感じています。

作家は物語の中に人間のエネルギーのダルマを見つけていくことに喜びを感じています。

絵かきは筆と絵の具でキャンバスに自分を超えたダルマを見つけては筆を取ります

医者はお金儲けを度外視してまでも多くの人が救われるようにダルマを見つけては日々働きます。

料理人は、愛情に満ちた食材を目の前にして、食する人の顔を浮かべながら、そのように調理すれば様々な人の自然の食材との接点が結べるかを探ります。

百姓は、太陽と月と水と大地と風の中で、植物の持つエネルギーを最大限活かして、おいしいと思ってもらえるような作品を探っています。

法則は何なのかを確かめていくこと、確認していくこと、
わたしたちがその法則の中に生かされていることを発見していくのです。
これまでは、安全や喜びに生きてきた私たちは、その奥に、宇宙の法則があることを
見つけていきます。

これら、眼に見えるものから、眼に見えないものまで、宇宙の法則、ダルマ
を見つけていくことは、わたしたちの第3番目の望みになります。

逆にダルマに沿わない生き方は可能でしょうか。
私たちは大きなこの宇宙の法則に逆らう、という自由選択があります。
それも人間は可能です。
人間だけは、ダルマに沿わない生き方があるのです。
ダルマをコントロールしようというのが、現代の社会における基本になっているかもしれません。
近代、現代科学、経済、哲学も、ダルマを人間の都合の良いように解釈して、変更を加えています。




アルタ=安全、カーマ=喜びを目的にする生き方をダルマにも応用しているのです。


ニュースを眺めていると、人々のほとんどの生き方が、そのように見えます。
そして、ダルマに沿っていないものが、たくさんあるようです。



さて、もともとの話の発端ですが、
ヨーガとこのダルマはつながるでしょうか。

答えは、はい、つながります。

このダルマとつながっていく生き方はヨーガの生き方のまず第一歩です。

2011年7月18日月曜日

ヨーガって何? 私たちの望み…3

さて、前回、ヨーガとは結ぶ、という語源からきているという話で始まりました。
何を結ぶのか、というと、まず、「私」があります。
もう一方に何があるのか、が問題でしたね。

一つの候補としては「安全」(サンスクリット語ではアルタ अर्थ artha)です。
つまり、生きていくことの基礎ですね。
もうひとつは「喜び」=カーマ (काम kaama)  です。
これだけでも、わたしたちが生きている意味をたくさん感じられると思います。

しかし、ヨーガのもっとも重要な教え、ヴェーダンタでは、3つめがあるといいます。
この3つ目の私たちの望みとはなんでしょう?

3つ目はダルマ (धर्म dharma )といいます。
簡単にいえば法則、とでもいうのでしょうか。
ダルマ、法則は人間の決めていった「法律」ではなく、
この自然や宇宙の法則のことになります。

はたして、この自然、宇宙の法則ってどのようなことでしょうか。
こんなものをみんなが求めているのでしょうか?

たとえ話を考えてみました。

今、ここで、わたしは、写真家です。ネイチャーカメラマンです。
まず、写真家は、何かの状況を説明しようとカメラを持って、被写体に迫り、シャッターを切ります。
私は世界的にも有名な、奈良の吉野山の桜の風景を撮ります。

写真を撮って、現像して、その写真が一定のクオリティを持っていることが、売り物になり、お金になり、自分の生計を満たしてくれます。つまり、私の望みの一つである「安全=アルタ अर्थ」が写真によって満たされます。

一つ目が満たされましたが、私は写真家ですから、それだけでは満足しません。

すてきな写真を撮ることで、それが掲載されて、
それを見た誰かが「ああ、こんなところにいってみたいなぁ」なんて感想をもらって、
あるいは、何かの賞をもらったりして、
自分の写真を認めてもらうことができたら、
これは私の望みの一つである「喜び=カーマ」を得ることが出来ます。
私は、誰かに認められることで、自分を確かめることができるからです。
仕事で自分を認めてもらうことは、自分の存在を確認できることになるのです。


