2017年11月30日木曜日

壁を壊すとみえてくること


このひと月の間、壁を壊したり、壁を作ったりしていました。

あたらしい土-tsuchi-は多くの人のとの出会いから繋がってきた場所と土と家。

古民家というには新しい築40年の中古住宅を夏の終わり頃に紹介いただいて、拠点をこの地に決め、秋からDIYで工事を進めているのです。


***** 以下農地を含んだ家屋の売買について細かい話 ******
農地も含んでいたので(かなり広いです)大家さんとの契約書の作成だけでは売買は成立しません。
農地は許可なく売買はできないという法律があるというのを今回初めて知りました。その許可をするのが市町村の農業委員会だということで、地域によってはその許可をもらうのがかなり困難な場合があるそうです。
町農業委員会への農地譲渡の申請が必要で、申請には土地の写真を取ること、役場が出している農地の図面、一般の地図の図面、農地を使うにあたっての計画書などを書きました。

移住者の場合の家の購入や改修には町からの補助金が申請できるのですが、このための申請書作成もかなり複雑で、契約を取り交わす前に出す書類、契約書と領収書と住民票と申請書、農業委員会からの許可をもらってからの登記謄本の提出などなど、思い出せないぐらいの手順がありました。複雑ですので、役場にはなんども足を運ぶことが必要になります。
また、ご近所の農業委員会のメンバーの方がこの家を購入することや書類の作成などいろいろな助言をもらいました。この人がいなければ簡単には進まなかったことがたくさんあります。そんな「この人がいなければ」という方が他にもたくさんいて、いろいろな縁でここに移り住むことができています。
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40年の家は、壁は土壁、そして内装に一部石膏ボードが使われていました。

土壁は壊しやすく、そして壊しても自然に帰っていきます。

吸湿性があり、耐熱であり、蔵のように厚くすれば断熱や蓄熱にもなります。

土壁は作っていく工程が長くかかるため、また職人さんも減ってきていて、最近は作られなくなっているようです。



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この家の場合、土壁に8mmほどのモルタルが塗ってあり、その上から砂壁になっていました。

モルタルを剥がすと土があり、土は竹の編んだものを心材にして藁と一緒に練り込まれていました。

新建材だと石膏ボードなどになるでしょうけれども、すぐに土に帰る、というわけにはいかず、少し手間がかかります。

剥がすときもたくさんの釘かビスがあり、それを支える木材にも釘がたくさん使われているので、手間がかかります。

新しい壁を土壁にしたかったのですが、トイレ周りは日程の都合上、今回は合板、下地材、珪藻土の塗り壁にしています。
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家の壁もそうですが、人生にも目の前に壁が出てくるときがあります。

そんな壁を壊すことも時には必要になるかと思います。

いつもは壁を壊すなんてことは考えもつかないかもしれないけれど、

家族の構成が変わったときとか、

仕事が変わったときとか、

どうしてもこれは困ったな、というときとか、

ずっとおかしいな、と感じてきたことに気づいたときとか、

いろんなことで壁を越えないといけない。

そんなときは壁を壊すことを考えてみるのも一つの手だと思います。


思いついたはいいけれども、

本当にこの壁を壊してもいいのだろうか?

と考えることもあります。

不安だから、止めておこうか。

壁を壊すのはその直前まで不安かもしれません。


でもやっぱり必要ではない壁もあります。

そんなときは思い切って壊してみる。


どーん。

最初の一撃が衝撃的です。

そのあとはメリメリとかバサバサとか、音もホコリもすごい。



壊し始めると、簡単なときがあり、

思ったよりも手強いときもあります。

あ、しまった、ということもおきます。

そんな時は立ち止まったりします。

でも失敗だということは何一つないのだ、と気づくことがあります。



だから、壊す勇気を持ってみること。


慌てずにいれば、頭がクリアになって、目が澄んでくる。

このクリアになった目で見定めることで、

きれいに壊すことが可能になるのだと思います。


壊すことは無心で、何も考えないようでいて、

勉強できることがたくさんできます。

壁の奥には知らなかったことが隠れていたりして、

見た目とは違って複雑な構造だとか、

作った人はこんなことを考えて作ったんだろうな、なんてことが分かる。

その壁を自分が作ったのだとしたら、自分自身がよく分かる。

壊すことで学ぶことがあり、そのことで物事や知識を得る、

そして壊してしまえば、こころが明るくなります。



壊せばそれで終わり、

ではありません。


壊した後は必ず想像があり、創造がおきます。

また新たに壁を作り始めるのです。

人生における壁とは限界や制限のことですよね。

自分で限界を作るといえばなんだかマイナスのイメージかもしれません。

まさか自分でしばりや限界、制限を作るよりも、自由でいることを求めそうなものなのですが、

この壁とは新たなルール、新しい生き方と言えばいいでしょうか。

今までとは違った自分のテーマや乗り越えようという成長のステップとなります。

新たな限界でもあり壁ですが、それがあるために成長があるのです。

いきている間には、そんな新しい壁を乗り越える時がなんどもやってくるのだと思います。

2017年3月11日土曜日

震災と10周年




2011年3月11日は東日本大震災の日です。

同じ日になるのですが、その数年前、2008年3月11日に、

ヨーガ堂・土-tsuchi-初めてのクラスを行いました。

今年は10周年になるわけです。

2011年の3月11日震災のあった時間、

ちょうどラマナ・マハリシの聖地であるアルナーチャラの丘で瞑想をしていました。

マハリシが瞑想していたという岩の祠の中で、目を閉じていると、

ぐるんぐるんと何かのエネルギーが回っているような、そんな感じがしました。

暑い日で、ノドがからからと渇いて町におりました。

山を下りて宿の下にあるネットショップで震災のことを知りました。


震災後、ガネーシャ神とシヴァ神の像に出会うために大都市チェンナイの街を歩き回りました。

ガネーシャは災厄を振り払ってくれる神様です。

その時の日本にはとても必要な神様だと思いました。

やがてようやくガネーシャ神とシヴァ神の像に出逢い、

日本に来ていただけますか?

と心の中で聞いてみました。

OKをいただいたような気がして、

そうして店のご主人と話をすると、

日本は放射能で大変だな。

広島も長崎も大変だったのに。

おまえの家は大丈夫か? と聞いてくれました。

そしてなにもこちらから言っていないのに値引きしてくれました。

そんなわけで、土のガネーシャは震災後の日本を救うためにやってきてくれています。

鳥取県智頭町にやってきて1週間。

まだガネーシャ神は開封を待ったまま、眠っておられます。

はやく家を整えてあげなければ、と思いながら、

今日は冷蔵庫を運ぶだけの一日となってしまいました。

明日は集落の人へのご挨拶。

そんなヨーガ堂・土-tsuchi-の10周年のはじまりです。


2017年1月20日金曜日

子どもとインド






今、インドに来ています。

家族が一人増え、3人になっての初めのインド。

そして、たくさんの日本人の友人たち、生徒たち、ヨーガの先生たち、と一緒に、

また、私たちをいつも正しい知識へと導いてくれる先生、Dr.スンダルとDr.ギーターさん、その子供たち、素敵なスタッフと一緒にいる、ありがたい日々です。




今回のインドでは、今までのインド旅ではなかったことがあります。

一つは子どもと一緒の時間がものすごく長いこと。

子どもとの時間は集中と忍耐が必要になります。
観察にはじまり、遊びも注意もあります。
ときには驚嘆や喜び、感謝につながる。
集中が途切れないという意味では、これは一つの瞑想です。
集中が途切れるときには
イライラや退屈、怒り、疲れになる。

子どもは自分の思い通りになる人形ではないこと。
失敗のように見える体験も、子どもにとっても親にとっても、
とても貴重な一瞬一瞬があり、
どんな風に見えようとも、大人と同じ、一つの尊重すべき人間である、ということ。
集中を続けるためには、この考えを常に心の中心に持っている必要が出てきます。


単純なようで、いつも変化し続けている子ども。
子どもは寝ているか、食べているか、遊んでいます。
その中で、好きなことができているか、できないか、
嫌いなことから逃げられるか、逃げられていないかがあり、
泣いているか、怒っているか、笑っているか、つまらないかの感情があります。

この中で、親としては子どもの基本欲求を満たすための環境を整える仕事がたくさんでてきます。

①アルタ:子どもの安全の確保。危険なものを遠ざけて、怪我のないようにすること。

最低限の食事を整えること。睡眠を妨げないように準備すること。排泄のタイミングをはずさないようにすること。

②カーマ:親や他の人と最大限のコミュニケーションの機会を作ること。

自然に触れ、遊具と遊び、楽しみと学びの機会を見つけていくこと。

③ダルマ:環境との調和、少しずつ外の世界に触れて、世界がどのようになっているかを学ぶこと。他との関係性を体験、経験し、世界の知識を自分の知識としていくこと。
ダルマは周りの世界においてのその人のやるべきこと、義務という意味もあります。子どもはこの世界における自分の位置を確かめるために、少しずつ冒険を続けて昨日よりも今日、今日よりも明日はもっと遠くへ、世界を見ていこうとしています。
そのときの好奇心を消さないよう、大人は干渉しないように見守るというダルマ:義務を持っているのです。
子どもたちのダルマ(仕事)は、環境や人々とのコミュニケーションに挑戦すること、広げていくこと。





これまでのインドと違っていること二つ目は、

ネットを介しての仕事を抱えていること。


このインド行きの直前には家の片付け、引っ越しがあったのですが、

同時に新たな仕事を頼まれて、

急いで多くのことをバタバタとこなしてきましたが、

いよいよインドに来てもその仕事を処理している状態です。

LINEを通じて即座に多くの人の考えがスマートホン越しに飛び込んできます。

まるでそれは日本にいるのと変わりがありません。

それだけどこでも仕事ができるような世の中になってきたということなのでしょうね。

2016年9月14日水曜日

感謝って何だろう

このところ、感謝とは何かをいろいろと考えていました。


スピリチュアル本では「感謝」は最終的なキーワードとして必ず顕れるシークレットワードのようなものです。
しかし、感謝をたくさん書いてある本をみると、なぜかつまらなく感じてしまう。
あまのじゃくですね。

そこで、感謝とは何かを分解してみたくなったのです。


赤ん坊にとって手にモノを持つことは楽しみの一つです。

しばらくすると、その楽しみであるモノを誰かに渡したり、渡されたりすることが楽しみになります。
その時、そばにいる大人は必ずモノを渡したり、渡されたりするときに
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
の声をかけます。

言葉が出るようになれば、
この
「どーぞ」
「あーとう」(ありがとう)
が楽しくなります。

このありがとうの始まりを見ていると感謝についてなにかがわかってくるような気がします。
感謝があるとき、何があるのか。

感謝があるとき、

 ①他者や対象がある

 ②そこから渡されたモノやココロがある

 ③そしてわき上がる喜びがある


感謝はこの喜びの表現です。渡されたモノやココロに対する反応であり、
キャッチボールのようなコミュニケーションです。

けれどもコミュニケーションの道具とは少し違うところがあるかもしれません。

感謝の言葉をもらえない、「こんなにしてあげたのに、感謝されない」、といった状況があるとします。
コミュニケーションのルールとしては、何か一言が必要とされます。
でなければ、投げたボールを認識していないかもしれないからです。

しかし感謝かどうかは受け手に完全に頼っています。

ボールを受けた側に喜びがあるかどうか。
喜びが無い場合に感謝が出てくることはないのです。

喜びを強制することはできません。

喜びは自発的なモノだからです。

喜びは自然なモノです。

ですから誰か相手に感謝を求めることは全くの無駄であり、無意味です。



ところが、この無意味なことを私たちはいろんな場面で求めがちです。

あるいは感謝を道具として使ってしまいます。

なぜ人は感謝を求めたり、評価を求めたり、感謝の言葉によって人を動かそうとするのでしょうか?

それは、自分自身に自発的な喜びがないからでしょう。

なぜ自分に自発的な喜びがないのか。

感謝の反対



それは.......話が堂々巡りのようですが、きっと感謝がないからなのではないでしょうか。

感謝のあるときの反対のことが起きているかもしれません。
それは、

 ①他者と対象が見えない、自己中心的な状態である

 ②渡されたモノやココロがない、あるいはあるにもかかわらず、認識できていない

 ③わき上がる喜びがない、あるいは喜びを覆い隠すほどのもの(不安と怒り、孤独、不信、自己評価の低さ)がある


しかし、この3つのうち最初の二つはこの世界と自分を正しく認識すればありえない、と僕は思うのです。


 ①私たちはありがたいことに必ず他者や対象がある世界に生まれ出てきています。

 ②この瞬間もいつもどこからかのモノやココロを渡されています。
衣食住、仕事は私一人で成り立つモノではなく、他者、世界との関連の中で受け渡されています。

自分たちの体を見れば体内には40兆の細菌が手伝って食物を分解し、代謝し、酸素や二酸化炭素、水などが受け渡され、30兆の細胞(「体内細菌は細胞数の10倍」はウソだった」ナショナルジオグラフィック)が分解され再生されています。

自分の考えや性格はこの世界の中で受け渡された情報、体験などの繰り返しの中で生まれたモノであり、自分一人で成り立つモノではない。



では3つめの喜びはどうなのでしょう。

赤ん坊に戻れば、手に持つモノすべては喜びでした。

目に見えるモノすべてが喜びです。

感じられるモノはすべて楽しいのです。

赤ん坊にとってみれば、喜びを与えないモノ、そのようなモノはないのではないか。

赤ん坊からすれば、喜びを波のように感じているかもしれません。

波は海の中で必ずあります。

波のピークは波ですが、波の底も波です。

低いときも高いときもあるけれども、すべて喜びです。

痛みとか悲しみとか、それはどうなのでしょう。

生まれたばかりの赤ん坊にとってみれば、

痛みすら驚きという刺激です。

悲しみも一つの刺激です。

刺激であるとき、喜びの一つだと思うのです。


赤ん坊にとって、喜びの反対は、痛みや悲しみ、怒りではなく、

退屈です。

退屈こそが喜びの反対。

痛みや悲しみが続いたとき、その刺激に対しては退屈が起きます。

この退屈な痛みや悲しみこそ、喜びの対極であり、その本質には退屈がある。


喜びがないときで、退屈があるとき、それは感謝が起きません。

問題は怒りや悲しみ、自己評価の低さではなく、退屈です。


退屈は、変わらない、と認識し、判断するココロです。

あるいは「変えられない」と認識し、判断するココロ。

自分が無力である、「変えられない」と認識し判断するとき、自分に対する退屈があるかもしれません。

「感謝の反対は、あたりまえ」といいますが、

この「あたりまえ」の言葉の奥には同じことの繰り返しという(間違った)認識があり、そして、「退屈」があるんだと思うのです。


大人になっている私たちには物事には喜びばかりではありません。

諍いや羨望や裏切りや悲しみ、戦争や災害は喜びではありません。

赤ん坊との違いは過去の経験から立ち上がる予測、未来があることです。

大人にとって、戦争や災害は痛みや悲しみの連続がある、という予測がある。

この連続にはあきらめがあり、退屈が潜んでいます。

ですから大人にとってはこれらは喜びではあり得ないのです。


子供は違います。

空襲の光は美しかったという子供の頃の体験を語る人がいます。

台風を楽しみにしていた頃があった人も多いのではないでしょうか。

子供にとってはいつもこの瞬間が新鮮で驚きで、喜びなのです。

戦争や災害を肯定するわけではなく、

私たちはどのようにそれを受け止め感じられるかで、喜びを感じることも、

退屈を感じることも可能だと言うことです。




先ほどの感謝の考察にあった

①他者、世界の認識

②変化、コミュニケーションの認識

が正しくできているとき、あたりまえ、とか退屈は感じられません。



つまり、いつも③喜びがある。

ヴェーダーンタでも、

「私とは喜びである」、

と教えてくれています。

2016年1月9日土曜日

瞑想とチャクラWS 感想3

瞑想WS感想のつづきです。

まず、大切な教えを学ぶ機会を作ってくださった先生、心地よい空間を作ってくださった
他の生徒の方々、ワークショップに通うことができた環境、すべてに感謝いたします。

お話しの中で毎回新しい気づきがあり、自分がどんな人間なのか、何を知らなかったのか
が見えてきました。

気づいたことは、「私は足りていない」とずっと思って生きてきたということです。
どこか遠くに行けば、何かをすれば、誰かに出会えば、自分の足りない部分を補えると
思っていました。先生は、そうではなく「在るだけでOK」だと教えてくださいました。
本当はすべてが満ち足りていること、世界が問題なのではなく、私が問題であって私が
解決であるとういう教えは、私をとても楽にしてくれました。

そして今まで自分がどれだけ過去や未来に支配されていたかということに気づきました。
今現在に集中して生きることの大切さを教えていただいたときは、うれしかったです。
それは自分がそうしたいと心のどこかで思っていたからだと思います。

瞑想も最初は集中できずとても難しことに挑戦している気分でしたが、今では瞑想する時間が楽しみになりました。

ワークショップを終えて、こころが楽になったというのが一番ぴったりくる言葉です。

まだまだ恐れや怒りや好き嫌い、いろいろな感情に振り回されることが多いと思いますが、そんな時には先生のお話しを思い出したり、瞑想したり、ここに戻ってくることができるから大丈夫だと思っています。

私はまずは自分を大切にし、認めて、受け入れていこうと思います。
先生のおかげで「自分の人生に責任を持つ」責任を持てるようになりました。
これは簡単なようでとても大きな成果だと思います。

ありがとうございました。
またワークショップがありましたら参加させてください。


伊丹美絵


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<瞑想WSの感想>

今回、瞑想WSを受講できて感謝いたします。

毎回、今まで聞いたことがある内容であっても、自分が感じる感覚が違っていました。
自分の本当の恐れは、何かが少し理解できたように思います。
又、「今を生きる」の感覚が見え隠れする感じがしました。うっすらですが。

ただ、自分の癖(考え方)がとても強く、改め、実践するのが難しい・・・。
周りの環境を整え、できることをしていくしかないのだろうと思います。

グループで受講していると、それぞれ悩みがあり、今の人生が違うと強く感じ、それまでの行いによってヨーガに出会えたのだと思えました。

心を折らずに、丁寧に生きていけたらと思います。

たけし先生、なな先生、一緒に受講して頂いた皆様に感謝いたします。


ひろこ


人はみな「足りていない」と考えている、と教えてくれたのは、昨年マハーサマーディーされたスワミ・ダヤーナンダジでした。

スワミジは「足りていない」を「コンプレックス」と置き換え、
自分が出会ったいろいろな人の様子を詳しく描写することで、おもしろおかしく教えを伝えてこられました。
そんなスワミジの前では心の底からリラックスがはじまり、いつしか涙を流すほど笑っていたりしました。
人はみな苦しんでいて、焦っていて、怒っていて、悲しんでいるけれど、ほんとうのその人はそこから自由なんだよ、と教えてくれました。

とてもわかりやすい言葉、たとえ話から深遠な教えへと導くスワミ・ダヤーナンダジ。

私とは誰か、どこにいるのか、世界とは何か、世界の問題は何か、

瞑想のテーマはここに集約されます。

スワミジは「私が問題で、私が解決である」と力強く言います。

この世界の問題は、自分の問題である、と置き換えて考えることもできます。
この世界の問題の責任は自分にある、と言い切れたならば、
未来に責任を持ってそのように今行動するのか、ということが大切になります。
まるで、自分がアメリカの大統領になっているかのように、
その一言一挙一動が世界を変えていくならば、自分の言動や行動、考えのひとつひとつは
とても大切なものとなります。
そして、その結果おきることはどのようなことでも受け取ること。
ありがたくないことであっても、神からの贈り物として受け取る態度をもつことで、
やがてその贈り物も大切なメッセージだと消化できるようになります。


瞑想ワークショップにおいてもスワミジの言葉がその根幹に流れています。
その教えをみなさんとシェアできることができてとても幸せな経験でした。
また、シェアリングの難しさと、その意義深さを書いておられる方もいましたが、
みなさんからの感想をシェアすることで、さらに深く理解していくことにつながったかとおもいます。
また機会がありましたら、ワークショップを開きたいと思います。
ありがとうございました。

Takeshi

2016年1月6日水曜日

瞑想とチャクラWS 感想2

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。
瞑想WS感想のつづきです。
ここ山手台にも申です……

瞑想とチャクラWSまとめ

全7回を終えてその回々は理解していたつもりだったのに後半からは結局瞑想とは何ぞやという考えが浮かぶようになり、そのままチャクラの回に入って怒涛の情報量に触れ、全ての回が終わった時には何が何だかわからないようになっていました。武先生の作ったノートをもう一度始めのページからおさらいして整理してみましたが改めてみても本当にたくさんの情報量で、これを7回でお勉強したのかと思うといっぺんに理解できないのは当然の事(自己肯定・笑)これだけのノートを作ってくださった武先生の仕事量とそれを支えた熱意に心底敬意を払いたいと思います。

WSのなかで得たものをあげると、知識はその分野に於いて自由にしてくれるということ。前々から持っていた、知識は自分を助けてくれるという考えをヨーガの観点からも肯定することができました。だけど忘れてはいけないのは知識にも限界があること。そして瞑想は座ってするものばかりではないということ。自転車に乗りながらでも、子育てしながらでも、できる。祈りも瞑想のひとつ。そこに意識を宿すことで毎日どこでも何をしてても瞑想になることを知りました。

それからWSに参加する度にいうことですが今回も例外なくシェアリングの大切さを実感しました。シェアリングでは自分の考えの軌道修正や自分の持ち得なかった価値観を知れました。モチベーションを高めることにも役立ちました。付き合いが長くなってきたメンバーとはお互いの成長も自分のことのように喜び感動することができました。全部ひとりで勉強していては得られない宝物です。


相変わらず3歩進んで2歩下がるヨギーニ生活ですが、今回落とし込めなかった知識も次に3歩進んだ時にはすっと入ってくることを期待して、とにかく少しずつでも学んでいきたいです。大目標(モクシャ)と中目標(好き嫌い、怒りに振り回されないきれいな心づくり、思いやり・慈悲のこころを持つ、ダルマとアダルマの存在、全ては神で私も神だということ、チャクラへの意識など)をいつも忘れないように行動に意識を宿していきたいです。

質問
  1. ノートに記載された瞑想方法が10個あります。静座瞑想①~④は座ってしかできない瞑想と理解しますが、「存在感の瞑想」「慈悲の瞑想①②」「リスペクト」「思考のラベリング」「感情と自己受容の瞑想」は必ずしも座らなくても、たとえば仕事中や料理してる時、何かのきっかけでそういうことを考えた時にもできることだと理解しても良いですか。
  2. 呼吸に意識を向ける瞑想をしようと決めて始めてもあまりに雑念が多い場合、途中でラベリングの瞑想に切り替えて続けてもいいですか。それともそういう時は一旦止めてしまったほうがいいですか。

宮平みちよ

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今回のWSも皆さんのシェアリングとともに成長していった内容となりました。
講座の中ではあまり情報過多にならないように、話す内容を厳選していたと思います。編集時間がなかったノートの方では予定していた内容ではきっと未消化になってしまうと考えて、多くの注釈が入ることになり、結果的に情報量が多くなってしまいました。あくまでの講師自身のメモということで、ご了承ください。もう一度講座を開くときには2倍の時間が欲しいです。。

*感想の中にありました「知識に限界がある」、というのは少し注釈が必要かもしれません。
その世界についての知識は、世界に限界があるために知識にも限界があります。私たちの脳の能力にも限界があるでしょう。けれども、ヨーガやヴェーダーンタが扱っている真実=知識=存在という意味での知識には限界がありません。このあたりの話はとても重要ですが、今回のテーマではなかったので深くはお話ししませんでした。


一つ目の質問について:

瞑想は座って行うのが最も安定していて、程よい緊張を保ちながらリラックスできます。
ですが、必ずしも座って行うことでなければならないわけではありません。
瞑想は大きく2つの段階があります。まずはあちらこちらに飛んでしまう考えを静かにさせていくこと。心をきれいにすること。
その先に、大切な考えに集中し熟考し、理解し、定着させていくこと
最初の段階では、無意識に忙しい心身を休めて、呼吸や行動、感覚や考えに気づいていくことによって、心と体は穏やかになってきます。ここまでのためにヨーガではヤマ(正しくないこと=アダルマをやめる)とニヤマ(正しいこと=ダルマを行う)**、そして体を動かすアーサナがあり、呼吸法があります。アーサナと呼吸法が定着しているならば、第一段階の瞑想、考えを静かにしてくことは、座っているときのほうが断然やりやすいかと思います。
質問にあった「存在感の瞑想」「慈悲の瞑想」「リスペクト」「思考のラベリング」「感情と自己受容の瞑想」などは、穏やかになった心という条件のもと、その上である特定の考えに集中し、熟考し、理解し、定着させていくこと、つまり第2段階に当てはまってきます。
第2段階においても、まずは静かに一人で座って瞑想するようなことがなければ熟考するチャンスがないかもしれません。
けれどもやがて普段の仕事や料理などでふと沸き起こる考えのなかに、これらの大切な特定の考えが浮かんでくることが自動的におきます。
この自動的にうかんでくる正しい考え、その瞬間にとどまること、これも大切な瞑想です。

*今回のWSでの瞑想法はヨーガ・ヴェーダーンタを基礎にしています。慈悲、思考のラベリングの瞑想はヴィパッサナー瞑想を参考に、リスペクト、感情と自己受容の瞑想は認知行動療法、対人関係療法、アドラー心理学などを参考にしました。
**ヤマ・ニヤマは今回のWSではお話しできませんでした。ヨーガ・スートラ第2章にある重要な瞑想のステップです。

2つ目の質問についての考え:
あまりに雑念が多い場合はラベリングするのはとても効果的だと思います。落ち着いてきたら、また呼吸に戻ってくるといいでしょう。
瞑想をすっぱりやめて、やりたい仕事、やるべき仕事を1時間ほどでさっと済ませてしまえば、その後集中しやすくなるときもあります。
正しい方法は自分の心と体に無理が起きていないかどうか、です。
無理が起きているときには呼吸が浅くなります。
正しければ必ず呼吸が深くなりますので、自分の呼吸に聞いてみるともっとも無理のない方法でできると思います。呼吸が浅いか深いかを見分けようと思ったら、普段から呼吸を観察する必要が出てきますね。これこそ瞑想かもしれません。

2015年12月18日金曜日

瞑想とチャクラWS 感想

全7回で行われた瞑想とチャクラワークショップ。
参加者の方々のシェアリングによって、形を変えて進めていくことになりました。今回の講座はみなさんと一緒に作り上げていく講座だったと思っています。
以下、みなさんからの感想を一部アップしていきたいと思います。
Takeshi

(参加者以外の方にもわかりやすいように*で少し解説させていただきました)


瞑想講座を終えて

私は最近ネガティブな感情や価値観にとらわれてがんじがらめになっているような気がして、「瞑想」を学び、もう少し心穏やかに過ごせたらと思い受講させていただきました。

毎回様々な気づきがあり、過去の出来事を思い返した時には、今までとはまた違った見え方をしました。
その中でも、強く心に残ったのは同情と慈悲は違うという事です。

何年も前のことですが、色々なことが重なりとても辛かった時期に誰よりも心配し心を痛めてくれたのは家族だったのに、実際に助けられたのは第三者だったという経験があります。
そのように感じてしまう事が家族に申し訳なく複雑な気持ちでしたが、理屈がわかると素直に改めて感謝することが出来ました。
大切に思う相手ほど難しいとは思いますが、自分が支える側に立った時には心に寄り添いながらも違う次元から客観的に見るという事を意識したいと思います。

想像していた以上に講座の内容が深く、聞きなれない言葉も多かったのでとても理解出来たとは思えませんが、講座を受講する前と後では明らかに自分の中で何かが変わったと感じています。
シェアリングも貴重な体験でした。講座を開いて下さった先生方、一緒に講座を受講した皆さま、ありがとうございました。

亀井 あゆみ

*同情と慈悲について。
例えばですが、溺れている人を助けようとして一緒に溺れてしまうような、そんな感情や考えが同情です。一方、溺れている人の苦しみを知りながら、一旦潜って、しがみつかれている腕をほどいてから、後ろに回って救助に回る、ということが可能になるのが慈悲です、と講座では解説したように思います。
同情では他者と同じ気持ちになることです。感情と考えを他者と同じにしてしまうことです。慈悲は他者の感情と考えに寄り添い、理解しながら、客観的に全体からの視点を失わないことです。
しかしながら同情は決して悪者ではありません。同情は慈悲の一歩手前の大事なステップです。同情がなければ慈悲もおこりません。

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チャクラと瞑想のワークショップを受講できたことに感謝しています。
毎回、内容が濃厚で引き込まれ、いつも時間があっという間でした。また、教室にいる数時間は不思議と透き通った気持ちになれ、俗世間から離れたお寺か神社にいるような感覚でした。

チャクラと瞑想という切り口から大昔より伝わっている聖典ヴェーダーンタやバガヴァットギーターに触れていくのは、より良く生きるための人生哲学の勉強そのものでした。
普段自分が感じている違和感、疑問、問題点に対してこんな捉え方があったのかと、新しい考え方や分析の仕方を知って、目からウロコがぼろんぼろんこぼれ落ちました。

まだ毎日の座って行う瞑想は時間が確保できなかったり、できても眠気や考え事でなかなか集中できず、まだまだ訓練が必要です。今までになかった習慣なので、いきなり身に付くものと思わず、気長に1年や2年かかっても取り組みたいと思います。

また、瞑想は日常のすべてを一旦横に置いて立ち止まり、普段は見ないようにしている自分の感情や、無意識に繰り返している考え方の癖を見つめ直す自己対話でもあり、それは自分の中に自分をとり戻していくような感覚がしました。また、例えるなら薬を染み込ませていくような作業で、良薬口に苦しと言いますが、講義の中には自分の言動を省みなければならない耳の痛い話や、時にわけもなく胸がいっぱいになって涙が出てくる時もありました。講座を受けていた時間そのものも瞑想だったと思います。

講座のシェアリングの中で感じたことですが、お互い生活の場や育ちや考え方が違っていても、仕事や人間関係や自分自身についてなど、自分だけでなく、それぞれが悩みや苦しさの中にいることを知りました。
どんな人も恐れや不安を持っていて、その存在から逃げようとしたり消し去ろうとしても、生きている限りは離れられないものだと思いました。
7回目の授業でイーシュワラ(イーシュワラ=宇宙全体の意識、生きている全体宇宙、神と訳される場合もあります)の話がありましたが、全ての人が恐れや不安を持っているということは、全ての人に自分がイーシュワラだと思い出す可能性があるのだと思いました。
もし恐れや不安の存在が無ければ、本当の幸福を探求することもなくなってしまうかもしれません。
そして、イーシュワラの存在を知れば知るほど、一人で学んでいるのではなく、お互いの繋がりを感じ、目の前にいた方々が悩みや苦しみを乗り越えてくれたらという気持ちになりました。

もし、人生の最中に本当の幸福に目覚めたとしても、おそらく生まれ変わると再びリセットされて、また探求を繰り返すのかもしれません。そうだとしたら、そこに人間が生きる普遍的な理由があるように思います。

話が大きくなってしまいましたが、
まだ理解できていないことも多く、もっと講座を続けて欲しい気持ちもあります。
ただ、勉強したことを活かす実践が始まったところでもあるので、瞑想を日常の習慣にできるように努力していきたいと思います。

今回、このような勉強の場を与えてくださり、お忙しい中、本にできそうなくらいのテキストと講義を毎回用意していただいたtakeshi先生、nana先生、縁あって一緒に学ぶことができた生徒の皆様に(そして、あるがままに生きているブナちゃんと猫ちゃんにも)とても感謝しています。
本当にありがとうございました。

三浦祥子


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未だに瞑想は出来ていないですが、そこに至る様々な事を教えてくださって勉強になりました。瞑想にも色々種類があることも知りました。
チャクラに関しては自分の弱い所がどういう意味を持つのかと言うことも分かって面白かったです。
なかなか日々の生活で瞑想をする事が自分の中で拒否してる部分と言いますか、自分が出来るとは思えないと思い込んでるので、せっかく学ばせてもらった事を無駄にしないように一歩を踏み出せるよう勇気を持ちたいと思います。一回の瞑想で何かしら自分にプラスな事があれば続けられそうなので挑戦した時には自分の中の変化を見つめられたらと思います。

畠山明子
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瞑想ワークショップを終えて

瞑想のワークショップを受けて、自分の事を客観的に見ると共に、他とのかかわりや物質としての存在として在る事に気付きました。

いつの頃からか、心穏やかに過ごせる日が多くなった気がします。

全ての物や事から自由になれると、他の事も今までと違って見えたり、考えたり出来るようになりました。

ヨガも瞑想も、よちよち歩きですが、これからもよろしくお願いします。
                                                古賀裕子
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「チャクラと瞑想ワークショップ感想」

 「「わたし」とは、「世界との線引きをおこなった内側」ではありません。」初回に言われたこの言葉を、すぐには理解できなかった。瞑想して、自分の体で確認してみることにした。世界と自分との境界にあえて注意した。

 目を閉じて、息を吸う。お腹と背中がふくらみ、それ以上ふくらまないところで止まった。自分の輪郭を内側から感じた。そのまましばらく続けた。外から風が吹いてきた。耳や頬、指の皮膚にあたった。動く外気に自分の存在を教えられた。瞑想を終えて目を開いた。目の前に、いろいろなものが広がった。網戸、障子、畳の目、木の枝、葉っぱ、雲、電線、ベランダの手すり。それらと自分が対等で、仲間に入れてもらえる気がした。

 毎日、瞑想を続けた。そのうちに、瞑想はぎこちなくなり、うまく集中できなくなった。問題を探った。隙間のような違和感があった。呼吸する自分を、観察する自分が少し遅れて追いかけているようだった。自分の癖に気がついた。この癖を頼りに、たくさんの発見や喜びを得てきたけれど、たくさん苦しめられもした。ふたつの自分の隙間をなくすようにした。違和感が消えた。没頭と観察とが、同時にできることがわかった。「瞑想には時間がありません。」教わったこの言葉の意味を経験できた。初心に戻る方法を学んだ。

 これまでたくさんの人やものたちに支えられてきた。そのことを思い出したり、忘れたりしながら生きてきた。自分が世界の中心であるかのようにふるまい、流れに逆らうようなこともしてきた。今でも、自分と世界とのあいだに隙間をつくり、遅れをとってしまうことがある。そのことに気を許し、面白がってしまうこともある。動きつづける日常の中では、なかなか自然に世界と調和できないけれど、せめて瞑想のあいだだけでも、そばにいてくれる人やものたちと呼吸を合わせて、清々しくいたいと思う。
H・M
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日々生活をしていると、好き・嫌いという感情は、やはり普通にあります。
最初はそれがいけない事なのかと思って、WSに参加していました。聖人や僧侶の様にならねばならないのか、それが出来なければ自分はダメな人間なのかと思って、正直重い気持ちでいました。

そういった感情が無くなれば楽なのかもしれませんが、心は嘘をつけません。しかし、好き・嫌いというものがあっても、それらに振り回されないでいる事が本当は大事である事がわかり、それならば、自分も少しずつではあっても出来るなと思い、随分楽になりました。自分にOKを出す事が出来たのです。