まだその上に、写真家は追求するべきものがあります。
いよいよ、ダルマを見つけるのです

それまでは、写真家にとって被写体は「私」が狙ってコントロールしている対象でした。
「私がそのサクラを撮ってやろう」と思っていたのです。

ところが、ダルマを見つけようとしている写真家にとって、
被写体と「私」とは共同作業者の関係になります。
この関係性の中で、写真を撮るということは、「私」が「写真を撮る」というのではなくなります。
なぜならば、被写体は「私」の思い通りになることはないからです。

サクラは、その時何百年もの生命をつないで、毎年訪れてくる季節の移り変わりを感じて、
いまここに花開いています。
今年はいつもよりも寒い冬だったかもしれません。
いつもよりも雪が多かったかもしれません。
つぼみは固く、でも確実に春に向けて膨らんでいきます。
そしていよいよこの春を迎えました。
サクラの咲き具合は、場所場所によって、違っています。
日当たりのいいところは早めに咲き始めますし、日陰になりがちなところは遅いのです。
また木一本一本によって、その性格も枝ぶりも違っています。
花には裏年、表年といって、咲き具合は年ごとに違いを見せます。
裏年の次の年だからといって、その年にたくさん花をつける、ということでもありません。

撮影のその日、狙っていた青空ではないかもしれません。
人通りは少ないほうがいいと思っていたところで、早めに団体客が来ているかもしれませんし、
あるいは観光客がたくさん来ているところを撮ろうと思っていても、その日はなぜか少ない時にあたってしまうかもしれません。


ダルマを理解している写真家であれば、
その時に出会うサクラや空や風や太陽、霧や朝もやも、雲も雨も、花見客の様子も、店先の賑わいも、観察しています。そして、その時の様々な条件の組み合わせでしかありえない、たった一枚の写真を撮ります。

これは、写真家が観察しているだけで、撮れるのではなく、
世界がそのようにあるから、そして写真家がその存在を観察しているときに成り立ちます。

写真を撮る(世界を自分の思うようにコントロールしようとする)、のではなく
写真を撮るチャンスを与えられる(世界を知り、自分がその世界との関係の中で生きている)ことを知ります。
その写真家は自分と世界の関係性を知るのです。

自分を含めた世界や宇宙には、目に見える関係性があります。
また、目に見えない関係性もあります。

関係性は、空間や時間の中で一つの秩序を持ちます。

サクラと季節には関係性があります。

季節は地球の回転と関係性があります。
地球の回転は宇宙と関係性があります。
宇宙は時間と空間の関係性があり、

時間と空間は、別別のものではなく、一つのエネルギーであることを
物理学の法則によって明らかになり、

このエネルギーはこの私の身体にも、
サクラの花びらにも、
バクテリアにも、
細胞にも、
DNAにも、
アミノ酸にも、
原子にも、
素粒子にもあることを知るようになりました。

これらの関係性、秩序、自然・宇宙の法則をダルマというのです。

私たちが生きているということは、
ここに存在しているということは、
宇宙的なエネルギーが、それぞればらばらではなく、
ひとつの調和と秩序を持って、
さまざまな関係性の中でのバランスを保つことで、

たとえ、そんなバランスを保つ力はどこからきて、どこへ去っていくのかを知らなくとも、

素晴らしい法則があることによって、
ここにこうしていることができます。

ヨーガを行う人、ヨーギーやヨギーニは、このダルマをまず見つけようとして、
このダルマに沿って生きることを一つの目標とします。



ところで、今日はヨーガ堂・山部が山登りに行こうとしていた日でした。
台風が来たから中止になったのです。

「あー山に行きたかったー」
とガッカリしていますか?