下満 恭子

*瞑想の邪魔をしていくのが好きと嫌いという考えであることを全体の講座を通じて話してきました。元々は好きと嫌いもこの個人の体を守るための大切な感覚でありそこから生まれた考えかもしれませんが、好き嫌いが暴走して周りとの協調を失いながら自分の自我を満足させるためだけの好き嫌いになっています。この好き・嫌いに対して注意深く観察していくことが大切だと講座では進めてきました。
「好き嫌い」を嫌うのではなく、「好き嫌い」を好きになるのではなく、それをそのまま観察して、うまくつきあうこと。これによって「好き嫌い」によって振り回されないでいくことであり、全体からの視点を保ち続ける、つまり「客観性を持つ」ということです。
自分や他者のことへの好き嫌いから自由になり、自分と他者を認めていくことが、瞑想では大きなテーマであり、ステップになるのです。
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WS受講期間も含めて、今年はそれまでそれなりに続けていたアーサナや瞑想、食事といったヨーガ的な生活習慣ができている実感が自分にとって低い状況でした。
それは家族にヨーガを続けることをとがめられたことで自己肯定ができなくなり、また叱られるんじゃないかという恐れが引き金でした。それらの問題は今もつきまとうのが分かります。
疲れた私は無意識にヨーガを深めることの一時停止を選んだほうが安全と考えました。
WSを終えて、その選択がその時は最善ではあったけれど、やっぱり誤りだったと感じました。
瞑想はわたしからのメッセージをキャッチする手段です。そのメッセージを正しく受け取って、必要なくなった記憶から自由になったときの感覚ときたら。
この数日、マントラを唱えたり、少し瞑想するようになって、やはり考えが穏やかで整理されて、心が安定しています。あるがままの自分を受け入れる歓び。(職場でラジオからビートルズの“let it be”が流れてきた時、ハートの深いところが反応して、今までと違って聞こえました)
WSに参加して、これからも自分のペースで瞑想を続けていく意識付けができました。ありがとうございました。

よし子

2015年11月23日月曜日

ワークショップと育児

いのちというのはいつも変化し続けているから生きています。

このブログは変化していなかったので、生きてはいなかったことになります。

ブログはいつもいろいろと更新していることが大切です。

ブログの方は生きてはいませんでしたが、

ブログの書き手の方は、日々の変化でした。

あまりの変化についていくのが精一杯。

このように文章にすることができるのはうれしいかぎりです。


さて、2月に子どもが誕生し、

しばらくして(無茶なことに)

6月からこの11月までチャクラ&瞑想ワークショップをおこなっていました。

ひと月に一度のペースでした。

教えようとすると、気づくことが多く、

結果、学ぶことが多いのです。

ですから、ワークショップが開催できた事自体が、感謝でいっぱいです。


今回、子どもの誕生、成長を見て、人について理解したことがたくさんありました。

全くの純粋で無垢な基本的土台となる人間、それが赤ん坊です。

自然そのままの人は、プログラミングだけで成長していきます。

それらの成長にはネコなどの動物とはまた違う知性の成長があり、

その成長はとても興味深いものです。

すさまじい速度での成長が起きていますが、

あたりまえ、ではない、驚異的な成長です。

例えば、指を刺して対象を見て声を出す、といったこと。

これらは積み重ねてきた観察、興味、想像、他者との関わり、それらの喜びから、突如として表現に変わります。

その表現の方法は、教えなくとも、模倣から始まっているようです。

模倣することも教えたわけではありません。

プログラミングは本能ともいえますが、その本能=自然がもつ力を元にして、

人はさらに自我という能力を身につけていきます。

この自我の始まりがさらにおもしろいのではないか、といまからとても期待しているのです。

「好き」「嫌い」
「良い」「悪い」
そして喜怒哀楽の感情。

これらの人間らしい表現、考えがどのように発生し、

何を目的としているのか。

役に立っていること、その反面の苦しみや悲しみを生む過程を見ていきたいです。

さらにどのように自我を調整していくのか。

また、このブログで報告できればいいな、と思います。

せっかく育児をしているのですから。

(ある時イクメンと言われ、なんだそりゃ?と思ったら、育児をする男性(メンズ)の事を言うのですよね。ジョン・レノンのように、素敵な曲などを作りながら育児してみたいものです)

2015年2月12日木曜日

いのちのおわり いのちのはじまり



無事に女児を授かりました。母子ともに健康です。


昨年初めのインドではヴェーダーンタを一緒に学ぶ友人や

ヴェーダンタを教えていただいる先生、スワミジ、スワミニ、

相談に乗っていただいたり、アドバイスをいただいたり、

いろいろなサポートをいただいたりと大変お世話になりました。

アーユルヴェーダのドクターには集中してトリートメントをしていただきました。


日本に帰ってからは、ヨーガクラスやアーユルヴェーダ基礎講座、

アドラー心理学・ヨーガ心理学講座、

インドからのドクターを迎えてのアーユルヴェーダのコンサルテーション、

アーユルヴェーダクッキング講座がありました。

クラスの生徒さん、講座の生徒さんにはたくさんの協力をしていただきました。


育児に集中するために閉じることにしてしまった烏丸教室、

教室を閉めるにあたって、生徒さんたちからは心温まるメッセージをいただきました。


ボランティアでも喜んで手伝ってくれた先生方、

自分の仕事や勉強を差し置いて、クラスや講座のバックアップをしていただきました。


すべてに大変感謝しております。

新しい命を支えてくれたみなさんが土-tsuchi-の家族、です。

わたしたちの観察が、またシェアできれば、

そしてそれが家族であるみなさんの平安へとつながれば

とても幸せです。


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もう10年近く前になりますが、命の終わりを見ました。

そしてこの一年間は命の始まりを見ました。

命について書いてみようとして、

以下、長い長い文章になってしまいました。

切りたいのですが、今の僕にはその力が無く、切れないのです。

ですので、お暇なときにお読みください。



命の終わりは、

インドのガンジス川、バラナシ(ベナレス)での話ではなく、

父の話です。

危篤になって2週間でしたが、その時には病院でずっと付き添ったのです。

小さい子供の頃は父からとてもかわいがってもらい、

家族においても最も尊敬の対象であった父でしたが、

やがて自分が思春期あたりから、変化していきました。

社会と家族のバランスが崩れた父の複雑な行動によって、

父は憎しみの対象となり、複雑な親子関係となっていました。



そんな父が危篤である、と聞いて、

ちょうど仕事を辞めて農業研修ボランティアをしていた僕は

その病院にかけつけ、長い長い最期を経験しました。


目の前にいる父は意識的にはまったくの普通の正常な状態でありながら、

肉体的にたくさんの苦しみを感じていました。

傷の痛みではなく、呼吸ができないという苦しみです。

医師が、「呼吸の苦しみは、いろんな苦しみの中でも最も苦しい」

と言っていた、その一番の苦しみを受けていました。

呼吸は大半は無意識に行っているのですが、

それができないとなると、意識的にならざるを得ません。

そしてその意識した呼吸が、自分が望んだのことではなく、

強制的であるために

一瞬、一瞬が、とてもとても永く、苦しいのです。


四六時中そばに寄り添うと、

やがて自分の体は父の体のように同じ苦しみを感じるようになります。

血液中の酸素濃度が下がると、自分も苦しくなります。

壁からチューブが出ていて、透明な管でブクブクと泡を立てています。

その泡から管を通って父のマスクへと酸素が送られます。

酸素濃度を上げると、血液中の酸素も少し回復し、自分も楽に感じます。

酸素濃度は普通の空気と混ぜられているのですが、

酸素の割合は日に日に上がっていきました。

やがて普通の空気はなく、

一般の人では呼吸できない、酸素100%へと近づいてきました。


その苦しみの中で、もう確実にやってくる圧倒的なものを感じます。

死という大きな自然の力を前にしてしまうと、

さまざまな複雑な感情や考えはぴったりと止み、

きれいさっぱり消えてしまいます。

いえ、感情や考えは消えて無くなったはなく、

いまだにあるんだけれど、意味が変わってしまうのです。


例えば、この人から傷つけられたという記憶は変わってはいませんが、

この人がいてくれたので、たくさんの経験ができた、

という意味に変わり、


例えば、その傷があったからこそ、

傷というものを他人に与えてはいけないのだ、

という今の自分の考えが作られている、と言う意味とか


例えば、父は社会に対する仕事に熱心なあまりに家族を壊していった、

そのお陰で、仕事も大切かもしれないけれど、

なにより家族を大切にしようという自分の考えが作られた、という意味とか。


例えば、かつて父を恨んでいたとき、自分自身が毒だらけになったような

そんな気持ちになったので、恨むことを止めて、

許すこと、認めることはとても自分を癒やしてくれること。

また、恨んでいるはずの父に対してさえ、幸せを願ったりできたり、

すべての人の幸せを願うことを可能にするのだ、

それは自分の毒を消してくれるのだなぁ、

今、とても、ここちいいもんだなぁ。

(死んでいく人には悪いけれど、ここちよかったのです)

という考えの発見とか。


つばを吐きつけてやりたいぐらい大嫌いだった父の痰の処理をしたり、

尻ぬぐいばかりさせられた、あんなやつ、

と「あんなやつ」扱いされている父のおしりを拭いたり、

目も合わしてやるもんか、と思っていたぐらいの父でしたが、

言葉も途切れ途切れの父とアイコンタクトで看護婦さんを呼んだりしながら、

たくさんの記憶や考えがそんな意味に変わっていきました。



やがて、さらに深く意味が変わっていきます。


呼吸にあえぎ、管だらけになっている目の前の父、

父の体はまさに滅びようとし、

一方である息子は今は生きてはいますが、

それもいつかやがては滅びます。

すべて、この世界のモノは滅びるというのは、先か後はあるけれども、

どれも共通です。同じです。


また、しかし父の遺伝子が滅んでも、すべては終わりではなく、

息子へと受け継がれています。

この目の前の父の遺伝子によって、自分の体は作られています。

遺伝子はすべて以前の情報を元に作られています。

以前の情報はそのまた以前の情報を元にしています。

では、遡ってその最初の情報、命のメッセージはどこにあったのでしょう?

それを考えれば、すべての遺伝子は命のメッセージであり、

すべでが命であるというメッセージ、という意味からすれば、

自分の遺伝子と、他人の遺伝子がどこでわけられるでしょう?


だから、たとえ自分に子供がなくて、

自分の遺伝子がうまくこの世界に伝えられなかったとしても、

たとえ、人間が亡くなったとしても、

植物であれ、動物であれ、生物がいれば遺伝という

たった一つの命のメッセージが残っています。


このように、圧倒的な死を目の前にしては、すべては一つでした。

命に触れているとき、自分も他人もすべては分けられません。

生き物はすべて分けられません。


その命が消えるとき、父の考えは混濁していたかもしれませんが、

眼には混濁していない意識が最期まで感じられました。

肉体から命の灯が消えても、その意識はずっと存在続けていました。

そして自分の体には父の情報がしっかりとつながっていました。

何かがなくなったのは確かでしたが、何もなくなっていないのも確かでした。

命は変わり続けているということ、そのことが同じでした。


また、反対に、同じなのに変わったこともありました。

いつもの路上のレンガや、植え込みの木々、ビルの間の空を見たら、

いつもと同じであるのに、何か違っていました。

自分の考えは同じだけれど、その意味が違っていたのです。

すべてにはメッセージがありました。

すべては命であり、一つというメッセージでした。




命が生まれるときもまた、同じことを見ることができます。

出産までには様々なプロセスがあります。

僕たち夫婦はヨーガ講師をしています。

体や心を観察していくことが仕事ですから、

できるだけ意識的に、妊娠前、妊娠、

出産というプロセスを観察して、楽しんできました。

もちろん、つわりや出産の陣痛など、

楽しみとは思えないような感覚もたくさんあります。

それもよく観察してみました。

月経は月の満ち引きの影響も受けているといわれます。

ある産婦人科の先生によれば、出産も潮の満ち引きとの関連があると言います。

それらも生まれようとするときの自然のリズムです。

陣痛にもプロセスとリズムがあります。

体の準備、胎児の準備ができたときに、収縮の波がやってきます。

収縮には小さな波と大きな波。その間があり、間があることによって、

次の波がやってくることができます。

波は新しい命をこの世界に届けようとするプログラム、情報によっておきます。

その情報は体に埋め込まれています。

自然はたくさんの情報を体にセッティングしてくれて、

条件が整っているときには、適切なときに適切な作用を起こしてくれます。

体にセットされた遺伝子というプログラムは、

たくさんの情報を含み、遺伝子の背後にあるメッセージによって、

時と場所と物質をつかってたくさんの複雑な変化をおこします。

遺伝子だけが情報ではありません。

遺伝子の背後には、遺伝子そのものを複雑に変化させる情報もあります。

その情報はまわり環境とつながりであり、宇宙とつながっています。

宇宙のメッセージはリズムとなってこの命を発動しているのです。


長い期間、妊娠中の妻に寄り添うことで、

夫である自分の体でも、妊婦の体と同じように感じることができます。

家族の食事はよく自分が作っているのですが、

家族の意識に合わせていると、そのうちになんとなく、

つわりの時には、どの食べ物が食べたくて、食べたくないのか?