ガッカリですよね。

そんなときはめいいっぱいガッカリ気分を観察して、
そのあと、お茶を淹れて、
今日のダルマを発見してみませんか?


写真家が雨の日でも、いろんな発見をして、その時にしか出来ない仕事をするように、

ヨーギーは台風のときに、
台風でしか見られないダルマを見つけようとするのです。

2011年7月15日金曜日

ヨーガって何? 私たちの望み…1・2

今回は、
ヨーガって一体なんでしょうか……?
ということに挑戦してみます。

「ヨーガ」のもともとの言葉の意味は、
つなぐ、結う、という意味だと言われます。
つなぐということは、一つ以上の何かがあって、それがつながるということです。

では、何と何がつながるのでしょうか。

一つは、ヨーガをしている本人です。
「私」、がまず一方にあります。

そして私が「何か」とつながります。

さて、私は何とつながりたいでしょうか。
言い換えれば、何が私たちの願いなんでしょうか。


一つは安全です。
自分たちは生命の安全を願っているのです。
生まれ持っての本能は、自分の命を守るために、素晴らしい機能を与えてくれています。
生まれたての赤ん坊を水の中に浮かべてみたら、
その赤ん坊は、その本能で息を止めて、水をかき分けようとします。
水の中から出してあげてみれば、空気のあることを知って、息を吐き出して、吸い込もうとします。
教えられなくても、生命の維持を図っています。
私たちの願いの一つ目は、生命が安全であることです。
これは動物や植物とも共通の願いです。

今年の3月11日に、地震で、津波で、そしてそれ以降、放射能汚染で、
広島・長崎、東京・大阪空襲以来経験したことのない大規模な生命の危機を感じ続けています。
本当の自分たちの願いはなんだったのか、を確認することになりました。


私たちの願い事の二つ目は、
喜びです。
生命が安全であれば、そこに安心が生まれます。
安心があるところには、楽しみを求める心が出てきます。
いのちをつないでいく食べ物や空気や水や睡眠が満たされたら、
そのうちに自分というものの存在に気づきます。
この時、ただ、生きているだけでは面白くないのです。
これは動物や植物より、人間に発達した願い事です。

まず、子供の時には、おいしいと感じる食べ物や、
心地のよいベッドや、面白くおかしいおもちゃ、アトラクションが欲しくなります。
おかあさんに褒められたくなるだろうし、注目をあびることも喜びです。

大人になれば、かなり複雑になります。
たくさんのお買い物ができるようにお金があることや、
誰よりも自分の価値が感じられるように、地位や名誉、権力、
誰よりも賞賛を浴びることができる、美貌、ファッション、
資格をたくさん持ったり、好きな音楽をたくさん聞いていたり、
喜びを追求するようになります。

ここまでは私たちの願いで実に分かりやすいものです。

きっと誰もが願っています。

ではヨーガとは、
「私」が「喜び」とつながること
なんでしょうか。

たとえば、身体の健康は、安全+喜びです。
ヨーガをすれば健康になります。
これは喜ぶべきことです。
なので、ヨーガは私が健康になること、という答えでも、もちろんいいとおもいます。

ほかにも、少しヨーガを続けてきた人はこう思うかもしれません。

ヨーガでかっこいいアーサナができるようになって嬉しいですが、
それよりも、ココロが安定してきました。
ココロが健全です。
これが目的じゃないでしょうか。

ココロが健全なことも「喜び」です。
では、ヨーガでココロが安定することが目的でしょうか。


答えは、
「いいえ」です。
ヨーガは「私」と「安全」や「喜び」を結ぶものではないのです。


ヨーガの教えのなかでも最も重要な教え、ヴェーダンタでは、私たちの生きている中で、願い事は4つあるように見えると言います。
3つめがあって、さらに4つめもあるんですね。
喜び、快楽、で望みは叶えられたはずなんですが…。

人間には、こんなにも望みがあったっけ?


この続きはまた次回です。