どのタイミングでそれが欲しくなり、欲しくなくなるのか?とか

さらに自分自身も食べたい、食べたくないが同じようになります。

そんなことが分かるようになりました。

もちろん、最初から直感で分かることはありません。

が、よく観察していると徐々に自分の体がリンクしていきます。


陣痛も、もちろんリンクできます。

小さい波、大きい波、その間。

小さい波、大きい波、その間。

収縮の波に集中し、その一点の中から新しい命がこの世界に送り出されるのを感じます。

陣痛中の女性は体のすべてをアンテナにして体からの、

そしておそらくは宇宙からのメッセージをうけとっています。

一緒に寄り添う人が一緒にそのメッセージを受け取るとき、

波は新しい命に近づくという喜びとなります。

反対に、逆もまた起こります。


陣痛は痛みじゃない

周りがざわざわしていると痛みになる。

(あなたのざわざわした意識が)伝わってくるから、

離れて瞑想していてくれる?


と陣痛中のあるときに言われました。

どきっ、あ、しまったと思い、

声が届くけれども、少し離れた見えない場所で陣痛のリズムに集中し、

妻と胎児への安全への祈りを始めました。


その瞬間、


あ───。いま意識変えた?

楽───。



女性の陣痛中は、他人の精神の揺らぎを感じることができるほど、

それほどまでに敏感で繊細なのです。

ですから、不用意に出産に立ち会うことは危険なのです。


夫が陣痛を感じている妻に集中せずにいると、

その陣痛は痛みや苦しみになります。

隣で別のことを行動したり、考えたりしている人がそばにいれば、

波のメッセージも邪魔されて、とても苦痛なのです。

それは、そばにいても、そばにいなくてもです。

どうやら、女性とはそのようにできていて、離れていても分かるのです。

女の人は体をアンテナにして自然をたくさん知っているようです。

今はほとんどが忘れられているかもしれませんが、

人はそのようにプログラミングされているのでしょう。

たとえ男の人だって、女の人に寄り添えばそのアンテナは感じることが可能です。

男の人は自然や宇宙の精妙さにアンテナを向けるのは不得意ですが、

愛する女性、愛する家族にアンテナを向けるのは可能なはず。

観察を続けていると、男の人でも陣痛の波と一つになれます。

男の人でも、自分の体にもたくさんのメッセージを受け取ります。

手を握れば、それは伝える力を増します。

おしりを押せば、収縮の波をもっとおおきく感じます。

(陣痛の合間におしりの穴付近を押すと、不思議と痛みは楽に変質するのです)

呼吸を妊婦と胎児に合わしていけば、やがて自然と一つになります。

吐く息とともに「腕の力を抜いてー」、

「ふうー、首の力を抜いてー」

そんな風に、そっと言えるようになります。

それだって立派な自然のメッセージです。

たとえ男の人だって、自然のメッセージを送ることもできるようになるのです。


小さい波、大きい波、その間。

小さい波、大きい波、その間。

そのうち寄せる波によって新しい命は近づいたり、

また遠ざかるのも感じられます。


かつては出産で命を落とす人も大勢いました。

陣痛による収縮が長引いてくると女性の体をどんどんと消耗させます。

たとえ子供を産み落とせても、その後の出血によって亡くなる人も多かったのです。

いまだって多くの人が危険な状態になります。

女性は意識的、無意識的であれ、

どこかで自分の命をかけてその出産に臨んでいるのです。

無事にこの世界に新しい命を送り届けたい。

たとえ自分の命の灯が消えることになっても……と。


やがて波と産婦と胎児はひとつになっていきます。

その出産の波はきらきらと輝く命を届ける波でもあり、

漆黒の闇である向こうの沖、死へと引き戻していく波でもあります。


男の人もそばに寄り添えばその波を感じることができます。

すべての命はやってきて、そして去って行くのです。

もし、去って行くならば、

妻と子供を亡くせば「夫」という立場はなにも意味を持ちません。

夫である自分は生きている価値を失います。

夫である自分も去っていくのです。


もし、やって来るならば、

夫である自分も命とともに輝きます。


波と一つになるとき、「夫」という立場を超えていきます。

人間であること、動物であるという立場、

それをも超えて、

やがて命に触れるのです。

目の前の二つの命は、一つであり、そしてそれをみている私も一つです。

圧倒的な命の誕生、あるいは圧倒的な死の力を目の前にして、

私という個人はなくなり、ただただ命があるだけです。


この世界は命ばかりです。

生と死、すべてが命です。


そんな風に感じられたら、無機質だって命なのです。

私の体からは酸素という無機質が大切です。

血液には鉄分という無機質が必要です。

有機質であるこの体は、無機質からできているのですから。

天体とも切り離せません。

月の巡りと出産とも切り離せないのですから。


時間だって、空間だって、自分たちとは切り離せません。

時間よ止まれ、といって時間から自由になることはできません。

今ある空間の外に飛び出すことができたとしても、

次の場所にも空間があります。


また、生と死も一つです。

生と死は隣り合わせでもあり、裏表です。

表だけを欲しいと言っても、裏であるものを避けるわけにはいかないのです。

ですから、裏や表、生と死はあっても、

また、なくなったように見えることはあっても、

命は「なくなる」ことはありません。


命は一つだとしても、

生まれてきたらうれしい、

死んだら悲しい、

だから、生まれてくることと死ぬことはまったく違う、

と言うかもしれません。


しかし命が一つであり、生死が裏表の一つであるのだから、

生まれても、死んでも、うれしいことも、悲しいことも一つ。

うれしいことがあるから悲しいのであり、

悲しいことがあるからうれしいのです。

これらは裏表であり、それらもすべては一つです。

うれしいことだけが欲しい、というのも

表だけが欲しいというのと同じです。


また、命はなくならない、などと言うと

「前世」のことを考えるかもしれません。

前世はあるかもしれませんし、ないかもしれません。

ヨーガではある、といいます。

しかし、たとえ前世があろうとなかろうと、

来世があろうとなかろうと、

そんなことの前に、すべての命は生と死の裏表、

「たった今」ひとつであるのです。


痛いも心地よいも、暑いも寒いも意味があって、

うれしいや悲しいも一つで、意味があって、

複雑な世界も、単純な世界も意味があって、

そしてその命は、生と死には意味があって、

すべてはたくさんの意味というメッセージを運んでいるのだ、

と受け取れたとき、いつもの思考がチェンジーシフトします。

三次元、時間を合わせて4次元ではなく、なんだか違う次元です。

すべてには知識、多くの智慧を運んでいるのだ、と

ようやく、やっとのことでメッセージを受け取れたとき、

悲しいやうれしい、悲惨や、驚嘆は依然としてあるんだけれども、

このすべての世界は、涙が出るほどの美しいのだ、と思い出すことができます。

このとき自分という枠組み、エゴが外れています。

このとき、この瞬間の、ただただあるがままでありながら、

すべての存在がそのまま、でありながらの喜びがあります。


昨日この世界に生まれ出てくれた命を感じながら、そんなことを今は思うのです。


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たまにしか書くことがない、

書けば長い長いブログです。

ここまで忍耐強く読んでくださり、ありがとうございます。

「何日かに分けて読むようにしています」

と言われます。うまく書けずにごめんなさい。

予定通りに考えていた部分と、そうはいかなかった部分があり、

予定では本当は今頃はブログを書く時間などなかったはずなのですが、

思いがけない時間をいただいたので、その時間をこのブログにあててみました。

すべての意味を教えてくれる背後の智慧に感謝しております。





2015年2月1日日曜日

待つことについて



待つことは知識と勇気がいるんだなぁと思います

知識があるときには待っていても安心と不安は同じぐらい

無知があるときには、恐れを隠し、期待という妄想を膨らませます

あるいは反対に恐れに圧倒されて、絶望という妄想を膨らませます

知識があって、信じるとき、待つことは祈りになります


そして、本当の私は何も変わらずに、それらの感情を見ているのです

2014年7月29日火曜日

『変える勇気』アドラー心理学とヨーガと

いつも利用している店のお姉さんが、あるとき

「いいことないわー」と溜息をついていました。

顔もいつもの覇気がなく、声も小さいような。

いつもはよしもとの舞台に出てきそうなぐらい、大きな声で力強いのです。

どうしたのか尋ねてみると、いろいろと話してくれました。

「こんなに頑張って働いてるのに、子供らは私の事うるさがって、ほんまにがっかりや」

彼女は「お金にだらしのない旦那」と別れて、

子供二人と自分の母親を支えるためにに朝から晩まで働いているのだそうです。

「あー、えらいなぁ。僕の母親と同じやー」と僕は言いました。

そして、それは耳が痛い、と思いました。

実は、自分の母親も同じように早朝から働き詰めに詰めて、何年もそうして子供たちを育てたのです。

でもその当時、中学生や高校生の頃、

母親がそれほどまでに頑張っていることに、

子供の自分としてはどうしていいのかわからなかったのです。

疲れて機嫌が悪くなっている母親に対しては、

「そんなにしてまで頑張られても(感謝しているけれども、

できることはこちらも頑張っているし、

どうかムリしないで欲しい。

こっちにその機嫌の悪さを押し付けてこないで欲しい)」と思っていて、

無意識に感じる母親からの感謝の要求(そんなものはたまにしかなかったのですが)に反発を感じていたのです。

そんなことを思い出して、落ち込んでいる彼女に僕は言いました。


でも子供は黙ってお母さんの頑張りを見ているよ。

子供はいつも母親にそっと感謝している。

そしてその頑張りを見ていたから、

他の人の痛みを知ることが出来るようになったような気がする。

思いやりを持てるようになったと思う。

それは母親の苦しみを知っていたから。

今は子どもとしてはなにも言えないかもしれないけれど、

いつしか、行動で見せてくれると思う。

僕は今も、いつも母親に感謝している。

母親には頭が上がらない。

おかんはいつも
すごい。

そして母親に何もしれやれない分、僕は自分の家族を大事にしようと思っている。

きっとあなたの子供も、あなたに感謝している。絶対そうだと思う。

「おかんは、でもね、60歳にして僕の友人のお父さんと再婚して、

都会育ちの母親が、田舎で草刈りして、土まみれになって、

そこから運転免許もとって、第2の人生をがんばっているよ」

「きっと、子供から卒業したと思った時、ステキな旦那さんが現れるから、大丈夫!」

彼女は目を真っ赤にして、ウンウンと頷いて
「ありがとー、元気でたわ」と言っていつもの笑顔に戻って行きました。


人は誰かの役に立つことで、自分の価値を測っています。

でも誰かの役立つこと、というとき、誰かに対して評価を求めてしまいます。

その評価を求めることは、その誰かにとっては押しつけになるのです。

わたしは貢献しているでしょ、という態度が、誰かを萎縮させます。

ではどうすればいいのか。

貢献するということは、とても微妙なことなのです。

貢献は見返りを求めないことが貢献だから。

見返りを求めた時、それはGive & Takeであり、

約束があり、束縛があります。

「これだけしてあげてるのだから、あなたもこれだけしなさいよ」

それは見えない束縛です。

原則として人は束縛から逃れたいという欲求があります。

(束縛は人生において必ずあります。それは義務と呼ばれます。
義務を果たすことが喜びになる時も、やがて、やって来ます。それが自分を自由にすると理解できる時には義務は喜びです。。)

貢献には相手には束縛や義務感を与えません。

さらにその人も他へと貢献していこうといく勇気がつけられます。

義務的な行為よりも、さらに高度な行為だと思います。

高度ですが、契約から貢献へと私たちは成長していきたいのです。



その後もう一つ話があるのですが、それは別の機会に。

この出来事が、今回のアドラー心理学からヨーガへ『変える勇気』の講座につながっていくのです。

それにしてもこのブログを春から「書いていく勇気」がなく、、、

そのあたりから変えていかなければいけませんね(笑)

2014年3月30日日曜日

櫻 桜 サクラ




桜が咲き始めました。


普通、桜といえば、「お花見」、「宴会」、「楽しいもの」ですよね?

僕にとっては桜はいつも苦しいものでした。


どうして桜が苦しいのでしょう?

実は昔はカメラマンをしていたのです。そういえば。笑



この時期は桜前線にそって中国地方や四国、関西を車で走り回っていました。

海岸線から都市部にかけては気温が高いので、そちらの方から撮影が始まります。

場所で言えば高知市内、高知城から始まるでしょうか。

そして広島市内。岡山市内です。

でも山手の方にも良い桜がポツポツあったりします。

津山城の桜は何度も通った場所でした。


桜カメラマン、というのは素晴らしい仕事です。

いつも最高の桜の時期に、最高の場所で、そのサクラを見ることができるのですから。



まだ固い、紅色のつぼみ。

山の中の一本桜。

全体が桜色にうめつくされる山や河川の土手。

ライトアップされるお城の石垣。

提灯がたくさん吊り下げられて、屋台が並んで、ブルーシートの上で盛り上がるサラリーマンたち。

お城のお堀に吹雪く桜の花びら。

雨上がりの水たまりにぎっしりとうめつくされていて。

あっという間に一番いい時期は去っていきます。
 

寂しいというのもありました。

みんな花見している中、一人で朝から夜桜まで撮影していたりしているのですから。

夜遅くまで撮影して、朝早くから移動し、どの場所で終わるか読めないことも多く、

車の中で寝泊まりすることがほとんどです。

そうして日本中の桜を見たような気分になります。


今年、数年ぶりの日本の桜を見ます。

撮影もすることなしに。

純粋に桜を見ることができます。

何ものからも自由に見る、ということはほんとうに難しいことです。

カメラマンであるという自分から自由で、いろいろな思い出から自由に見る。

それはつまり、思い込みや偏見から自由になるということです。


普通みなさんが花見をしているとき、仕事や立場、状況から開放されています。

すべての思い込みから自由に桜を見ることができます。

全てから自由であるとき、実は桜が美しいのではなく、その人自身が美しいのです。

その人は桜と一つになって、なにかの必要だとか、欲望とか、不安から自由になります。

肩書や、容姿、才能、罪や、悩み、そんないろいろな自分から自由な自分になります。

ただ美しさと一体になっています。

その瞬間に居続けることができるとき、その人は美しいのです。

桜だけではありません。

何かを見るとき、自分自身の欲や不満から自由になって、開放されてモノを見る。

そのとき、世界は素晴らしいということが見えてきます。


サクラが咲きはじめの時も、五分咲きの時でも、満開の時でも、散り始め、

散り終わりを迎えて、葉桜であっても、

自由にモノを見ることができれば、それはいつでもすばらしい。

そのとき、自分が美しく、そして世界は本来美しいのです。

2014年2月17日月曜日

ありがたい、をそのままに

こちらインドは青空です。気温は20度くらいでしょうか。

なんと贅沢な気候なんだろうとしみじみ思います。



インド伝統のヴェーダ(知識)を学び、体験している日々ですが、

これもまたなんて贅沢な時間なんだろうと、毎回思います。

学生の時には勉強することの贅沢さなんてものは、考えませんでした。

あのときもっと勉強していれば....(泣)

時間とはもっとも貴重なもの、贅沢品です。

贅沢品を英語で言えばLuxury ラグジュアリーといいます。

Luxとは光を意味しますね。

光は太陽が与えてくれています。


太陽といえば、

「最近曇りとか雪ばかりで、もっと晴れてくれないと洗濯物が乾かない」

とか、「太陽光発電で、エコに」

などなど、ついつい損得、経済に結びつけて考えてしまうかもしれませんね。


昔の人はきっと違っていたように思います。

太陽といえば、ありがたいなあ、と感じていたので、お天道さまに手を合わせる、

ということは日常にあったのではないでしょうか。

日本昔ばなしの世界です。

太陽、光はありがたいもの、つまり贅沢品だったのです。Luxury、ラグジュアリーです。

お天道さまという言葉も、そこには太陽と空、その道、太陽の動き、季節、という意味が含まれています。

自然は贅沢品で、全てを与えてくれるもの、植物を育て、動物を育てる、ありがたいもの。

そして、時には台風や嵐や大雪、災害をおこして、命も全てを奪うもの、そして新しい命を与えるものでもありました。

私たちはこのような贅沢品をいただいたとき、

その時だけは感謝します。

自転車が初めて家に来た時。

なんて素敵なモノが内に来てくれたのだろうと大喜びしました。

でも、いつの間にか当たり前になっていきます。いつの間にか必需品へと変わります。

なければ困る。と言います。

車が初めて家に来た時、大喜びです。パパもママも子供も。

でも、いつの間にかそれは必需品へと変わります。

車が故障でもしようものならば、メンテナンスを怠ったパパに非難が集まります。

携帯電話が来た時、なんと贅沢なものだろうと思ったものです。

でも、いまや無い人は社会から外れている、というくらい必需品へと変わりました。

スマートフォンを持つこと。贅沢品だったのが、きっと今年中には必需品へと変わります。

彼氏ができたとき、大喜びして、結婚して旦那になってしばらくすると

どうなっていますか??.......(笑)


私たちは贅沢品、LuxuryをLuxuryとしておくことが、なかなかできません。

贅沢品 Luxuryを必需品 Necessitiesに変えてしまいます。

モノは必ず壊れたり、失われたり、ふるくなったりしていきます。

ですから必需品はいつも新しくする必要が出てきます。

必需品が壊れたりすれば、必ずストレスになります。

やがて必需品に振り回されるようになります。

必需品のために、稼ぎを増やさなければいけません。

老後のために貯金も必需品です。ですから貯金を増やさなけばいけません。

こうして必需品のために人生の大半は費やされることになります。


わたしたちは自分の人生をもっと自分自身のために費やす「必要」があるのではないでしょうか?

その必需品は本当に必需品ですか?

そこから気づいていくことがたくさんあります。

この必需品は実は贅沢品ではなかったでしょうか?

ありがたい、と感謝すべきものではなかったでしょうか?



私たちは自然の絶妙なバランスの中でしか生きることのできない、命です。

貴重な命、それを育む自然、エネルギーを頂いておきながら、

これらを無尽蔵にあると勘違いしていきます。

地球や宇宙を使い果たしていこうとしています。

ニュースの続報を見ていると、日本の大雪は大災害になりそうな勢いだとか。

一方で、インドでは場所にもよるでしょうが、雨が降るときに降らず、

この地でも今月は2回しか雨がない、といいます。

水道から出る水は日本のように出ることはなく、

チョロチョロと出てくるだけ。

蛇口をひねると水が出ることは贅沢なことなのだなぁとしみじみと気づきます。


Luxury 贅沢品を必需品 Necessitiesとして受け取るのではなく、

Luxury、贅沢品というのはなかなか得がたいこと、つまり「有り難い」こと、

有り難いものを有り難いものとして受け取ること。

あるがままのものを、あるがまま受け取ること。

この感性と考えにいたる過程こそが、心の成長だと思うのです。



と、ここまで読んでいただいて、

ありがとうございます(笑)

2013年11月15日金曜日

スピリチュアリティ

いま、講師のためのトレーニングを行っているのですが、真ん中に差し掛かっています。

奥深く、広がるヨーガは本当に面白く展開していき、自分たちの成長を助けてくれます。

来年に変えて、私たちはどのように成長していけるでしょうか?

ポストカード、できました。

さて、さて、

ヨーガにおいてわたしたちは二つの手段を使ってスピリチュアリティの道を進みます。

二つの手段とは①クリア(行為)②ブッディ(知性)です。

しかし、まず、そもそもこのスピリチュアリティとは何でしょうか?

スピリチュアル、というときっと3つの反応があると思います。

1つ目は、ハリーポッターのような、魔法のようなイメージです。
運命が開けて、運命の人に出会い、キラキラとした人生が始まる。
なんだか理屈はわからないけれど、すぐに効果がある呪文のようなもの。

2つ目は、あやしい科学とか、宗教のイメージです。
自分はなにかいけないものがくっついているので、
それを浄化しなくてはいけない。
自分には罪があるので、それを償わなくてはいけない。

3つ目はとにかく、こういったことは近づかない方がいい。
無視して、見ないようにしている。
でも姓名判断で、子供の名前はつける。。。。

いずれも、魔法のようなイメージですね。

ヨーガ、ヴェーダーンタではこう考えます。

スピリチュアリティとは、正しい理解、わたしとはどういう存在か、

わたしの目の前の世界、この世界の創造について、創造をしたものは何かを学び理解すること。

これがスピリチュアルということです。

科学だってスピリチュアルに入ってくるし、

さらにそれを超えたヨーガやアーユルベーダやヴェーダーンタも

やはり真実とは何かを追求している意味で、スピリチュアルです。



スピリチュアルを追求するためには、

愛、慈悲、思いやりなどの考えやこころの美しさ、健康さが必要になります。

この考えの健康さを育てるのが、ヨーガです。

本当のこと言えば、健康を育てるというより、

不健康な考え方を避ける、というのがヨーガです。


ヨーガという言葉は、Yuj=結びつける、というサンスクリット語の語源から成り立ちます。

何かを結びつけるとき、他の何かとは引き離します。

たとえば、靴のひもを結ぶときは、反対のことを引き離しています。

ん? 意味が不明?

靴のひもを結ぶときは、ひもがだらしなく垂れ下がっている状態、を引き離します。

あるいはひもがこんがらがって、隣の靴と引っかかっている状態を引き離しています。

そうではないでしょうか?

Yogaで何かと何かを結んでいく時、別の何かを引き離します。

では、考え・こころがだらしなく垂れ下がっている状態とは……

怒りや悲しみ、嫉妬、憎しみ、怨み、悲しみ、無感動…

そういった感情です。

小さいものから、大きい物まで、イライラはどこにでもあふれていて、

無関心もあふれていて、どうしたらこれらの感情から逃れられるのか、

と思うほどですが、

Yogaはどんなところにいても、どんなときでも、平安なこころを取り戻すツールになります。

ヨーガにおいてわたしたちは二つの手段を使ってスピリチュアリティの道を進みます、と

最初に書きました。

その1つ目、①クリア行為としてのツールが、

ヨーガアーサナ、クラスで行っているポーズですね。

それからプラーナーヤーマ、調気法、呼吸法なのです。

2013年10月12日土曜日

デイパックのヨーガ的持ち方

普段の姿勢が肩こりや偏頭痛、腰痛、膝痛につながります。

いまパソコンや、スマートフォンを見ている姿勢はどうなっているでしょう?

あごと肩が前にでて、背中が丸くなっていませんか?

腰が後ろに丸くなっていて、骨盤が後傾している?

肩こりがひどい人はこの姿勢になっているかもしれません。

……と、先日、そんな話をクラスでしていたのです。

そして帰り際にデイパックを背負っている人の姿勢を見ていて、

??

と思いました。

というのも、デイパックには荷物が入っています。重さがあるので、背中に引っ張られます。

ですから、上半身は前に倒れないとバランスが取れません。

背中は丸くなってしまい、肩も、頭も前に倒してしまいます。

つまり、デイパックを背負って歩いていると、

前傾になっているので、背中側の筋肉はあまり使わない。

筋肉は使わないので、背筋を伸ばしていくための力が出ないのです。

それではいけませんよね。

で、考えました。

デイパックは前に持つのがよいのではないか。

外国では後ろからの窃盗を避けるためにも、前にカバンを持つようにします。

デイパック、あるいはそれ以上のバックでさえ前に持つようにします。

そうすると、身体は前に倒れようとするので、

それに負けないように腰から上を後ろに逸らすことになります。

その時に意識的に後ろの肩甲骨を引き寄せて、胸を開いて、

あごを後ろに引いて首の後を伸ばすようにする。

で、やってみています。

今のところ、いい感じがします。

荷物も後ろから取られる心配もなくなるし(笑)

京都だと、外国人がそうして持っていることも多いので、

変な風にはみられませんしね(笑)

……と前回のクラスで話しをした方に提案してみました。

そうしたらけっこう受けてくれたので、

「これはブログに書かせていただきます」と宣言しました。

で、今回のブログは、

ヨーガの話し、普段の姿勢の話ということでした。

あ、ただし、腰が反っている方、

普段背筋が伸びている方、妊婦の方は

腰に負担がかかりますので、ご注意ください。


2013年7月17日水曜日

目には見えない大切なこと

烏丸教室オープンしましたー

が、まだ準備中のところもあり、ばたばたしています。

もう少し、もう少し、と思いながら、進んでいってます。

皆さまからお花と鉢をいただきました。うれしかったです。ありがとうございました!
さて、さて、前回のブログは

五感をさしおいて大切なこととはなにか、でした。



大切なことは目には見えない、

は非常に逆説的だとは思いませんか?

前回のブログであったように、私たちは五感に感じていることから、情報を得ています。

情報はすべて五感が土台となり、五感を元に、すべての考えが成り立ちます。

炎があれば、熱を感じ、光を感じ、煙の匂いを感じます。

次に煙を見ただけで、そこには炎があるという推測が生まれます。

また、火の気がないところからの煙であれば、雷が落ちたのか、電気がショートしたのか、

誰か火の不始末をしたのか、という推論も生まれます。

推論を重ねたもの、それらが確認されてきたものが、学問であり、

正論、正解、と言われます。

そこにも五感が土台となった考え、推理、推論があります。

どの分野の研究においても、たとえ量子力学の研究においても、

最初は研究者の五感に届く範囲のところから、考えが始まります。

1+1は目に見えて触れる範囲です。この算数から、複雑な数学もちゃんと理解されていくのです。

ですから、五感は非常に大切なのです。



にも関わらず、大切なことは目には見えない、のです。

これは、どういうことなのでしょうか。

一つの感覚はひとつの分野においての知識をもたらします。

目は光においての知識をもたらします。

逆に言えば、目は光以外の知識のおいては、知識をもたらしません。

例えば、目で匂いをかぐことはできません。

舌で光を感じることができないように。

五感は五感以外の知識をもたらすことはありません。

五感から様々な考えを生み出すことになりましたが、

それらの考えは、五感の範疇を越えていくことは非常に難しいのです。

つまり、考えやイメージは五感の範囲内に入っていて、そのイメージを超えることがあったとき、

その人は、「想像がつかない」、ということになります。

例えば、私たちは宇宙の始まりをイメージすることはできません。

その時、光もなければ、時間もなく、空間もなかったといいます。

時間や空間がなければ、音も、光も、匂いも、味も、触感もありません。

音も光も匂いも味も触感も、すべて空間と時間によって成り立っています。

ですから、空間や時間がない宇宙の始まりはイメージ出来ません。

イメージ出来ないけれど、宇宙の始まりは私たちのこの宇宙の土台となっています。

その土台があることで、この五感に届く宇宙が存在できます。


ヨーガではマントラを唱えたりします。

マントラには意味があり、音があります。

そこには祈りがあり、真実があり、効果、結果が生まれます。

どうしてそんな結果が生まれるのか、原因と結果の結びつきは目には見えません。

宇宙の始まりも目には見えないけれど、マントラの力も目には見えません。

ですが盲目的にそれを信じているわけではありません。

疑いを持つことも許されます。

けれども、過去の賢者たち、先生たちが教え継いできた伝統について、否定せず、

疑いを少し棚上げして、真似してみることはできます。

もし私が五感に届く範疇のことしか知らないのだ、

イメージを超えたことは考えることもできない、ということを知っていれば、

謙虚になって伝統を尊重することができます。



先日、とある仕事中に、

口の中でボソボソとマントラを唱えていました。

ヨーガの講師をしていたわけではなく、接客やパソコン業務などの裏方です。

誰にも聞こえるはずもない小声だったのですが、

前に座っていた中国人通訳のスタッフが、ガバっと振り返って、

「山口さん、いまお経を唱えているでしょ!」とニッコリしながら言うのです。

驚くと、ねえ、やっぱり、と答えて、

「彼女もわかってるよ」と隣の中国人通訳のスタッフを指さしたのです。

その人は霊感が強いのだそう。


よく話を聞いてみれば、二人は中国系仏教を信仰しているとのことで、

人を傷つけないこと、人のために良いことをすること、お経を唱えること、

などを実践しているのだそうです。


中国人の方と仕事をする機会が多いのですが、

たいていは、自分が傷つかないようにすること、

自分のためになることをすること、

お金のためになんでもすること、

が当たり前になっている事が多いのです。


「私の宗教が良くて、他の宗教を信じているのだめ、といって人を攻撃することはいけません」

と言うので、ますますびっくりしました。

中国はチベットをはじめとする少数民族を弾圧する政策を何十年も続けています。

彼女たちの考えと今の中国政府はまるっきり逆かもしれません。



かつて仏教が栄えた中国。

老子・荘子、道教、孔子の儒教を生んだ中国。

  老荘思想はこの宇宙・自然には目には見えない法則があるということ、

  その法則のもとに人間にも法則がある、という考えです。

  儒教はWikipediaによれば、仁、つまり心=考えを大事にしており、

  「人の財産は家柄、財産、コネよりもむしろ教育と徳性によって決められるべきだ」

  という考えだそうです。これらも目には見えない心が大切だという教えです。



今回であった中国のスタッフたち、

かつての中国はみなこのようだったのかもしれませんね。


ニュースではあまりいい話題がない最近ですが、

どの国でも目には見えないものの大切さがもっと理解されていったならば、

この地球はもっと素敵だろうな、と思うのです。

2013年7月8日月曜日

目には見えないけれど

サン=テグジュペリの『星の王子さま』は何度読んでも、不思議な魅力のある本でした。

こどものほうが素直に読めるかもしれませんが、出会ったのが大学生だったので、

なんだろう、これは、と困惑しながら読んだ気がします。

そのなかで、

大切なことは、目には見えないんだよ

Le plus important est invisible

という言葉がありました。

フランス語を直訳すれば、「最も大事なことは目に見えない」となります。

あ、直訳もほとんど変わらないですね。



そう、大事なことは目に見えるものではない、とサン=テグジュペリは作品の中で言います。

目には見えないもの、の反対は、「目に見えるもの」。ですね。

では逆に言えば、目に見えることは大事ではないのか。

そういう意味がふくまれていたのでしょうか。


ここで目に見えるものとは、目だけではありません、

触覚や味覚や聴覚や嗅覚など五感に届くもの、ということです。

私たちにとって五感に届くものは、すべての情報の基礎になります。

五感から得た情報が土台となって、そこから「考え」が始まります。


すべての「考え」は五感によって得られた情報からしか、始まりません。

たとえば、私は親に食べ物を食べさせてもらっている赤ん坊であるとします。

目の前に白い色を視覚的に知ります。

触れると弾力があり、ある程度の固形のものであることを知ります。

口に含むと味があり、食べられるものであることを知ります。

香りが、さらに体にとって必要なものであることを知らせてくれます。

弾力のある固形物で味と香りがありという情報が五感によって知られます。

そこに名前があることを知ります。「うどん」といいます。

「うどん」は「そば」や「パスタ」と同じ仲間で、食べられるものであること、を知ります。

そのうちに「うどん」という音だけで、自分の頭のなかには、ある程度の具体性を持った

考え、感情や欲望が生まれます。

五感がすべての情報を与えてくれたおかげで、考えが生まれました。

ですから、五感がなければ、考えすら生まれません。

目に見える、ということはとても大事ですよね。


ではそんな大事な五感をさしおいて、それを超える大事なことがある、

というのがサン=テグジュペリの言葉です。

それは一体どういうことなんでしょうか?


続きはまた次回に。


さて、昨日は烏丸教室のプレ・オープンクラス初日でした。

ありがたいことに初めての方がいらしてくれて、無事に第一回目のクラスをさせて頂きました。

というか、Nana先生のクラスに参加させてもらって、久しぶりにヨーガクラスを

受けることができました。

最後のリラクゼーションポーズ=シャバーサナは、くまモン畳さんのお陰で、意識がなく、

久しぶりに、いったい私は誰、ここはどこ?

Who Am I 瞑想でした(笑)

ようやく、少しずつ準備ができてきて、本当に感謝です。


シュリーと書かれている砂マンダラです
インドにて

2013年5月31日金曜日

結婚はヨーガ?

明日は親戚の結婚式があります。
6月ですからジューン・ブライドですね。
6月の花嫁、です。

ヨーロッパでは6月の花嫁は幸せになれるといういくつかの伝説があるそうです。
なかでも素敵な伝説では、6月Juneはローマ神話で結婚をつかさどる女神である「JUNO」に由来し、結婚や女性の権利を守護することから、6月の花嫁は幸せになれるんだそうですよ。

インドではお月様は、チャンドラという女神です。チャンドラはまた、ヴァルナともいい、月は神々のお酒の杯といわれます。
お酒、神酒ソーマも月の神様。
ソーマとはアムリタ、不死の飲み物のことを指しますね。

このソーマはお酒に似たものではなかったか、といわれますが、特定することは困難だそうです。考えられるのは、日本でも神社での神事や、天皇家の祭り事では大麻を使ったりしていますが、そのような神聖な薬草やきのこだったかもしれません。


なんにせよ、霊薬であり、神様と交流するための道具だったのでしょう。

さて、昔はこのソーマやアムルタ、アムリタのことを、一回飲んでみたいなぁ、なんて考えたりしたものでした。

不死、というところに惹かれていたのではなく、神様と交流することができるんじゃないのか?というところが興味深かったのです。


そういった薬草の話は世界中の古い文明にはたくさんあって、直接神様と交流していた人々がいて、きっと現代人には及びもつかない智慧を得ていたんだろうと想像するのです。
大阪万博記念公園には民族学博物館がありますが、たくさんの展示物を見ればその豊かな智慧が溢れかえっているのが理解出来ます。
個人的には現代美術を見ているよりも、深い智慧が感じられると思うのですが、どうでしょうか……。


さて、アムリタとはなにか……。

アムリタってどこかに生えているすっごいキノコだったり、
洞窟の奥につながっている地下都市の中の秘宝だったり、
そんなことを想像していたのですけれど、そうじゃなかったんです(笑)

ヴェーダーンタを学ぶと、明白になります。
アムリタは不死です。
死なないということは、生まれもしない、ということです。

生まれることなく、死ぬことでもない、
この自分の身体や考えからは自由なものです。それこそアムリタです。

この自分の体や考えは生まれて来ました。
成長し、一瞬たりとも止まることなく変化し続けて、やがで衰えて、
そして死んでしまいます。
生まれてきたものは、必ず死にます。
生まれてきたんだけれども、死なないもの、死ななくなったもの、
というものはあるでしょうか?

そんなものは、この宇宙を探してみてもどこにもありません。

いやいや、私の身体を構成している原子は死なないでしょう?
エネルギーは形を変えるけれど、ずっとありつつけるのでは……?

自分たちの最小単位である素粒子、これはエネルギーですが、素粒子だって宇宙の始まりに生まれてきました。
ですから、素粒子だって、この宇宙だって始まりがあります。

でも原子や素粒子にも終わりがあります。宇宙は最後は一つの収縮をむかえてなくなるか、
泡が次から次へとはじけるようになるのか、わかりませんが、
宇宙も素粒子も始まりがあり、終わりがあります。

ですから、アムリタではないのです。

であれば、アムリタはどこにもないかもしれません。
生まれず、死なないもの、そんなものない!?


ここからは科学の世界を超えてしまいます。
ヴェーダ、ヴェーダーンタの世界です。

この宇宙は何も無いところから、突然生まれたのでしょうか?
何も無いところから100万円を出してみることはできるでしょうか?
できないですよね。出してみたい気持ちはありますが(笑)
なにかがなければ、生まれることはできません。

100万円を出してみたい気持ちは「あった」りしたように、
このなにか「ある」があるので、そこから生まれることができます。

この「ある」こそアムリタです。

ある、とは存在のことです。

非存在から、存在は生まれません。

存在=ある、が無ければ、宇宙は始まりません。
そして、この「ある」は誰がそれを言うのでしょうか?
ある、というとき意識があります。
意識があるから、「ある」といいます。
意識って何?
意識って誰?
この意識こそ、「わたし」です。
わたしがわたしである、という意識がありますよね。
ないですか?
なければ、このブログを読んではいないですよね。
あるいは、読もうとしているのに、目が閉じていってしまっていたとか(笑)

意識は、考えの元にあるものです。
このわたしは身体でもなく、考えでもない、わたし=意識です。

このわたし=意識は生まれもしなければ、死ぬこともありません。

え?

わたしは死なないの?
だって生まれてきたし、わたしのおばあちゃんだって死んでいったじゃないですか?

そう。
わたしのことを身体だと考えている時、
このわたしは生まれますし、死にます。

けれども、わたしが体だと考えていない時でも、このわたしはあります。
例えば、夢のなかのように。

夢のなかではわたしはこの身体から自由です。
職業からも自由です。役割からも自由です。


けれども、夢のなかでは自分の記憶から生み出した世界の中にいて、
そしてそこに自分自身を置きます。
夢の中では夢の体を持ちます。
そして、その自分自身で創りだした環境に縛られて、夢の中の役割に縛られます。

わたしは、夢のなかにいる時、自分は夢の登場人物を装っていることを忘れて、夢そのものの中に閉じ込められます。
起きている世界では会社員をしていても、
夢の中では学生だったりします。
そしてなぜか学校ではなく、会社に遅れそうになって電車に飛び乗って、走っていきます。
もうだめだー、テストもゼロ点だー
と思ったら、はっと気が付きます。
これは夢だったのだと。わたしは夢の世界、夢の体から自由であることを知ります。

それに似て、起きている時、自分は仕事、つまり役割を自分だと思い、身体を自分だと思います。

仕事のあいだであったり、学校であったり、地域の中であったり、
人と人とのつながりにおける役割は、私自身でしょうか?

いいえ。


役割も、私自身ではなく、自分が所有し、使うことができる道具です。
あるいは、一つの自分の一部であり、一つの表現です。
自分自身と役割とは別物です。
舞台で演じている役者は、役を大事に演じていますが、役そのものになりきっていますが、自分自身を忘れることはありません。
「オーロミオ、おージュリエット」
もし自分が役であることを忘れてしまったら、舞台が終わっても、「おージュリエット」
と言ってしまいます。
そうしたら、
ジュリエット役の人には、バシッとどつかれます。
そこでロミオは バタッと倒れるしかない
監督には役を下ろされるでしょう。
あまりにも役を自分だと勘違いしたら、問題なのです(笑)


結婚は大切な役割を持つことです。
男であり、女であります。
夫であり、妻です。
父であり、母です。
役割の中で大切な義務が生まれます。
この役割にはいいも悪いもありません。

いいも悪いも無いけれど、
役割には正しい行い、と正しくない行いがあります。
正しいとは、すべての関係の中で、環境の中で他を傷つけず、自分を大切にするという行いをするということです。正しくない行いとは、環境の中で他を傷つけ、自分をだめにする、卑下することです。
正しい行いをすること、正しい役割を演じていくためには、この身体も考えも、周りの人の考えも、身体も、この環境も、世界も、地球も、意識を持っている、生命であることを理解することが必要です。生命はわたし個人の小さな考えで生まれるものではありません。
無秩序に、ばらばらにあるものが、たまたまデザインされて、機能を持って生まれることはありません。その背後には作者が必ずいます。
この身体を創りだした作者がいます。

作者とはだれ?
お父さんやお母さんが作者でしょうか?
いいえ、その父や母もまた、創りだされたものです。
私たちがこの背後にある作者を理解していくこと。
生命を大切に観察していくこと。
そこには作者がいます。
その作者のことを昔の人は、たくさんの尊敬の言葉で言いました。
チャンドラ、ヴァルナ、ソーマ、お月様。
ヴァーユー、風の神様。スーリア、太陽の神様。プルティヴィ、ガイア、地球の神様……

すべての世界、すべてのこの私の身体も心も、尊敬されるべき作者の現れです。
この見え方、理解が、結婚によってよりリアルになってきます。
最終的に、自分は夢のなかに閉じ込められているのではなく、
自分は夢から自由であることを知る、
つまり、私自身は生まれもしない、死にもしない、意識、不死のアムリタである、と理解するための大切な生き方。
この生き方こそ、本当の結婚であり、ヨーガです。

結婚には、ですから、まずは相手を傷つけないこと。
自分を尊重すること。そのような正しい役を演じていくことがとても大事です。
そして、お互いが尊重、尊敬の気持ちをはぐくんでいくこと。

さらに、社会に対しても同じようにしていくこと。
環境こそ自分たちを生かしてくれていることを知ること。
木が生きているから、森があるのではなく。
森があるから、木が生きていける、という見え方を理解していくこと。
この大きな森は、さらに大きなこの大地であり、大船原であり、空であり、風であり、
太陽であり、星々であり、空間であり、それらが私たちをはぐくんでくれていることに
感謝をささげる気持ちを育てること。
仕事、役割は大きな作者、存在、生きる宇宙に対して行う、捧げものです。
結果は、その宇宙からのプレゼント、いただいた贈り物です。
どんな結果も、つらいことも。贈り物。
自分のこの小さな考えでは、狭い視野では、贈り物には見えていないかもしれないけれど。
いつかそれがプレゼントだと見えるようになりますように。
あれ?お祈りになってますね。


もちろん、結婚していなくても、ヨーガは可能です。
 あれ?いままでの話をひっくり返しているみたいですね(笑)


2013年4月17日水曜日

輝きと喜び

リシケシにいます。

一カ月以上になりました。そして、明日の飛行機で帰る今になって、

ブログを書いてみます。パッキングしなきゃいけないのに。

まず、チェータナ先生、

スワミになられた、チェータナンダジに感謝しています。

チェータナンダジのお陰で、わたしたちがここで勉強出来ました。

そしてスワミ・ダヤナンダジに感謝しています。

何百人もの人を笑いの渦に巻き込む力と、

思いやりに溢れた優しさと

多くの人を自然=イーシュワラに戻してくれる偉大な智慧。

感謝しています。

「アスティ、バーティ、プリヤン!」

スワミジの声が響きます。プリヤンの時は1オクターブ高く(笑)

私たちは、すべての源である存在意識=アスティであり、

すべての認識を輝かせる光=バーティであり、

すべてのかぎりのない喜び=プリヤ

であることを、本当に気づかせてくれます。

いつまでも、いつまでも教えが学び継がれますように


アシュラムの天使、われらのてーちゃん

2013年2月18日月曜日

アッビヤーサ 繰り返していくこと

今月は土-tuchi-ホームページを作り直していました。

ホームページはもう5年目だったのかな?

いままで見ていただいてありがとうございました。

ヨーガ堂・土-tsuchi-も少しずつ変化しています。

ホームページもそれにともなって変化していくべきだろうと思ったのです。

音楽がついているページがありますが、押し付けがましくなってませんか?

本当は、ホームページに音楽は要らない、と思っているのです。

会社で休み時間にサイトを開いたりして、そしたら急に音楽が鳴って、

周りに聞こえたりすると迷惑ですよね。

僕も経験があります。

もしそんなことになったら、ごめんなさい。

http://yoga-do-tsuchi.com/news/

上のページをブックマークしておくと音楽なしです。


今回の音源はなんだかホッとして、

昔好きで何度も聞いていた音楽に少し似ていて、、、、


竹村延和さんの時計台の朝ですね。

いま聞いてみたら、それほど似ていないですね。あはは

ホームページの方の音楽は、試験的に当分の間つけておきます。



さて、土-tsuchi-は社会的に不器用な二人の講師によってゆるゆると進んでいます。

ヨーガの本質へ向かって行こうとしていった時に、ヴェーダーンタに出会い、

そのヴェーダーンタに出会うことで、アーユルヴェーダが深く染みてきたんではないかな、

そう僕たちは考えています。



ヴェーダーンタはすべてのモノゴトの本質の話ですが、

そこに向かうためにはどうしてもこころと向き合います。

わたしたちはモノゴトを直接には見ておらず、

間に入ってくる考えによって、モノゴトを見ています。

ですから、モノゴトを見るためには、まず考えを見なければいけないのです。



目には見えず、触ることもできず、匂いをかぐことも、味わうことも、聞くこともない、

かすかな物質、考え=こころ。(ヨーガ&ヴェーダンタではこころも物質です)

けれども、こころがあるから目が見えて、触れて、匂いを嗅いで、味わい、聞きます。

こころはこの五感を持つ肉体の背後にあって、それを支えています。

五感、は神経や脳で起きている信号のやりとりで、目に見える物質の世界の力がありますが、

さらにその背後にある見えない、かすかな物質であるこころが支えているので五感となります。

その五感=こころには、さらにその背後にある考え=記憶、感情、知識、自我があります。

考え=記憶、感情、知識、自我がどこかに行っている時、

たとえば電車の中で風景は目に飛び込んでいるのに、

何も見ていない、何も聞いていない、ということがあります。



外から飛び込んでくる情報があります。

こころがそこにあると、五感がキャッチして、

さらにそれを自分の考えのフィルターに通します。

そうするとただの光のつぶつぶだったものが、

記憶と照らしあわせて、最後に「わたし=自我」が、こう発言するのです。

「あーあれは学生時代の友人だね」(と「わたし・自我」は言う)

でもよく見てみれば、学生時代の友人はそこには存在していません。

体の中の原子は1年で95%入れ替わる、という話を聞いたことがあります。

本当かどうかは知りませんが。

すべての細胞は7年で生まれ変わる。というのも聞いたことがあります。

きっとそうなのでしょう。

ですから、学生時代が7年前だったら、肉体的にはもう同じ人ではないのです。

そういうわたしだって、もはや昔の肉体は手放してしまっています。

こころだってそうですよね。考えはつぎつぎ起こります。

(考えの量は1日に数万ある、だったかな?

そして新しい考えは1%くらい、だったような。また調べておきます。)

体と比べて考えのほうが変わりにくいかもしれませんね。

それでも変わっていきます。

考えも体も変化し続けています。

でも、わたしは、「あーあれは学生時代の友人だね」と認識します。

この時、私の記憶を見てます。

わたしは私の考えを見ているのです。

しかも、相手もわたしを見ていません。

その人はその人にある考えを見ます。相手の中にある記憶、それを見て、

「やー久しぶり」と言います。

その相手はいまのわたしをこれっぽっちも知らないのです。



わたしは、外の世界をありのまま見ている、と思っています。

けれども、見ているのは自分の考え、こころです。



ここは大きな違いですよね。


さらに、わたしはわたし自身をよく見ている、と思っています。

けれども、見ているのはわたしと思っているわたし、

わたしの考えを見ています。わたしという観念を見ています。


ありのままのわたしを見ることをしていません。

ありのままのわたしってなに?

というのがヴェーダーンタです。


いろんな考え、観念が染み付いていますから、

この世界に対しても、観念のフィルターを通して見ています。

世界を見ているようで、自分の考えを見てしまいます。


もし、世界がつまらなく見えていたら、

それは自分の心がつまらない考えを持っているからかもしれません。

自分自身がダメに見えていたら、

自分の考えがダメな考えになっているからです。


考えは考え方の訓練が必要です。

アーサナはアーサナの訓練が必要なように。

何度も何度も繰り返していくこと。そして、間違えることも勉強ですよね。

ダメな考えもいい考えも、それもすべて考えです。

それらの考えの後ろにも、大事な考えが潜んでいます。

なんども掘り起こして、自分の考えの奥に潜んでいる、大切な記憶を見つけて、

そして世界と私にとって調和の取れる考え、客観的な考え、思いやりのある考えを

身に着けていくことは、長い間かかってもやり遂げるだけの価値のあることだと思います。


さて、来週からインドです。

また、考えの訓練してきますね。